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「さてはお前、天使だろ」
直球すぎたかなと思いながらも尚樹は少年の顔をまっすぐ見た。思ったことを口にするのはなかなか気持ちがいいものだ。会社では周りに同調するのが常。デートでは彼女の希望を優先するのが尚樹にとっては当たり前だった。
「違うよ。僕は何者でもない。それってお金も恋人も失ったおじさんの現状よりたぶんつらいよ?」
少年は少し物憂げに首を傾げて見せ、それから開襟の白シャツのボタンをひとつずつゆっくりと外し始めた。
「ちょちょちょ、なになになに!」
目の前にある予測不能な現実への戸惑いと好奇心が尚樹の心を激しく揺さぶった。
「いいから見てよ」
「いや、だから! 何を!」
「これなんだけど」
はらりと白シャツがはだけ、肩甲骨の辺りから折り畳まれた純白の羽が現れた。しかしそれは。
「なんで右だけ?」
「ねぇ、ヘンテコでしょう?」
少年が姿勢を正すと大きく立派な翼がばさりと音を立て一度羽ばたいた。しかしそれは右だけで、左は蕾を思わせるような小さな隆起にしか見えなかった。
「天使にはなれず、悪魔には無視され、人間には戻れないんだよ」
少年は微かに微笑むと、恥ずかしそうにシャツを直した。
「ねぇ、僕の過去は振り返るにはあまりにも短いし、かといって未来を夢見るのは滑稽なだけ。どちらも自分で手放してしまったから文句も言えないし」
少年がそんな大人びたことを呟くものだから、尚樹はいたたまれなくなった。
「決めつけて悪かったよ、ごめん」
「謝ることないよ、大袈裟」
「でも君は天使になれるんじゃないか?」
「えー、なんで?」
「なれよ」
自分のようなどうしようもない人間をまっとうな道へ導く。そうやって徳を積むことが、少年の傷ついた魂を慰め磨くことに繋がるかもしれないのだ。
「でも、僕のためにおじさんの予定を狂わすのってなんか悪いし」
「おいコラ潔く死ねってか!」
「冗談に決まってるでしょ! あとツバ飛ばしすぎだから」
少年は陽だまりのなかではしゃぐ仔犬と同じくらい楽しそうに笑った。
「今のところおじさんには明日も明後日も来週も来年もくるんだね。素敵だね」
「いいぞ少年カモン! 俺をもっと励ませ! じゃなきゃ俺は飛ぶぞ。あとおじさん呼びやめて」
死ぬ気などもう、とうに失せていたが、尚樹はフェンスにしがみつきガシガシと登り始めた。
「ねぇ、飛ぶのは金曜を待ってからにしたら?」
「金曜? なんで?」
金網が軋む音が止んで、風がびゅうと吹いた。
「だってさ、なんかクジ買ってるでしょ。当選発表毎週金曜のやつ」
「ぬぉー! ロト! もしかして当たって」
「いやそれは知らないけど」
「知らんのかい!」
尚樹は慌てて尻ポケットの財布をまさぐった。確かにその中に購入した数枚を入れていた。
「あれ?」
「ん?」
「ない……どっかに落とした、財布」
「え」
ガシャンガシャンガッシャンと、猛烈な勢いで尚樹はフェンスを登り始めた。
「もう死ぬ! 絶対死ぬ! 死ぬなら今しかねぇ!」
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