金魚草

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身体を起こし顔を左へ向けると、温もりの残るベッドの窪みに、真っ白な金魚草が咲いていた。 今から少し前、あるニュースが国内外のメディアというメディアの話題を総ざらいした。歌舞伎町に突如として花畑が出現したのだ。 売春窟の洗い場、カラオケの個室、飛び降り自殺の名所であるビルの屋上、あらゆる場所に色とりどりの花が咲き乱れた。事態がこれで済んでいれば、これは世界中の植物学者と茶の間を賑わす素敵な怪現象であっただろう。問題は、ニュース前夜に歌舞伎町へ遊びに行ったサラリーマン、働いていたウェイトレス、ホスト、キャバクラ嬢、娼婦達が忽然と姿を消してしまったこと、そして日を追うごとに花畑と行方不明者が東京全体に侵食し始めたことだった。 三日目には侵食は霞ヶ関まで進んだ。言い換えるならば、日本の国としての機能が停止した。それからの諸外国の対応は迅速だった。飛行機、船、日本とのあらゆる交通が絶たれ、輸出入も、国連の某国への制裁措置が可愛らしいくらいにすっぱりと絶たれた。日本は地理的にだけでなく、政治的に、社会的に、文明的に、名実ともに極東の孤島になった。通貨の意味はなくなり、飢餓が襲い、植物になるのを待たずして亡くなる人が大勢いた。だが腐乱した死体は重ならず、街は以前にも増して清潔だった。死んだ人間も、一日経たぬうちに可憐な花に姿を変えるから、だった。 これを感染症と呼ぶのが相応しいならばの話だが、感染経路は不明、感染してからの進行速度も不明だった。むしろ人の移動には関係なく、植物化はエリアごとに進んでいるようにも思われた。1週間が経った時点で、私の行動範囲に生きている人間は見当たらなかった。その時点で、都内どころか国内に生存者がいる可能性はほぼ絶望的なこと、最後まで放送されていたラジオも2日前に止まってしまったことを教えてくれたのは、無人のスーパーへ食材を漁りに行った時に出会ったモリオカだった。ほぼ無人になった日本で私とモリオカが出会ったのはほぼ奇跡だった。 その日から、モリオカは私の家に転がり込んだ。手際よく料理をこなし、郊外の土手まで出かけて洗濯物を済まし、私には手ひとつ出さない。2人でスーパーで何故か好き放題に茂っているトマトを収穫し、(かつて人間だった可能性は考えないよう努めた)近所のアイビーが茂るブックオフで好きな漫画をイッキ読みし、野良猫と日向ぼっこをする毎日が続いた。モリオカは同じ生き物とは思えないほどおしゃべりで、電波メディアが完全に機能停止していても退屈することは無かった。 日が経つにつれて雨の日が多くなり、そして食事が必要なくなった。空腹が訪れなくなったのだ。植物化に要している時間は現時点で私たちが最長だろうから、そこらに咲く花に、「あなた植物になる前、空腹という概念がなくなりましたか」と聞く訳にも行かないが、おそらく体の機能が植物のそれに近づいているのだろう。空腹が無くなって四日目、つまり昨日、モリオカは自分が連続殺人指名手配犯であることを私に告げた。植物化から、丁度100日が経過していた。 知っていた。モリオカは顔写真付きで指名手配されていたし、 なによりモリオカが殺した人間のうちの一人は私の母親だった。母の死後、父は現実を受け入れられず自室に引きこもった。私が植物化のニュースを知らせるために父の書斎に入ると、ソファに沈み込むようにクロユリが咲いていた。 その事を告げるとモリオカはいつもの如くマシンガントークだった。「殺人犯と一緒に住むか普通」だの、「復讐のために俺を刺すなりなんなりしろよ」だの終始笑顔でうるさくまくし立てた。さすがサイコパスとしかいいようがなかった。とにかくうるさかった。そのやかましい口を、私は自分の口で塞いだ。やたらめったら言葉に形を与える舌を、自分のそれで絡めとった。その日初めて、私はモリオカと寝た。 そして今、左どなりには惚れ惚れするほど可憐な純白の金魚草が一輪咲いている。私はゆっくりと、いつかモリオカと本屋から失敬した花言葉事典をめくった。金魚草の花言葉は「おしゃべり」 「あんた、本当にうるさかったもんね」 水滴がぽたぽたと事典の色とりどりの金魚草に落ちて、安っぽい紙の粗いインクを滲ませた。 モリオカの下の名前が、どうしても思い出せない。
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