act.10

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act.10

<side-CHIHARU>  ペニンシュラのデラックスコーナールームからは、とても美しいビル街の夜景が見える。  本当に、とても綺麗な。  それでいて、酷く冷たい。  はっきり言ってただセックスするだけだったので、一番狭いスーペリアルームでもよかったんだけど、急に部屋を取ったので、たまたまここしか空いていなかった。  まぁ、渡海さんには一つ借りになっていたし、これぐらいはしてあげてもいいかなと思ったので、この部屋を取った。  でも何だか今夜の僕には、この広い広い部屋が無駄に思えて、切なかった。  どうでもいいから早く渡海さんに来てほしいと思ってしまった。  大きな窓に額と両手をつけて、遥か下界を流れる車のライトの群れを眺めていると、吸い込まれそうな気分になる。  もし今このガラスがなければ、僕はきっと飛び降りていたろう。   ── チャイムがなる。  渡海さんだ。  ドアを開けると、スパークリングワインとグラスを両手の二本の指に引っ掛けた渡海さんが立っていた。 「あいにく、ドンペリは切れてました」  コミカルに渡海さんは言う。  僕は渡海さんに背を向け、「いいですよ、そんな成金趣味」と言いながら、ベッドルームに取って返した。  ベッドルームとはいっても、そこには上品なしつらえのソファーやローテーブルがあったから、まるでリビングルームに大きなダブルベッドがあるようなものだ。 「今夜は随分と機嫌が悪いんだね」  渡海さんはさして怯えた風でもなく、のんびりとした口調でそう言いながら、僕の後を追ってくる。  僕がソファーにドカッと座ると、渡海さんはスパークリングワインを手際よくあけて、僕の前においた華奢なグラスに黄金色のそれを注いだ。  僕は、一気に飲み干す。  最近、酒の味もちゃんと味わうことなく、こんな乱暴な飲み方をすることが多い。  それは渡海さんもそう思ったようで、「おいおい」とあきれた声を上げた。 「これだってそれなりに高い品なんだぜ」 「それぐらいは分かります」  僕はそう言いながら、空になったグラスを渡海さんに向かって差し出した。  渡海さんは僕の隣に腰掛けると、今度は並々とグラスに注いだ。  僕はそれも一気に飲み干してしまう。 「なんだか、破れかぶれ感満載だなぁ」  僕はちらりと横目で渡海さんを見た。 「萎えますか?」  僕が訊くと、口の端だけで笑みを浮かべ、「いいや、ちっとも」と答えた。 「逆に家出してきたばかりの初々しい不良少年を囲うみたいで、楽しいよ」 「何ですか、それ」 「いつもの澤くんらしくなくてカワイイっていう意味だよ」  僕はそれを訊いて、鼻で笑った。 「それって、口説いてるんですか?」 「口説いちゃ悪いかい? これからセックスするんだぜ、俺達」 「僕は別に、口説かれなくったって、できますけどね。セックス」 「即物的だなぁ」 「男ってそんなものでしょ」  僕は渡海さんの手からボトルを奪うと、今度はボトルから直接飲んだ。  口の端から含みきれなかったワインがこぼれ、僕は指先でそれを拭うと、露骨にそれを舐めた。 「これこれ。大人を誘惑するんじゃありません」  渡海さんは笑ってる。 「じゃ、やめますか?」  僕が立ち上がると、渡海さんは「いやいや」と慌てた様子で僕の手を引いた。  僕は渡海さんを見下ろす。 「澤くんのその、人を見下す目が最高に魅力的だよ」 「本当に?」  僕は薄く笑う。渡海さんは満足そうに頷いた。 「そういう君を組み敷くのがたまらなくいいんだ」 「渡海さんも、サドですもんね」 「澤くんほどじゃないけどね。困ってる君を見るのは好きだよ」  僕は一瞬渡海さんから視線を外して、外の夜景に目をやった。   ── 困っているところを見るのが好き・・・か。  町中で見かけたシノさんの姿を思い浮かべていた。  何だか、それだけで胸が詰まる。  ストレートの男はもう好きにならないと心に誓ったはずなのに、それが今完全に揺らごうとしている気がして、僕は本当に怯えていた。  ── 例え好きになったって、報われはしないじゃないか。その経験はもう、十代の頃に嫌というほどしてきたはずだ。それなのに、何を今更・・・。  男を好きになることのないシノさんが、僕みたいな男に告白されたところで、彼が困り果てるのは目に見えている。  僕は決して、シノさんを困らせたくはないんだ。  彼を追い詰めたりしたくない。  でも時々・・・ホント今日みたいな日には、ちょっとぐらいシノさんが困ったらいいのに、と思ってしまう。  僕のことを思って、シノさんが困ればいいと。  矛盾してるよ、ホント。  頭がおかしくなりそうだ。 「心ここにあらず?」  渡海さんにふとそう言われた。  はっとして僕は、渡海さんを見る。 「でも、報酬は報酬だからね」  渡海さんの指が、優しく僕の手の甲を撫でた。 「 ── 分かってますよ。できる限り渡海さんのリクエストに答えます」  僕がそう言うと、上目遣いで渡海さんが僕を見る。  渡海さん、さっきまでと目つき、変わってる。  この人の本性の目。 「じゃ、ここで脱いでくれる?」 「ベッドでなく?」 「そ。ここで」 「シャワーは浴びてもいいですか?」 「いいよ、もちろん。でも、それ、見てていいかな」 「 ── 変態」 「大人だからね」  渡海さんは、会話とはかけ離れた、清々しい笑顔を浮かべてそう言った。  僕は渡海さんの手を乱暴に振り払うと、無言のままジャケットを脱いだ。  自分の胸に寄りかかる渡海さんの腕を外すと、僕はベッドを抜け出し、床に投げ出されたバスローブを羽織った。  どちらかの体液で濡れた身体が気持ち悪い。早く洗い流したかった。  僕は本日二回目になるシャワーを浴びながら、深い溜息をついた。  タイルの壁に、頭をコツリと預ける。  受ける側のセックスをしたのは、久しぶりだ。  しかも渡海さんの要求で、ゴムなしの抜かずにそのままという難コースで、僕は体力を奪われていた。  むろん、渡海さんがそう言うからには、彼もしっかりと感染症についてはクリアしているはずだ。その点では、僕も渡海さんも互いを信用している。でなきゃ渡海さんも、僕にそんな要求はしてこない。  それにしても。  身体だけのセックスというものは、終わった後の空虚感がいつもセットなのだが、今夜は特にその感覚が強い。  本当に一体自分が何をやってるのか、と問いただしたくなる。  久しぶりの受け身なセックスは確かに痛みを伴うものだが、それでも十分に気持ちよかったし、それなりに盛り上がった。  どちらかといえば、僕も渡海さんも満足できる時間になったと思う。  けれど、やっぱりそこからは何も生まれないんだ。  身体の快楽はパッと燃え上がるマッチのようなもので、味わってしまって炎が消えれば、後は燃えカスが残るのみである。  足下を流れ行く濁ったお湯をぼんやりと眺めていたら、一瞬鼻の奥がツンとなった。   ── だが、涙は一切出てこなかった。  タオルで髪の水滴を拭いつつベッドルームに戻ると、渡海さんはベッドにうつ伏せになった姿勢のまま、まだ眠っていた。  僕は、床に落ちる服をすべて拾い集め、ソファーに置くと、自分の分を身につけ始めた。  そんな僕の背中に、ベッドから声がかかる。 「濡れたままの髪で出て行くと、風邪ひくんじゃない?」  僕はシャツのボタンを下からかけながら、ベッドの方を振り返った。 「起きてたんですか?」 「君がベッドを抜け出した時にね。てっきりまたベッドに戻ってくるとばかり思ってたけど」  渡海さんは、身体を起こしてベッドヘッドに背中を凭れかけさせた。  僕は渡海さんに背を向けると、シャツのボタンをかけることに意識を集中する。 「君も案外、不器用だよね」  渡海さんにそう言われ、僕は手を止めた。 「不器用?」  渡海さんの方に身体ごと向き直る。 「何のことです?」 「俺に遠慮なんかせずに、彼のことを考えながらしてれば、もっと楽しめたんじゃない?」  僕は眉間に皺を寄せた。 「僕は十分楽しんでましたが?」 「そうかな? そんな風には見えなかったけどね」  渡海さんは、サイドボードに置いてあるミネラルウォーターのボトルを取り、一口それを飲んだ。 「なんだか虐めてるみたいで、ちょっと辛かったよ」 「虐めてる? そういうのが好きだったんじゃないんですか?」  僕は鼻で笑う。  渡海さんは意外に神妙な顔つきで僕から視線を外すと、「いくらそういうのが好きとはいっても、相手が感じてないんじゃね。興ざめするだけだよ」と呟いた。  僕は唇を噛み締めた。 「 ── じゃ、僕は渡海さんをがっかりさせたという訳ですね」 「そういう訳じゃないよ。身体はね、そりゃ、十分気持ちよかったよ。だって、あの澤清順の上質な身体だもの。いつだって最高だよ。でも・・・」 「それだけじゃ足りないって?」  僕は、天井を仰いでハハハと笑った。 「何を言ってるんですか、渡海さん。僕らのような人間が、身体以上のものを求めるだなんて、ありえないでしょ。それが僕らみたいな種族のルールだし、何を今更そんなことを言い出すんです?」 「確かに、その通りだよね」  渡海さんは腕組みをした後で、外人のように数回人差し指で僕を指差した。 「でも今夜の俺は、それ以上のものを君に求めたくなったんだ。 ── 君がそうさせたんだよ。今夜の君がね」  僕は目を閉じた。  渡海さんの言わんとしていることが、何となく想像できる。  でもそれは・・・。それについては今、論じたくない。  だが、渡海さんはやめるつもりはないらしい。 「君の本心を見ることができるのなら、俺の腕の中で別の男のことを考えてくれてた方が、まだよかった」 「 ── だから」  僕は、強い口調で渡海さんの声を遮った。 「誰のことを言ってるんですか? 他の男って? 花村のことですか?」 「へぇ、とぼけるのかい? それとも本気で自分の気持ちに気づいてないの?」 「だから、何が」 「合コンテストを受けた彼だよ。篠田くん。君、彼のことが好きなんじゃないのか?」  僕は口を噤んだ。  何でそんなことを渡海さんが言い出すのか、分からなかった。  僕は息苦しさを感じて、喉元を何度も擦った。 「そんな訳ないでしょう。惚れた男のために、わざわざ合コン開いてやるバカがどこにいますか?」  渡海さんがとぼけた顔で、僕を指差す。  僕は、一瞬何と言っていいか・・・・本当に、言葉をなくした。  僕は数回頭を左右に振って溜息をつくと、「僕はそんなにマヌケな男ですか」と吐き捨てた。  渡海さんはニヤリと笑う。 「恋は人を惑わすからね」  僕は肩を竦めた。 「 ── 全然話にならない。渡海さんだって、僕がストレートの男を好きになったりしないって、よく知ってるでしょう」  僕はシャツのボタンもそこそこにジャケットを羽織り、ベッドを横切って部屋を出て行こうとする。  そんな僕に、渡海さんがボソリと言った。 「素直になれば、楽になるだろうに」  僕は足を止めた。  カチンときていた。 「素直? そんな言葉、18の時にドブに捨てましたよ」  僕は、前を見たままそう言った。  この言葉は、天に誓って本当にそうだ。  僕は、18の時に心が死んだんだ。 「 ── まだ、引きずってるんだな」  僕は、まだベッドの上にいるままの渡海さんを見た。  渡海さんが、僕の目線からさけるように、手で自分の顔を隠す。 「おいおい、そんな怖い目で睨むなよ」  僕はバツが悪くなって、渡海さんから視線を外した。  何だって今夜は渡海さん、こんなに絡んでくるんだ?  そんなに今夜の僕の味がマズかったとでもいうのか。  僕は右手で顔を覆った後、薬指と中指で目頭を何度も擦った。  渡海さんがそんな僕を見て、呟く。 「吹越さんも、なんでこんな可愛い子を置いて、さっさとシンガポールになんか行っちゃったんだろうね」  僕は、渡海さんの前に人差し指を突き立てた。 「もうそれ以上、言わないでください。死にたくなければ」 「わかった、やめる。本当に殺されそうだ」  渡海さんはマジな顔をして、降参するように両手を胸の前にあげる。  「 ── 支払いは先に済ませておきますから。じゃ」  僕はそう渡海さんに言い残して、部屋を出た。  バタンと重いドアの音が背中で聞こえて、僕はドアにしばらく凭れかかった。  誰もない深夜のホテルの廊下。  遠くでゴォンゴォンと巨大な空調の音がした。  今夜、本当に死にそうなのは、この僕の方だと思った。
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