海上

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 突風が背を駆け抜けた。   それは腹這いになっている少女の感覚からの印象であり、実際は少女の背に乗っていた妖怪が隣にいた妖怪を巻き込んで何かに吹っ飛ばされていた。壁にたたきつけられた二体は雑巾のようにのびてしまった。妖怪だから気絶程度で済んでいるが、人間なら即死するような衝撃だった。  一連の出来事を意識の端でかろうじて拾い集めた少女を、束の間の驚愕が満たした。 「ぎゃあぎゃあうるせえ。痛がるか、死ぬか、悔しがるかどれかにしろ」  容赦なく振り下ろされる不快感を帯びた声。その声の元へ、少女は恐る恐る顔を上げた。  裾がぼろぼろになった柚子の葉のような深い緑色の着物。そこから白い肢体が覗く。暗闇と同化する黒い髪の隙間から少女を見下ろす目は刺さるように冷たい。目の前には、少年と青年の中間くらいの男性が柳のようにゆらりと立っていた。  それよりも少女の目線は彼の手元に注目していた。  ……シャベル?  大きな槍に見えたそれは鈍く光るシャベルだった。いや正しくはスコップだったかもしれない。ともかくこの得物で妖怪たちを吹き飛ばしたのだろう。スプーンのような先端には黄土色の液体が付着して滴っていた。 「……何ぼうっとしてるんだ。逃げたいなら早く逃げろ」  ぶっきらぼうな物言いではあるが、それもそうだと少女は立ち上がろうとする。  だが、すぐに地べたにべちゃりと寝転がってしまった。  そういえば足を捻られたのだった。痛みの元を確認すると、やはりおよそ人体には不可能な方向へアグレッシブに曲がっていた。  改めてその光景を目にすると、先ほどまで驚きで麻痺していた痛みが蘇ってきた。  ひぃ、痛い。痛い。多分このまま死ぬ。 「だからうるせえって言ってるだろ。逃げれない、動けないならそのままあいつらに食われちまえ」  おそらくは先ほどの彼と妖怪のひと騒ぎを聞きつけたのだろう。蹴破られた入り口から別の妖怪が入ってくる。毛玉のような毛むくじゃらの生き物、赤い髪の子供のように見えるもの、背丈が大きすぎて入り口で詰まっている大男、そこからどんな妖怪が集まってきたのか見るのをやめた。口々に何かを言っているが、内容なんて気にならなかった。誰にどう扱われてもよい未来が見えないのは確かだろう。 「モテモテだな、お前」  これほどうれしくないモテなどあってたまるのだろうか。いや、ない! 「じゃあやることは一つだな」  男は落ち着き払ってそう言うと、シャベルの柄部を両手で握り直した。そして見られただけで切られてしまいそうな細い眼を妖怪たちへ向ける。これが殺気というものか、と少女は雰囲気で察した。  目線に一瞬ひるんだ妖怪たちであったが、先頭にいた二足歩行のクマのような妖怪が少女に向かって飛び出していった。奇声とも絶叫ともとれる大声を上げながら、バネで弾かれたかのごとく少女との距離を一気に詰める。まだ満足に動けない少女はその妖怪にとってまな板の上の鯉、もといまな板の上の人間である。少女の視界で獣がどんどん大きくなる。  しかしそんな狩る者とエサの間に、例のシャベルの男が割って入った。少女の視界を覆うように立ちはだかった男はネジのように体を目いっぱい捻って―― 「弾けろ豚がぁ!」  シャベルで豪快にフルスイングをかました。手にした獲物の起動が地面と水平になる、ボールを確実に捉えやすい振り抜きの動作。古いスポーツ雑誌で見たことがあったような気がする、綺麗な姿勢だった。  彼が振りぬいたシャベルの先端のさじ部は迫ってきた妖怪の顔面を直撃し、ピンポン玉のように吹き飛んだ獣の妖怪は壁に激突した。あまりの衝撃に劇場内が小さく揺れる。壁の照明が割れ、その破片とともに劣化してはがれた天井の一部がパラパラと降り注ぐ。  その光景をみた妖怪たちは目が飛び出るほど驚いた。目がついていない妖怪は腰を抜かした。  少女は驚いているというよりも、今目の前で起きていることに理解が追い付かなかった。 「今だな」  ……えっ?  その場で唯一呆けていなかったシャベルの男が素早く動いた。少女の腹部に腕を滑り込ませてぐいと持ち上げ、まるで子犬でも抱えているかのように軽快に駆け出す。細い腕からは想像もできないような力だった。  彼の疾走に合わせて少女の視界が揺れる。ぐるぐる回る。床やら天井やら照明やらが上へ下へ。そして、気のせいか大海原が覗く壁の大穴が近付いているような。  まさかとシャベルの男の顔を見る間もなく、少女の身体がガクンと大きく揺れた。遅れて動き出した妖怪たちの意味を持たない罵声を背に受け、壊れた壁の縁で男は走った勢いのまま身体を大きく屈ませ、羽ばたくように大穴から船の外に飛び出したのだ。  アホか――!  潮風混じりの風圧をいやというほど肌に受けながら二人は落下していく。下からは二十メートル以上は離れていたはずの紺碧の大地がどんどん迫ってくる。このまま海面にぶつかれば、潰れたトマトそっくりな人体マッシュの出来上がりは不可避の事実。やっぱり死ぬんじゃないか。少女は怒涛の展開の中でそれだけを悟る。  海面に激突する直前、少女の視界はふっと静かに暗転した。
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