act.12

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第六章 地球にとってのガン細胞 <side-CHIHARU>  僕は、腕時計を見て溜息をついた。  しかしそれは無意識にしていたことらしく、岡崎さんに指摘されるまで自分自身、気づいていなかった。 「── 澤くん、さっきから腕時計見過ぎ。それに、溜息も露骨なんだから。ただでさえ、君は目立つのよ。大先生から目を付けられたらどうするの?」  僕の隣に立つ岡崎さんは、器用に前を向いたまま、僕の無意識の行動にツッコミを入れてきた。  僕が専属契約している流潮社の重鎮作家・長田計子の出版記念パーティーだった。  作家に上下関係もくそもないと思うが、彼女のパーティーは流潮社と契約している作家のほぼ全員出席することが常となっている。  長田計子は、その作風と同様に派手派手しいことが好きだから、70過ぎた今でもチヤホヤされることがお好みらしい。  前回のパーティー、僕は具合が悪くなったと嘘をついてドタキャンしたのだが、今年はそんなことがないよう、僕の体調管理をきちんとしろとわざわざ編集部にお達しがくだっていたらしい。  どうも僕は、長田計子に気に入られているようだ。  その長田計子は、今壇上で取って付けたような演説を行っている最中だ。 「何か、気になることでもあるの?」 「ええ、まぁ。ちょっと友人と約束してまして」  今日はシノさんがジムに行く予定の日だった。  ジムの予約時間は約二時間後だが、品川にあるこのパーティー会場から月島に戻り、僕の車に乗り合わせてジムまで向かう時間を考えると、あと1時間以内にはここを出なければ間に合わない。  シノさんは自分の車を持っていないから、僕の車がなければジムまで行く道程が少々面倒くさいことになる。 「その約束、何とかならないの? 別の日にしてもらったら? このパーティーより大事なこと?」  岡崎さんにそう言われ、僕はカチンときた。  そんなの、大事に決まってるだろ。  こんな化粧臭いバァさんをひたすら讃えるパーティーなんかより、シノさんを連れてジムに行くことの方が大切に決まってる。   シノさんがジムに通い始めて3週間経ったが、シノさんは根気よくジム通いを続けていた。  万が一今日キャンセルするとなると、その分のレッスン代を無駄にすることになる。  レッスン代はそれなりの金額だったし、レッスン代はシノさん自身が支払っていたから、それを僕の都合でふいにするわけにはいかない。── まぁホントいうと、別に僕が付き添わずにシノさんが自力で行くって方法もあるけど。でもそれは僕が嫌だった。  渡海さんに変な指摘をされて以来、僕は自分の感情に一線引くことに努めてきた。  仮に僕が本気でシノさんのことを好きだとしても、それをシノさんに悟られてはならない。  幸い、シノさんは『超』がつくほど鈍感な人だったから、彼が僕の気持ちに気づくはずがないことは、絶対的な自信があった。  感づかれれば、うまいこと言って誤摩化すことは、他愛のないことだ。僕は嘘をつくことに何の抵抗感も抱かない男だから。  だから少しの間だけ、シノさんのことを見てたって許されるはずだと、僕は高をくくったんだ。  シノさんが奥塩原から帰ってきた後、僕が電話で激しく機嫌が悪かったのは「夕食の約束をすっぽかして温泉に行った」ことに原因があると、彼は本気で思っていた。  「二人の間にやましいことはないから、二人で温泉に行っても大丈夫」だなんて平気で言えるところが、その証拠だ。  シノさん、僕はね、そんなシノさんにやましいことを考えるような男なんだ。  やましいことは何もないと断言してしまうシノさんの発言に、少し傷ついたりもする頭のおかしい男なんだ。  シノさんのKYぶりに激しくやり込められている僕だけど、僕はシノさんから目を離すことができない。  この3週間の間、その思いは干涸びるどころか、どんどんつのっていく。  シノさんといると凄く楽しい。  でも同時に苦しくもある。  ああ、僕はドSで有名な澤清順ではないのか。  これじゃまるっきりドM男だよ。  そう考えていた矢先、司会者から「澤先生はいらっしゃいませんか?! 澤清順先生は?」とマイクごしに呼ばれた。  僕以上に、岡崎さんが驚いて飛び上がっている。 「ここ! ここにいます!!」  僕の代わりに岡崎さんが手を挙げる。会場内の全ての視線が僕と岡崎さんに集まった。  一体、何なんだよ。  司会者は、ステージの上から僕の姿を発見すると、ほっとした表情を浮かべた。 「長田先生直々のご指名です。ステージ前までお越しいただけますか?」 「なんで?」  僕は反射的にそう呟いたが、それはあっけなく無視されて、岡崎さんに引きずられた。無理矢理ステージ前まで連れて行かれる。  長田女史は群衆の中から僕の姿を確認すると、満面の笑みを浮かべた。  片手に大きな花束を持っていた彼女は、ステージの上から僕に向かって左手を差し出した。  そこで僕はピンとくる。  ようは、エスコートしろということか。  ── ああ、面倒くさい。  僕は一瞬、岡崎さんの顔を見た。岡崎さんは表情だけで「一生のお願い」と言っていた。  しょうがないなぁ・・・。  僕は、長田女史の手を取る。  それを合図に、会場中が拍手に包まれた。  彼女は満足そうに頷くと、威圧感たっぷりで周囲にその姿を見せつけるようにしながらステージ前に置かれた階段を下りた。  長田女史が階段を降りきると、ホテルの従業員が突如僕の前に現れ、長田女史を会場中央までエスコートするように促された。  誘導されるがまま会場中央まで辿り着くと、そこには大きな円卓があって、シャンパンタワー用のグラスが用意されていた。  ── なんだ、このバブル趣味。  僕は、まるで昔の遺跡を見るかのような感覚でグラスのタワーを眺めた。  長田女史が僕から手を離して、仕草だけでマイクを要求する。  司会のフリーアナウンサーが、慌てて飛んできた。  長田女史はマイクを受け取ると、「私はあいにくと背が足りませんから、シャンパンタワーは澤くんにしてもらおうと思うの。皆さん、どうかしら?」と言った。  この会場で、長田女史に逆らう者はいない。満場一致といった雰囲気で、拍手が強まった。  僕は周囲を見回す。  確かに今の出版界で僕ぐらいの長身は珍しいから、理には適ってるけどさ・・・。  そう思っていたら、ホテルの従業員にシャンパンを渡された。  ── 開けろってことですか?  なんと人使いが荒い人達だろう。  僕は周囲の人間が注目する中、シャンパンのコルクをグラスタワーに向けた。  一瞬、拍手が止まる。  僕の後を追ってきていた岡崎さんをちらりと見ると、見たこともない形相をして両手でバツ印を作っていた。  はいはい。わかりましたよ。  僕は、ニコッと笑った。  普段の僕が出し惜しみをして、皆が渇望している『無垢な笑顔』だ。  僕がコルクを天井に向け直すと、会場中が笑いに包まれた。  冗談だと捉えられたらしい。  笑顔を浮かべたまま長田女史を見ると、長田女史は大げさに驚いたようなジェスチャーをした。困った子どもを見るような母親のように。  僕はすっかり面白味もなくして、あっさりとコルクを抜いた。  そして、さっさとシャンパンをグラスタワーのトップに注ぎ込む。  シャンパンは、黄金の滝のようにグラスを伝って落ち、会場中が「わぁ~」という歓声に包まれた。  こうなれば、早々にお役目を終えて、この場を失敬せねば。  僕は空になった瓶をテーブルの脇に置き、一番上のグラスを手にとって長田女史に手渡した。 「ありがとう」  その言葉を聞くか聞かないかで場を去ろうとした僕を、長田女史の「あなたも飲みなさい」という声が阻む。 「飲めるんでしょ? お酒」  僕が振り返ると、長田女史に命ぜられた流潮社の常務が僕にグラスを差し出していた。  ── 飲んだら、車を運転できなくなるじゃないか。 「いや、実は今日、車で・・・」  僕がそう言いかけたところを、「ウソおっしゃい」とはねつけられた。 「作家は全員、流潮社の車で連れてくるようにお願いしたのよ。あなたもそのはず」  僕と長田女史の間に立つ常務にピントを合わせると、常務もさっきの岡崎さんのように「一生のお願い」顔をしていた。  僕は仕方なくグラスを受け取る。  それを確認して、長田女史が「皆さん、乾杯しましょう」と言った。  あちらこちらでシャンパンが開けられる音がして、会場中「乾杯」の声があがる。  僕は、長田女史と全力でほっとした顔つきをしている常務とでグラスを合わせ、グイッとシャンパンを煽った。 「まぁ、若いわねぇ、さすが」  長田女史はすっかりはしゃいだ様子だ。  空いた僕のグラスに、新たなシャンパンが注がれる。  僕は破れかぶれのような気分になって、二杯目のシャンパンも一気に空にした。 「何だよ、その下品な飲み方は、まるでホストみたいだな」  そんな声がかけられて、僕は声のした方向に目をやる。  中堅サスペンス作家の石田延敏だ。  僕の顔より20センチ近く下にあるその顔色を見る限り、彼は一人で随分前に“乾杯”を済ませていたらしい。 「顔がいいかどうか知らないが、所詮顔だけじゃねぇか。中身のない話ばっか書きやがって。お前の話は、魂ってもんがねぇんだよ。そんなお前を、あんな重要な作品賞の受賞者候補にするとは、文壇も地に落ちたもんだぜ」  周囲がその不穏な空気を察して、ザワザワと落ち着きがなくなる。 「さては、枕営業でもしたんじゃねぇかぁ? 審査員にさ。結城か? 秦野か? ああ、両方女か。じゃぁ、轟に決まりだな。それとも、長田先生にまで気に入られているところを見ると、『男好き』なこともウケを狙った売名行為で、実は女もいけるってことないよな?」  石田が、下品な笑い声をあげる。 「まぁまぁ、石田先生。長田先生のお祝いの席で、そんな話しないでくださいよ」  常務が、僕と石田の間に割って入る。  一方僕はといえば、最初に言われたことに関してはなんら不満はなかった。むしろ、「このオッサン、僕の小説、よく読んでるなぁ」と感心したぐらいだ。  書いた本人が魂なんかこれっぽっちも込めて書いた覚えがないのだから、そんな話から魂が感じられる方がおかしい。  ただ、二つ目に言われたことに関しては、はっきり言って腹が立っていた。  僕が望んで長田女史に近づいたんじゃない。向こうが来いと言ってきたんだ。  それに、確かに僕の性生活は奔放だったが、僕は自分の身体を使って権力や金を得ようとしたことはない。  幸い子どもの頃から金には困っていないし、権力にはまるで興味がない。  不可抗力で食事を奢ってもらったり、何かプレゼントをもらったりすることはあっても、それを目的にしたことがない。  僕がセックスをする時は、肉体的快楽を得たいと思った時だけだ。  だから、『枕営業』呼ばわりは、本気で腹が立った。  それに、自分の性的指向を茶化されることも許せない。  僕は、好んで『男好き』になった訳ではない。本能的に『男しか愛せない』脳みそになっていたのだ。  ようは生まれた時から標準装備されていたものであって、あとからオプションでついてきたものじゃない。標準装備だから、変えたくても変えられないのだ。  そこを笑いのネタにされたことにもむかついた。  僕は石田に目をやり、冷たく言った。 「そういう物言いは、あなたが今月出した新刊が、昨年出た僕の最新刊の今月の売り上げを追い越した後にしてください」  石田の顔が、一瞬真っ赤になった後、すぐに真っ青になった。  半分当てずっぽうで言ってみたが、どうやら図星だったらしい。  お気の毒様。  最近、殺人事件のトリックネタがなくなって、芳しくないんですよね、売り上げ。  僕は、グラスをシャンパンタワーのあったテーブルに置くと、今度こそこの場を去ろうと身体を翻した。  その腕を、長田女史に掴まれる。  眉間にシワを寄せて振り返ると、長田女史は、僕の胸元をポンポンと二回叩いた。  その仕草がまるで祖母を思い起こさせ、僕は一瞬で身体の力が抜けてしまった。  長田女史は、上目遣いでニヤリと笑うと ── まるで仙人のような顔つきだった ── こう言った。 「石田の言うこと、半分は当たってるって思ったでしょ。あなた、そういう顔してた。石田はただの無粋な男だけど、あたしはそうじゃない。── いい加減、本気で小説を書きなさい。人様から金を貰って本を書いてるんだ。そろそろちゃんと自分に向き合わないと、本当にどうしようもない人間になるわよ」  僕は口を噤んだ。  言い返せなかった。  そんな僕を見て、長田女史はハハハと笑い声を上げた。 「さっき石田に言ったみたいな減らず口を今度は叩かないところを見ると、なかなか利口なようだ。それならあたしの言ったことはわかるね。今日はもう、お帰り」  まるで呪縛が解かれるように。  僕は長田女史の手が離れると、その場から逃げ出すように会場を後にした。 <side-SHINO>  千春からの連絡、ないなぁ。  携帯を見ながら、床においてあったスポーツバッグをテーブルの上に置いた時、突然チャイムが鳴った。  玄関ドアの覗き窓から外を見ると、そこに千春の姿があった。  ちょっと驚く。  バタバタと慌ただしい足音が廊下を走って来ていたので、自動的に千春でないと思っていたからだ。  ドアを開けると、千春はほっとした表情を浮かべた。  黒いスウェード生地の細身のスーツの上から首元に大振りのスカーフを巻き付けた、彼にぴったりの華やかな服装をしていたが、その額にはオシャレなスーツには少々不似合いな汗が滲んでいた。 「どうした? 走って帰ってきたのか?」 「間に合わないかと思って・・・。階段を上がってきました」  なんかこの会話が、いつぞやの合コンの時の会話と逆転しているようで、俺は思わず拳で口元を隠しながら、笑った。 「え?」  大きく息を吐きながら、千春が訊いてくる。  俺は、千春より先に気がついたことにちょっと優越感を感じながら、「これ、あの合コンテストの最初の時とまったく役割逆転だよ」と指摘した。  千春もやっと思い当たったのか、若干顎を上げつつ、まだ荒い呼吸を整えながら「ああ」と頬を緩ませた。 「ホントですね」  アハハと笑う。  俺は、ドキリとした。  凄く自然な、彼にしては珍しく、隙だらけの笑顔だった。  カッコいいとも、キレイとも違う・・・カワイイっていうのが近い感じ? 「着替えてくるだろ? 待ってるよ」  俺がそう言うと、千春は首を横に振った。 「そんなことしてたら、間に合わなくなるから。僕は今日のレッスン、諦めます。行きましょう」 「ああ」  俺は部屋を出て鍵を閉めようとしたが、「あ、そうだ。今日は、シノさんが運転してください」と言われたので、鍵を閉める手をとめた。 「え? なんで?」  千春が苦笑いする。 「僕、お酒を飲んでしまいました」 「そっか。じゃ、仕方ないな・・・。でも、俺、左ハンドル大丈夫かな?」 「大丈夫、大丈夫。僕が隣に乗ってるから。フォローします」 「うん。あ、ちょっと待ってくれる?」 「ええ。何?」 「忘れ物」  俺は部屋の中にとって返して、ビジネスバックに入れっぱなしになっている眼鏡ケースをスポーツバッグに入れた。  今はまだ陽の光があるからいいが、帰る頃には外は真っ暗になっている。そうなったら俺には、運転するのに眼鏡が必要だ。 「お待たせ」  俺が部屋を出ると、「さ、行きましょう」と千春に促された。  千春の車は、マンションから3分歩いた月極駐車場に置いてある。  見た目真っ赤なコンパクトカーだったが、それでもこれは『アルファロメオ』だ。  日本のコンパクトカーサイズの外装に普通車並みの排気量のエンジンを積んでいる。  内装もコンパクトカーにあるまじき高級感で、見る人が見れば小さいくせに高級車だとわかる車だ。  車の赤い塗装もイタリア車独特の妙に艶めかしいつややかな赤。  ── 男は憧れるよなぁ、こういう赤。  しかし外車だけに、左ハンドル。  ぶつけないようにしなくては(汗)。  俺は、内心ヒヤヒヤしながら、車の運転席に乗り込んだのだった。 <side-CHIHARU>  シノさんは、僕が思っていた通り、すごく真面目だし、ストイックな人だった。  最初は大騒ぎしていたジムでの筋トレもすぐに慣れ、今では僕以上に熱心にこなしている。  シノさんの予算の関係上、ジムには一ヶ月間だけ通うということになっていたから、それが終わるまでに筋トレの正しいやり方を身体に覚え込もうという姿勢がありありとわかった。  ホント、何に対しても一生懸命なんだよね。いかにもスポーツマンらしい。  今ではシノさんが、ジム一番の熱心な生徒という位置づけになっている。  シノさんの一生懸命に取り組む姿勢は、実にひたむきだ。   先生の動きを見る時の真剣な眼差しといい、正しい姿勢を覚えるために何度も何度も細かな動作を繰り返す時の直向きな表情といい、うまくいかなかった時に悔やむ仕草といい、見ているこちらの胸が熱くなってくる。  世の中を斜に構えて見ている僕でさえそう思うのに、なぜ誰もシノさんの魅力に気がつかないんだろう。  こんな男を放っておくなんて、世の中の女は盲目としか言いようがない。   ── いや、放っている訳ではなくて、シノさんが気づいてないだけなのか。  それでも、本気で彼を手に入れたいと思えば、鈍感なシノさんでもわかるぐらいにアプローチすることはできるはずだ。なのに彼と出会ってきた女達は、それをしてこなかった。  そうでないと、今頃シノさんは「30過ぎて、いまだ童貞」だなんて悩んだりしてない。  本当に、なんて愚かな女達だろう。  男女の恋愛には、障害なんてないだろうに。  今の僕みたいに、相手はゲイじゃないから恋愛は無理だ、なんてこと考えなくていい立場なのに。  近頃僕を突き動かすこのフツフツとした思いは、きっとシノさんへの想いの裏返し。  僕は、ガラスで仕切られた休憩室のカウンター席に座り、紙コップのコーヒーを啜りながら、シノさんの汗に濡れる広い背中を見つめた。  黙々と、シンプルだけど難しい動きを反復している。  ふいに、数時間前に言われた長田計子の声が、僕の頭の中で響いた。  ── いい加減、本気で小説書きなさい。人様から金を貰って本を書いてるんだ。そろそろちゃんと自分に向き合わないと、本当にどうしようもない人間になるわよ・・・  ああ、僕は。  本気になるのが怖い。  こんな汚れた自分と向き合うのは怖いんだ。  石田延敏に「枕営業してる」と言われ、思わず「そうじゃない」と頭に血を上らせたが、今になって思うと自分がしてきたことは、大差ないことなんじゃないかと思えてきた。  僕をちやほやしてくる人間・・・ようするに僕に興味を持ってくる人間は大抵、僕とのセックスを期待している。花村や渡海さんなんか、いい例だ。  例え気持ちがこもらないセックスでも、僕という器があれば、それで成立する関係。  この前の渡海さんは異様に絡んできたけど、結局はそれから何が進んだ訳でもない。  そもそも僕は、そんなことを十代の頃から繰り返してきたんだから、身体を介して心をやり取りする方法なんか分からない。  僕はね、もう相当に汚れてる。  そして、その僕を取り囲む全ての人や環境も汚れてる。  だから葵さんが「初めての健全な友達」とシノさんのことを言ったように、シノさんは僕にとって、僕を澄んだ世界に連れて行ってくれる救世主のようなものだ。  この関係は一見、シノさんが僕に頼んできた恰好から始まっているが、でもきっと初めてシノさんと出会ったあの晩から、シノさんが僕の部屋を尋ねてくるよう仕向けていったのは僕の方。  僕は、本能的にシノさんのような存在を求め続けていたのかもしれない。  シノさんの真っ直ぐな生き方が、僕を浄化してくれる。  シノさんといる時だけ、僕はキレイでいられるような気がする。  シノさんが自分を卑下するようなことを口にした時、あんなにも腹が立ったのは、こんなにも汚れた世の中で、シノさんには諦めてほしくなかったからだ。  シノさんのような生き方でも世の中に通用する、認められると信じたかったからだ。  ── ああ、こんなの矛盾してる。  僕は今まで人間なんて欲の塊で、人を陥れてでも平気で金を掴むような奴等で溢れまくっていると思っていた。今もそう思っている。  時に自分が『人間』でいること自体に反吐が出そうになることもあるし、少々大げさだが、人間の存在自体がこの地球において大いなる罪なんだと常日頃から考えていた。  そう、人間は生きている限り、ろくな事をしない『地球にとってのガン細胞』なんだってこと。  僕はこれまで、大切なものを諦めながら生きていく道を選んできた。  だから、僕を支配する諦めの力というのは強大で、悪さしかしない人間なんて、いっそ滅んでしまえと本気で考えていた。  ミレニアムの時も、空から大王が降ってくるのをどこかで期待していたし、2012年マヤの暦がなくなる日に起こりえる終末の出来事も受け入れる準備はできていた。  そんな破滅的な思考の持ち主である僕の前に、シノさんは突然現れたんだ。  シノさんは、『人間の良心』というものがまだこの世に存在することを、僕に突きつけた。  僕はそこに、人間が『善き存在』であるという可能性を感じて、胸が一杯になる。  人間はまだこの地球上に存在してもいいんだって赦されるような気がして、涙が出そうになる。   ── まだまだ人間も捨てたもんじゃないよ。  ── 一生懸命生きることは、恥ずかしくないことだし、誰でもできることなんだよ。  シノさんの眼差しは、いつもそう言っているように思えるんだ。  十代の頃に両親を亡くしたシノさん。  学校をやめて、苦労して働いて、妹家族を必死で守ってきたシノさん。  自分をどれだけ追い詰めてきたのだろう。  どれだけ頑張り尽くしてきたのだろう。  初めて出会ったあの晩、シノさんが流していた涙は、それが積もりに積もって溢れ出た涙だったんだよね。  僕は、あなたのあの涙を見た時から、あなたに夢中になりました。  でもこの想い、あなたには一生、言いません。  ジムからの帰り道。  運転席に乗るなり、シノさんはスポーツバッグから黒縁の眼鏡を取り出してかけた。  僕は驚いた。  知り合って一ヶ月足らずだが、眼鏡姿のシノさんは見たことがなかった。 「シノさん、眼鏡かけるんですか?」 「夜の運転の時だけね。少しだけ悪いんだ、視力」 「ふ~ん・・・」  街灯の光が、一定間隔でシノさんの横顔をオレンジ色に照らす。  筋トレのお陰で頬の肉が少しシャープになり、エラから顎のラインがきれいに浮かび上がっている。  横から見ると、鼻梁は高く真っ直ぐ伸びていて、唇は下唇が意外なほどふっくらとしていた。  男っぽくて、カッコいい横顔だ。  意外に眼鏡も似合っている。 「シノさん・・・、痩せたねぇ・・・」  僕がしみじみそう言うと、シノさんは僕をちらりと見て、嬉しそうに口角を上げた。 「やっぱ俺、太ってたんだよな。今日計ったら、学生時代の体重に戻ってたよ」 「へぇ、そうなんだ」 「同僚の川島にも、『何かお前、ちょっと変わったな』って言われた。でも川島は鈍感だからさ、俺が痩せたってことに気づいてねぇの」  そう言って、おかしそうに笑う。  僕も同じように笑った。    シノさんとは別の意味でおかしかった。  鈍感なシノさんの同僚もまた鈍感で、シノさんがそれを捕まえて「あいつは鈍感だ」なんて言いながら笑ってるだなんて、おかしいでしょ。 「心配しなくても、シノさんも鈍感ですよ」 「え?!」  シノさんが笑うことをやめ、僕を見る。 「シノさん、前、前。前向いて運転してください」  僕は冷静な声でつっこむ。  シノさんは慌てて前を向いて、ハンドルにしがみつくように運転を続けた。  ほらほら、そういうところも何というか、天然というか。 「俺って、鈍感?」  まだ気にしてる。 「あ~、明日なんか雨降りそうですよね」 「なぁ、どんな風に鈍感?」 「シーツ洗おうと思ってたのになぁ・・・」 「どんな時に鈍感だと思う?」 「コインランドリー行くついでに、シノさんの分も洗濯してきましょうか?」 「なぁ、鈍感ってどういう意味?」  プッ。  僕は耐えきれずに吹き出してしまった。 「気にしすぎだよ、もう!」 「気になるだろ、普通!」  シノさんはそう言って、ハンドルから両手を離し、両手の平を前へ放り出した。 「ちょっと!」  僕は、慌ててハンドルを横から握った。 「つまりは、こういうところですよ!!」  僕が半分笑いながら怒鳴ると、今度はシノさんが笑い出した。 「悪い、悪い」  そう言って、ハンドルを握る。  シノさんってば、興奮してくるとオーバーアクションになるんだよな。 「・・・ホントにもう、世話の焼ける・・・」  僕は、腕組みをしながら助手席のシートに身を沈めると、大きく息を吐き出した。 「だってさ。千春が答えを教えてくれないから・・・」  まだそんなことを呟いている。  僕は、その呟きをあえて無視した。  僕を慌てさせた罰です。  あなたが実は既に女の人からモテていることは、しばらく教えてあげません。  せいぜい、苦しむといいよ(笑)。  僕もあなたから、かなり苦しめられているんだから。  しばらくの間、二人とも黙ってカーステから流れるジプシーキングスの曲を聴いていた。  ふいに、シノさんが口を開く。 「筋トレ終わったら、次何する?」  僕は片眉を上げて、シノさんを見た。  何か心の奥がくすぐったくて、思わず僕は唇を引き締めた。  そうしてないと、口元が無駄に緩んでしまいそうで。  なぜ僕がそうなったかというと、シノさんの口調が、まるで5歳ぐらいの子どもが同い年の友達に「次は何して遊ぶ?」と誘っているような口ぶりだったからだ。 「次、何しましょうか・・・」  僕はそう答えながら、シノさんの横顔を改めて眺めた。  横顔は僕の理想の形にかなり近づいていたが、髪型がイマイチだ。  いかにもカットセンスが画一的な床屋で切ってます、といった具合の色気も味気もなんにもない、無難な髪型がただ伸びたというヘアスタイル。  もったいないよ、シノさん。  これじゃカッコいい横顔が台無しだ。  無造作に伸びたこめかみの髪が、耳や頬を粗雑に隠してる。  僕はその邪魔な髪を指ですくって、彼の耳にかけた。  指先に、シノさんの柔らかな耳タブが僅かに触れる。  突然のことで驚いたのか、彼はくすぐったそうに肩を竦め、ちらりと僕を見た。 「ん? なに?」  低くて優しげな、声。  そんな風なトーンで言われると、なんだか勘違いしそうで怖い。 「シノさん、今週の土曜日、空いてる?」 「うん。多分大丈夫だと思うけど」 「じゃ、髪、切りにいきましょう」  さぁ、シノさん改造計画・第二段階開始だ。
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