act.20

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act.20

<side-CHIHARU>  岡崎さんに教えてもらった前川さんは、代官山のレンタルキッチンで毎週土曜日、料理教室を開いていた。  生徒さんは主に、花嫁修業中のお嬢様と新婚間もない若い女性が対象で、料理の基本を学びながらもちょっとオシャレな料理も習えるというようなものらしく、初心者のシノさんにとっても役に立ちそうな内容だった。  ただひとつ難があるのが、生徒さんが全員女性だということ。  普段は男性の生徒を取っていないとのことだったが、岡崎さんの口添えもあって、今回お試しということで引き受けてくれたのだ。   ── しかしシノさん、女性ばっかの環境で、大丈夫かな。 「大丈夫ですか?」  料理教室が開かれるファッションビルの前で、僕は隣に立つシノさんに声をかけた。  するとシノさんは、物凄く緊張した顔つきで、「大丈夫・・・」と呟く。   ── こりゃ、全然大丈夫じゃないな。  今日のシノさんは、島津さんのところで買った白いシャツにグレイのカジュアルジャケット、ユーズドのジーンズという装いで、凄くさわやかな印象だった。  ホント、シノさんは、こういうシンプルな服がよく似合う。  これなら、花嫁修業中のセレブ女子の目にとまりまくって、“お持ち帰り”でもされるかな。  僕はそんなことを思いながら、同時に苦々しいものが口の中に広がる感覚を覚えていた。   ── 自分が惚れた相手を、他人に差し出す手助けをしているなんてね、この僕が。  我ながら、自分のこの意外性に驚いてしまう。  僕が恋愛に関して『他人に譲る』なんてこと、一切経験なんてしたことがない。  僕はずっと、恋愛に関してはかなりの我が儘男だったんだ。むしろ、相手を振り回して、それを眺めるのが面白かった。  なのに今では、振り回されてるのはきっと僕だよね。  シノさんは、僕の場合と違って、他人を振り回してるだなんて自覚更々ないんだろうけど、シノさんのことを考えて僕が一喜一憂しているのは事実だ。  でも、シノさんの幸せを思えば、僕は『そう』しなきゃ。  シノさんが無事に女性と恋愛ができるように導くことが、僕の成すべき役割なんだ。  「じゃ、篠田さん、キャベツの千切り、してみましょうか?」  前川先生の言葉に、まな板の前に立つシノさんがゴクリと唾を飲み込んだ。  シノさんが頼りない目つきで、横に立つ僕を見る。  前川先生はシノさんの視線の意味を理解したらしい。 「あ、じゃぁまず澤先生にお手本、見せてもらいましょうか」  キャベツの千切りに至る前に、キュウリの輪切り、乱切りなどをしてきたが、シノさんはどれも最初に僕のやる様を見てからという有様で、まったくもって頼りない。僕の手本を見なくったってどうすればいいか分かると思うんだけど。  だが、僕も僕とて、シノさんの不安げに僕を見る表情が可愛くて、つい応じてしまう。これじゃ、ダメダメな二人だよね。  僕が普通に千切りをすると、背後でキャァーと黄色い声が上がった。  ホント言うと、これがあるから、あまり僕がしゃしゃり出たくはないのだけれど。  彼女達だって自分のすべきことがあるのに、こちらのことが余程気にかかるのか、さっきから僕らのことをガン見してくる。 「じゃ、次、篠田さん」 「は、はい」  シノさん、肩に力が入り過ぎ・・・。  案の定、千切りとはほど遠い音をさせながら、まるで親の敵のようにキャベツを切っていく。  あ~~~、押さえてる指! 危ない、危ない!! 「もっ、もういいですよ! 篠田さん!!」  前川先生も危険を感じたのか、慌ててシノさんを止めた。  シノさんは、まな板の上に並ぶ僕が切ったキャベツと五倍くらいの太さがある自分が切ったキャベツを見比べ、溜息をつきながら項垂れた。 「誰でも直ぐにはできませんから。安心していいですよ」  シノさんの落胆ぶりに、前川先生が声をかける。そこで初めて前川先生は、自分が他の生徒を放りっぱなしであることに気がついた。 「さぁ、皆さん! 今日はブリの照り焼きですから。お魚を捌ける人は、作業を進めてください。分からない人は手を挙げて」  生徒さんが、ハァイと声を上げる。  ふぅん。魚を捌くところからやらせてるんだ。結構本格的だね。 「あの・・・」  シノさんが細々と声を上げる。 「はい、篠田さん」 「僕はどうしたら・・・」  最高に不安げな表情。  前川先生がわっはっはと笑って、シノさんの肩を叩いた。 「篠田さんにお魚を捌けだなんて言いませんよぉ。とりあえず、照り焼きに添える大根おろしを作ってもらっていいですか?」   ── なるほど。それはいい。ただ大根をおろすだけだもんな。  僕は、目の前にあったおろし金とピーラーをシノさんに手渡した。 「ああ、澤先生、ありがとうございます。篠田さん、これ使ってください。そこの大根を洗って、大体半分ぐらいの長さで切って、皮をこれで剥いてください。皮は厚めに剥いて大丈夫ですよ。その後、これで大根をおろしてください」  前川先生がテキパキと指示することを、シノさんは必死の形相で聞いている。  未知の世界のことを聞いている訳だから余裕がないせいなんだけど。こういう顔もいいんだよな、可愛くて。 「お二人の分の切り身は、こちらで用意しますね」  前川先生がそう言ったが、「あ、僕が捌きますよ」と僕は答えた。 「澤先生、捌けるんですか?!」 「ええ」 「釣りなさるんですか?」 「いえ」 「そうなんですか? そうだとしたら、凄いわぁ」 「いや、見よう見まねですから。多分自己流だと思いますけど」  僕は、シノさんと僕の二人分の切り身を準備すべく、まな板の上を布巾でザッと拭いて、ブリをのせる。  僕も魚を捌くのは久しぶりだから、少しだけ緊張してしまう。けれど、包丁をエラに差し入れた段階で身体が自然に動き始めて、快調に手が動く。  本当に自分でも不思議に思うが、僕は料理をすることに自分が思っている以上に向いているのかもしれない。シノさんのために料理を作り始めて、余計にそう思い始めた。  しばし無心になりながら魚を捌いていたら、突如隣でシノさんが右手をゆっくり挙げた。 「先生・・・」  か細い声で前川先生を呼ぶ。 「ん? あ、篠田さん、できました?」  前川先生がやってきて、シノさんの手元を覗く。 「あれ? 篠田さん、今日は照り焼きなんで、紅葉おろしにしなくてもいいですよ?」  僕はそれを聞いて、頭から血の気が引く感覚に襲われた。 「シノさん、大丈夫ですか?! 手!!」  僕は包丁をまな板の上に突き立て、汚れていない手でシノさんの左手を掴み、上に上げる。  案の定、大根おろし塗れの指の節々が剥けて、結構な量の血が滲んでいた。  周囲がたちまち悲鳴に包まれる。 「シノさん・・・」  シノさんの顔を見ると、血を見たことでシノさんも血の気が引いたらしい。  真っ青な顔つきで、シノさんは一言呟いた。 「 ── ・・・悔しいです!!」  この期に及んで、芸人の真似なんかしなくてもいいと、僕は思うんですがね。    <side-SHINO>  俺って、つくづく、どんくさいんだよな。  体験料理教室の帰り、千春の車の助手席で、俺は自分の指に巻き付けられたいくつもの絆創膏をぼんやりと眺めた。 「 ── 大丈夫ですか?」  運転しながらも、優しげな声で千春が訊いてくる。  俺が「大丈夫」と答えると、千春は前を見たまま苦笑いして、「シノさんはいつでも大丈夫って言うからな」と呟いた。  なんだかその台詞、前にも聞いたような気がする・・・。 「とにかく家に帰ったら、絆創膏変えましょう。傷が早く治るタイプのやつに。途中で、ドラッグストアに寄ります」  千春はそう言って、駐車場のあるドラッグストアに車を止めると、「シノさんはここで待っていてください」と言って、ダッシュボードにしまってあった伊達眼鏡をかけ、車を降りた。  休みの日のドラッグストアは若い女の子で溢れ返っていたから、その中を突破するのに千春には必要なんだろうな、その太くて黒いフレームの眼鏡が。  ただ、車の中からこうして見ていても、眼鏡をかけた状態ですら女の子達から熱い視線を受けている様子が見て取れて、千春って本当に無敵なぐらいモテるんだなって思った。  こんなにも女の子にモテるのに、彼は男しか好きにならないっていうのが何だか不思議に思える。  どうして千春は、そんな選択をしたんだろう。  恋愛のれの字も経験のない俺なんて、到底分からないことだ。  俺にはそんな選択する前に、恋愛の経験をすること自体ハードルが高く思えて、ホントどうしたらいいか、分からない。  恋をする、人をそういう意味で好きになるって、一体どういうことなんだろう。  友達や恩師に対して思う『好き』の気持ちと、どこがどう違うのか。  人はそうなった時に、明らかにはっきりと、自分が恋をしていると気付くものなのか。  音でも鳴るの? それとも電流でも走る?  こうして車の前を通り過ぎていく人達だって皆、当たり前のように『恋』に気付き、誰かを『愛』する・・・もしくは『愛』されている訳だ。  この世の中には、こうしてたくさんの人間が生きていて、皆すべからく人と人の間から生まれてきている訳で。ということは、人がいるのと同じ数だけ、人々は恋をし、愛し合い、その結晶を残してきた。  他でもないこの俺だって、親父とお袋が好き合ってできた子どもだ。  いまいち冴えなかった俺の親父ですら恋愛できたのに、俺にはおよそ、それができるかどうか自信がない。  千春にいろいろアドバイスを受けてここまで来ているけど、正直、本音を言ってしまえば、恋愛をするより千春と一緒にいろいろなことを話したり、チャレンジしたりすることの方が楽しくて、それがほとんど目的のようになってしまっているんだ。  やっぱりこういうのって、よくないよな。  千春はこんなにも俺のことを思って、頑張ってくれてるのにさ。肝心の俺は、恋愛に足を踏み出すより、千春と一緒に時間を過ごしていた方がいいと思ってるなんてさ。  千春はここのところ・・・あのクラブでの一件があって以来、夜遊びに出かけるのを控えているようだった。  俺が残業で一緒に晩飯を食えない日ですら、出かけるのをやめているようだ。  それってきっと、俺のせいだよな。  俺に遠慮して、遊びにいくのをやめたんだ。  俺は、千春の生活のリズムも変えてしまっている。  よくよく考えれば、千春の恋愛も俺が邪魔しているようなものだ。   ── 本当に、ダメな生徒だよ、俺は・・・。  俺が助手席の窓に頭をコツリとぶつけて溜息をついていると、千春が戻ってきた。 「お待たせしました」  千春が車に乗り込んでくるのを見ながら、俺は姿勢を正した。  千春は眼鏡をダッシュボードにしまいながら、ちらりと横目で俺を見る。 「シノさん、そんなに落ち込まなくても大丈夫ですよ。世の男共は、シノさん以上に料理ができない人が山のようにいますから。向いていないことを苦労して追いかけるより、得意な点を伸ばしていった方がより効率的です。それがシノさんの個性になるし、魅力になる訳ですから」 「・・・伸ばすような魅力かぁ・・・」  思わずそう呟いて、俺は手で口を覆った。  俺がこういうネガティブ発言をすると、決まってブラック・チハルが降臨するからだ。  俺はたらりと脂汗を垂らしながら、千春を見る。  千春は、少し困ったような表情をしていた。  いつか、電車の中で一瞬見せたような表情だった。  あれ? ブラック・チハルにはならないの?  そう思っていたら、千春が俺を見つめて呟いた。 「シノさんの魅力、知りたいですか?」  凄く優しげな声だった。  千春が助手席の方にグイッと身を乗り出してくる。  目の前に千春の整った顔が近づいてきて、俺は思わず身をすくませた。  びっくりする。  そのままキスでもされるんじゃないかと思う近さで。 「まず、この黒目の大きな奥二重の目でしょ」  千春の鳶色がかった瞳が、俺の目を観察するように覗き込む。 「それから、高くて真っ直ぐ通った鼻筋でしょ」  千春の指が、俺の鼻筋を辿る。 「唇も結構ふっくらしてて、女の子は喜ぶ形だと思うし。八重歯もカワイイです」  千春の指が、そのまま俺の下唇の淵をなぞる。 「シノさん気付いてないと思うけど、指の形もキレイなんですよ」  千春の手が、俺の絆創膏だらけの左手を慰めるように数回優しく撫でた。 「でもねぇ、シノさん。シノさんの魅力は、ただ単に外見だけじゃないんです。もっと凄いところがあるんですよ」 「凄い、ところ?」  俺が訊き返すと、伏し目がちだった千春の瞳が、また俺の目に戻った。  俺はハッと息を飲む。  千春の手が、俺の胸元にぴたりと置かれた。  まるで心臓に手を添わせるように。 「 ── 心ですよ、シノさん」 「心?」 「シノさんは、誰にも持ち得ないシノさんだけの美しさがある。純粋で真っ直ぐで、一生懸命で。大丈夫じゃない時も大丈夫って言ってしまう頑張り屋さんなところとか、素直に自分を戒める謙虚さとか。そんな本当のシノさんを知れば、女の子達だってすぐあなたの虜になりますよ。 ── ま、ただ、大丈夫じゃない時は、僕にくらいは大丈夫じゃないって言ってほしいですけどね」  千春はそう言って、笑顔を浮かべた。  何だかとても切なそうに見えたのは、気のせいだろうか。
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