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 新宿歌舞伎町の路地裏で、数人の酔った若者がたむろしている。ガムのようなものを噛みながら、時折、奇声をあげている。頭が揺れるのかしきりに顔に手をやり、紅潮した頬を平手で叩いている。やがて目が潤んだかと思うと、急に据わったようになり、眉間に皺を寄せて、若者の一人がペッと唾を吐いた。アスファルトに血しぶきのような唾が飛ぶ。靴底で踏みつけると赤黒く染まった。妙にハイテンションになった男が意味不明な言葉を叫ぶ。奇声。すれ違う者に故意に肩でぶつかろうとする。それを見ていた周りの仲間が薄気味の悪い笑みを浮かべる。通行人は見て見ぬ振りをする。因縁でもつけられたて堪らぬといった具合に、足早に通り過ぎて行く。  以前、北陽会の麻薬取引の海外ルートは、ハダケンゴが取り仕切っていた。ハダケンゴは北陽会とは直接盃を交わしていなかったが、ハダに国内外のAV関連事業を好きにやらせるかわりに、リスクのある海外との麻薬取引をさせていた。ハダはとにかく頭の切れる男だった。KO大学の経済学部を出て、すぐにベンチャー企業を立ち上げた程のやり手である。すぐに台湾とのルートを開拓し、自らのビジネスと絡めて北陽会の片棒も担いだ。しかしハダケンゴは香港との取引を故意に失敗させ、台湾に逃れた。その後は北陽会東京本部、舎弟頭のムラナカリョウジがドラッグを取り仕切っている。ハダが取り扱っていた頃は例え捜査の手が及んでも、ハダの北華貿易が被れば済む話だったが、今はそうもいかなくなった。北陽会本部が直接海外との取引をするのはリスクが高かった。そこでハダとも顔見知りだった芸能プロダクション社長のヤマザキカズオに目を付けた。芸能界のワルという奴は、新種のドラッグに目が無い。昔から絶対の秘密厳守を要求される芸能人にはドラッグが高く売れる。芸能人価格というものが巷にはあり、一般人の二から三倍の値段で売買される。その売人の元締めとしてヤマザキカズオに触手を伸ばしていた。  ハダケンゴが台湾に逃亡してからは台湾ルートが消失し、頼みは香港ルートのみとなっていた。いずれはこのヤマザキの会社で、直接香港との取引をさせるつもりだった。今、まだ都内で出回っているブラッドの数は少ない。ハダとの取引に失敗し、不信感を持った香港のΣ(シグマ)から、まだ色好い返事が得られていない。それでも試しにまわしてもらったブラッドの売れ行きは上々で、この真赤なチューインガムのような粒が流行るのは目に見えていた。このブラッドは、台湾では合法である「ビンロウ」を素にして作られている。そのエキスを精製し、成分をトマトジュースに溶かして缶に入れ、堂々と首都圏の港から輸入していた時期があるが、ハダの一件で摘発されてからそうもいかなくなった。以前はそのトマトジュースを忍野にある施設に運び錠剤に加工していた。その施設も摘発されたが、北陽会はガサ入れ直前に富士吉田市と隣接する都留市に急遽施設を移し、最低限のブラッドを製造できるようにしていた。  現在、都内のドラッグはこの北陽会が握っている「ブラッド」と、独自の呉姉妹とエビサワユウジのコミュニティーを基盤として力をつけた阿修羅の「Queens Ecstasy」の二種類であった。今でもイラン人などにより、密かにコカインなどが深夜のクラブや路地裏で密売されてはいるが、北陽会の目の届かないところで外国人同士が取引しているに過ぎず、日本人の多くは手を出していない。それに比べてブラッドやクイーンズエクスタシーは、ポンプやあぶりを必要としない手軽さと証拠隠滅のし易さがウケて、日本人の若者に急速に拡がりつつあった。特にブラッドは赤い粒を口に入れ、唾液と混ぜ合わせるだけで即効性があり、ファッション感覚で試す者が後を絶たない。唾液を吐いた時、血を吐いたように見えることから巷でブラッド(血)と呼ばれるが、その血を吐く仕草が若者たちの間で人気を集めている。それに対しクイーンズエクスタシーは風俗街を中心に徐々に拡がって行った。風俗でセックスする際に併せて使用することで、特に中年の男性を中心に中毒者が多かった。  警視庁万世橋署では数年前から実態を調査していたが、ブラッドについてはハダケンゴの海外逃亡を許してしまった。北陽会の動きを注視してはいるが、厚生労働省の麻取りとの兼ね合いもあり、確たる証拠を掴み切れずにいた。逆にクイーンズエクスタシーに関しては、すでに池袋を拠点に風俗店やクラブを経営する張麗君という女の存在を確認していた。以前、タザキショウが、まだ秋葉原交番勤務時代に単独調査したことがある人物である。今はその人物の本名が呉美華であることがわかっている。江戸川区出身でレディースの総長を引退後に、池袋でクラブを経営し始めたことまではわかっているが、その後ろ盾になっている者の正体は不明のままである。ショウも捜査を続けたが、何故か池袋方面の捜査が上手くはかどらずにいた。張麗君の身辺を捜査すると必ず何らかの邪魔が入った。池袋の北口は伏魔殿のようだと感じる。捜査し難さは、管轄外であるからとは異なる性質のものだ。それが何であるかはわからない。都内の裏側で、にわかに「ブラッド」VS「クイーンズエクスタシー」のシェア戦争が勃発しようとしていた。
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