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その日も私は72歳女性の脳動脈瘤の手術を執刀していた。
脳動脈瘤は脳内の血管壁の一部が脆弱化して血液により風船の様に膨張したものだ。膨張した脳動脈瘤の最大の問題は、破裂して脳内に出血を起こし、出血性脳卒中、死亡などの重篤な合併症を引き起こす事だ。脳動脈瘤の外科的治療にはいくつかの方法があるが、私の得意とするのはクリッピング術と呼ばれる術式だった。
私はいつものトリオ、麻酔科医の高田和美さん、器械出し看護師の川橋久美さんと手術に臨んだ。私達三人の呼吸は完璧(100%)に合っていて、これも私の手術の成功率を大きく高めていた。そして通常は研修医が助手に入り、私が研修医に指導しながら執刀する事が大半だった。
しかし、今日の助手は違っていた。
私の元カレ、大川先生が助手にアサインされていた。その意図は分からなかったが、私も彼の実力を見てみたいと思って同意した。
この手術は右中脳に在る5センチの脳動脈瘤に対するクリッピング術。動脈瘤は複数の血管が分岐している場所に発生しており、難しい手術となった。
まずは頭皮の血管を剥いでバイパス血管を動脈瘤の前後に接続する。そして動脈瘤の心臓側、脳側の血管を全て遮断し、動脈瘤内の内圧を下げる。その後、動脈瘤に小さな穴を開け、血液を抜いて動脈瘤を退縮させた。最後に重要な血管への血流の維持を確認しながら、動脈瘤にクリップを掛け完全に動脈瘤を根絶する。
MEP(運動誘発電位法)で、運動野に麻痺が無いかを確認し、ドップラーで血流が維持されている事を確認した。潰れた動脈瘤の上にコーティングを行い、くも膜の代わりに吸水性の綿を置く。そして硬膜を縫合し、頭蓋骨を接合し、皮膚を医療用ホチキスで止めた。
手術時間は45分だった。これは私のレコードに近い。今日も完璧(100%)の完成度だ。私は満足して、和美さんと久美さんにお疲れ様と言った。二人とも手術の成功を喜んでいる様だ。そして殆ど役に立たなかった助手に声を掛ける。
「お疲れ様、大川先生。私の手術はどうでした?」
彼がニコリと笑った。
「小林先生の執刀は完璧だね。スピードも早い。アメリカにもこんな技術を持つ脳外科医は少ないと思うよ。でも・・」
私は最後の逆説の言葉にピクンとした。
「でも、何でしょう?」
「規定通りの執刀だね。全てが完璧に規定に沿っている」
私は、うん?と思った。彼は何が言いたいの・・?
「規定通りに完璧(100%)に進めるから、正確に、短い手術時間で執刀できると思っています。それは褒めて頂いたという事ですか?」
彼が首を傾ける。
「いや、僕はそう思わない。必要に応じて規定を離れて他に最適な方法を考えてみても良いと思うよ。今日のケースだと、事前にバルーンカテーテルでこの血流の閉塞による影響を確認しておけば、血管バイパスは必要無かったかもしれない」
私は驚いた。私の手術を見てこんな物言いをする人は初めてだった。
「えっ? だって、規定では血管バイパスをやる事になっているわ。それにバルーンカテーテルは血管外科の医師に頼まなければいけないし・・」
彼が左右に首を振っている。
「医師に求められるのは規定を完璧に熟す事で無くて、柔軟で臨機応変の対応と、また、自分の専門では無い分野にも深く知識を探求していく事だと僕は思っている。でも、それを君に押し付けるつもりは無いから安心して。それじゃ、今日は立ち会わせて貰ってありがとう」
そう言うと彼は手術室を出て行こうとした。
「ちょっと待って。そこまで言うなら、貴方の脳動脈瘤の治療実績は私より凄いと言う事よね?」
彼が立ち止まり大きく溜息を吐いて振り返った。
「僕の脳動脈瘤の執刀数は480。成功率は99.6%だ。執刀数でも成功率でも君のほうが上だよ。じゃあね」
私は大きく胸を撫で降ろした。あんな言い方をされて・・ 彼の執刀数と成功率が私を超えているかと思ってしまった。やはりそんな事は無かった。彼はやっぱり完璧(100%)じゃ無い。でも・・
「何で、あんな風に言われなくちゃいけないの?・・ 私は完璧(100%)なのに・・」
大川浩二の後ろ姿を見送りながら、私は少しだけ混乱していた。
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