act.29

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act.29

<side-CHIHARU>  僕は、咄嗟に前を向いた。  どうしたらいいか、分からなかった。  溝渕さんが、心配そうに僕の顔をチラリと見たのが、視界の隅に見えた。  空気の動きで、吹越さんが僕の席の二つ先の椅子に座ったのを感じた。 「マスター、前にここでいただいていたものを貰えますか? ええと、生憎、名前を忘れてしまって・・・」 「カルバドスでしたよね、確か。リンゴが瓶に丸ごと入っている・・・」 「あ、そうそう。それです」 「まぁ、リンゴのお酒なの? おいしそう。私も欲しいわ」 「カルバドスは、キツいお酒だから、甘い味じゃないんだよ。カクテルを作ってもらいなさい」 「あら、そうなの。甘い訳じゃないの?」  僕はギクリとして、思わず横を見てしまった。  吹越さんは、女の人を連れてきていた。  忘れもしない。  空港でチラリと見ただけだけど、絶対に忘れない女の顔。  あれは、吹越さんが出世のために結婚した女だ。  僕があまりにもキツイ眼差しで見ていたせいだろうか。吹越さんが、ふいにこちらを見た。  吹越さんも、心底驚いた顔で、僕を見た。 「 ── ち・・・成澤、くん」  吹越さん、『千春』と呼びかけて、わざわざ名字で呼び直した。  僕は、吹越さんから視線を外した。   ── ああ、このままここから消えてなくなりたい・・・。 「あら? お知り合い?」  吹越さんの奥さんが興味津々といった感じのあからさまな視線を僕に向けてくる。僕はその視線に不快感を感じ、目を瞑り、右の眉の下をカリカリと掻いた。 「あ、ああ・・・。日本にいた頃、教えていた学生さんだ」  確かに吹越さんの言ってることは間違っていない。  僕は、吹越さんにたくさん勉強を教えてもらっていた訳だから。  でも、それ以外に教わったことの方が多かった。とても。  僕は大きく息を吸って、吐き出した。  その息は小刻みに震えていた。 「ねぇ、ちゃんと紹介してくださらない?」  奥さんは弾んだ口調でそう言った。  よもや彼女も、その『学生さん』である僕が、亭主の『前の男』だってこと、想像もつかないだろう。 「成澤千春くんだ」  吹越さんの余所余所しい声を聞きながら、僕は腹を括った。  さっさと挨拶だけ済ませてここを出れば、嫌な思いをこれ以上しなくてもいいはずだ。 「澤です。今は、澤清順と名乗ってます。初めまして」  僕は立ち上がって、彼らに近づいた。 「そ、そうだったね。今は、作家さんだって?」  吹越さんがそう訊いてくる。  吹越さん、僕が作家デビューしたの、知ってるんだ。 「ええ。愚作を書いてますよ」  僕が肩を竦めると、「いやいや、よく売れてるんですよ、彼の作品は」と溝渕さんが言ってくれた。 「まぁ! プロの小説家なの?! 凄いわ!」  奥さんが、僕の全身を舐めるように見た。 「こんなにカッコいい青年が、小説家なんて」  いかにも箱入り娘のお嬢様育ちといった風情のメイクに服。  本当に、僕とは正反対の人種。  僕はそのまま、金を払って店を出ようと、ジャケットの懐を探った。 「あら、あなた! 引き止めて。いろいろお話聞きたいわ。ねぇ、今度決まった新居にご招待したら? ほら、麻香がいい人いたら、紹介してほしいって言ってたでしょう? 丁度いいわ!」 「おい! 初対面なのに、失礼だろ・・・」 「いいじゃないの。澤さん、実は私達、これまでシンガポールにいたんですけれど、今度私達、日本に帰ってくることになって。今日新しいお家が決まったところなんですよ。私達に子どもはいないんですけれど、子ども同然に可愛がってる姪がおりましてね。麻香って言って、お茶の水女子大の二年生ですの。ミスキャンパスにも選ばれたぐらいの美人で・・・」 「おい、やめなさい」  いろいろ早口にまくしたてる甲高い声を聞いていたら、何が何だか分からなくなってきて。  自分が怒っているんだか、悲しんでいるんだか、惨めなんだか、辛いんだか、本当に何も分からなくなって。 「失礼ですが。僕は、男が好きなんですよ」  気付けば、勝手に口が動いていた。 「毎晩、とっかえひっかえ、行きずりの男を捕まえてはホテルに連れ込んでいるんです」  さすがのおしゃべりが得意な奥方様も、僕の言い草に口をポカンと開けたまま、何もしゃべならくなった。 「吹越さんも久しぶりにどうです? そろそろ女相手のセックスにも飽きたところでしょ? あの頃より、随分うまくなったんですよ、僕」  奥さんがぎょっとして、吹越さんを見る。  吹越さんは、顔を顰めて頭を抱えた。   頭の上は、白髪で真っ白になっていた。    ── 僕があんなに愛した人は、こんなにみすぼらしい人だったっけ? 「あ、そうそう。吹越さんの教えてくれた得意料理。パエリアでしたっけ? あれ、いまだに僕の十八番なんですよ。僕の彼氏達も皆、よろこんで食べてくれます。吹越さんに料理を教わっといて、よかったですよ。奥様も、吹越さんに習ったんですか? 料理」  僕がそう話しかけると、奥さんは僕と吹越さんを交互に何度も見比べて、「ちょっと、あなた。どういうことなの?」と低い声で吹越さんにそう訊いた。  僕は今度こそ本当に、懐から一万円札を取り出すと、カウンターの上に投げ置いた。 「あ、成澤くん、おつり・・・」  溝渕さんがそう言ったが、僕は「迷惑料ですよ」と言って、そのまま店を出た。  バタンと重いドアを閉めて、しばらく僕はそこに立ち尽くした。  そして両手で顔を覆う。   ── 決してあんなこと、言うつもりじゃなかったのに。  そのまま、何事もなく、ただの知り合いだったかのように挨拶をして、店を出るつもりだったのに。  吹越さんと別れたのはもう何年も前だし、もう他人なんだから、わざわざ吹越さんの『今』を掻き回すなんて、する必要はなかった。  吹越さんに前触れもなく会ってしまったショックと、奥さんに言われた言葉と、自分への激しい自己嫌悪の感情が綯い交ぜになって、僕は酷く混乱していた。  ゴホゴホと咳き込んで、あげく道ばたに吐いてしまった。   ── 最悪・・・。最悪だ、こんなの。  近くの自動販売機でミネラルウォーターを買って、口の中を濯ぐ。  酒を飲んで吐いたことなんて、これまで一回もないのに。  運良くタクシーが通りかかったので、僕は必死になってタクシーを停めた。 「 ── お客さん、大丈夫かい? 顔、真っ青だよ?」  運転手が、ミラー越し、本気で心配そうな顔つきをしてそう言った。  僕は二、三回頷くと、「月島まで行ってください」と伝えたのだった。 <side-SHINO>      エレベーターのドアが開いて、見慣れた廊下に出ると、俺はホッと溜息をついた。 「帰って来た・・・」  思わずそんな言葉が口に出る。  こんなに残業で遅くなったのは、久しぶりだった。もう少しで午前様、といっていい時間だ。  俺は、自分の部屋の隣、303号室の前で、ふと足を止めた。   ── 千春、もう寝てるかな。  廊下側に面した窓は真っ暗だ。  俺はドアをふと見遣って、ギョッとした。  ドアが、少し開いてる。  どうしたんだろう。  俺は、なんだか胸がざわついて、部屋の中に入った。 「 ── 千春?」  部屋の中はどこもかしこも真っ暗で、俺は益々不安になった。  まさか、泥棒が入ってるだなんてこと、ないよな?  俺は身構えつつ、ダイニングのドアを開けた。 「千春?」  もう一度名前を呼んでも、返事はなかった。  壁を探って、照明のスイッチを入れる。  千春は、いた。  ソファーに踞るようにして座っていた。 「どうした?」  俺が声をかけると、今気がついたというように、ゆっくりと俺の顔を見た。  酷い顔色だった。 「大丈夫か? 具合、悪い?」 「何でも、ありません」  千春はそう言って、俺から顔を背けた。 「何でもないはないだろう? 泣いてたの?」  俺がそう言ったことが、千春の何かのスイッチを押してしまったらしい。 「泣いてなんか、いません!!」  千春が、俺を見て怒鳴った。 「泣いてなんか、ない!!」  二回も同じことを怒鳴る。  どうしたんだ、千春。一体、何があった? 「でも、泣きたそうじゃないか」  俺は、千春の顔を見て言う。  本当に、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。  千春は唇を噛み締めた。 「何をバカな・・・。泣き方なんか、分かりゃしないのに・・・。泣ける訳、ないでしょ」  力なくそう言う。 「泣けよ。悲しいことがあったら、苦しいことがあったら、泣けばいいじゃないか」 「泣きません」 「泣けよ」 「泣きません」 「やせ我慢するな!」  俺が言った言葉に、カチンときたらしい。  千春は凄い勢いで立ち上がると、「やせ我慢なんか、してない!!」と怒鳴った。  俺はしばらく、黙って千春を見つめた。  千春の心が動き出すまで、じっと待つことにした。  絶対に動いてくれるって、俺には変な確信があったから。  そうしていたら、俺を睨んでいた千春の瞳に、みるみる涙が浮かんできて、やがてぽろりぽろりと零れ落ちた。  なんかそれを見たら、俺、やたらとホッとして。  俺は千春に近づくと、カバンを放り出し、ぐいっと彼の腕を引き寄せて、抱き締めた。  子どもがぐずるのをあやすように、背中をポンポンと何度も叩いて、そっと撫でた。 「・・・なんで・・・」  涙声の千春が、俺の肩口で呟く。  俺は何も答えずに、ただ腕の力を強めた。  俺はただ、何かに酷く傷つけられた彼を、その何かから守ってあげたかったんだ。  ただ、それだけだったんだ。  千春は俺の背中にしがみつくと、小さく声をあげて泣いた。  本当に、まるで幼い少年が泣いているようで、俺も鼻の奥がツンとなった。  泣きたいだけ、泣けばいい。  今まで泣けなかった分、思いっきり。  それが済むまで、俺は傍にいるよ、千春。  それが今の俺にできる、千春への恩返し。  俺が傍にいて、千春が素直に泣けるのなら、それが俺の役割。  俺ばっかり千春の世話になりっぱなしで、千春にはひとつもいいことなんてなかったはずだから、これが神様に与えられた『俺が千春と出会った意味』だと思った。  俺は、ずっと千春の背中を撫で続けた。  千春の泣き声が収まるまで。   ── やっと落ち着いてきたかな、と思った頃。   その時だ。  ふいにガバリと千春が顔を起こしたのは。  気付けば、すぐ間近に涙に濡れる千春の鳶色の瞳が見えたのだった。 <side-CHIHARU>  僕が荒々しく唇を奪うと、シノさんはとても驚いた顔をして、ただ無抵抗に僕からの暴力的なキスを受けていた。  僕はそのまま、ラグの上にシノさんを押し倒す。  シノさんは黒目がちのその瞳を大きく見開いて、僕を見上げていた。  僕はそんなシノさんの目を見ないようにしながら、ジャケットを広げ、中のシャツを掴むと、勢いに任せてボタンを引きちぎり、シノさんの胸を暴いた。  その間、なぜかシノさんは抵抗するでもなく、一切声も上げないで、じっとしていた。  いきなり僕が乱暴に扱ったから、きっと驚いて、どうしていいか分からなくなってるんだ。  僕の耳には入るのは、ただ僕の荒い息づかいだけ。  恐ろしく獰猛で、残酷な、獣の息づかい。  シノさんはきっと怯えているに違いない。  いっそその方が、僕のこの苛立ちを慰めてくれる。  もう何もかも、メチャクチャに壊してしまいたい・・・!  僕は、もう一度シノさんの唇を襲おうとして、シノさんの顎を乱暴に掴んだ。  顔を近づけようとして、ハッとする。  僕を魅了し続ける、あの真っ黒で大きな瞳は、僕に怯えてなんかいなかった。  それはとてもとても静かな色を湛えて、僕を・・・ただ僕だけを映していた。  恐ろしいほど純粋で澄み切った瞳。  そんな美しい瞳に、濁った欲望を露にした醜い男の姿が映っていた。   ── 僕は一体、何をしているんだろう。  シノさんは、何も訊かず、僕を受け入れようとしてくれている。  そんなシノさんに、僕は何をするつもりなのか。  そう思ったら、両手がブルブルと震え始めた。  僕は、シノさんを掴んでいた手を離して、身体を起こす。  そのまま肩で息をしながら、シノさんから身体を背けた。 「出て行ってください」 「 ── 千春」 「お願い。本当にどうか、出て行ってください・・・!」  僕は震える両手で顔を覆った。  もうシノさんを見られない。  苦し過ぎるよ。  もう、耐えられない。  吹越さんに会ったことで、あの時のトラウマが蘇ってしまった。  つまりはそれは、シノさんというかけがえのない大切な存在を、またも手放さなければならないという苦痛。  今夜の再会は、吹越さんに受けた仕打ちよりも、シノさんを失うことの方が僕にとって大きな苦しみだということを痛感させられた単なるきっかけとなってしまったんだ。  嫌というほど、僕の心は、僕に反抗してくる。   ── ああ、シノさん、好きだよ。好き過ぎて耐えられないんだ、こんなのは。 「千春」  シノさんはもう一度僕の名を呼んだが、僕は両手で顔を覆ったまま、頭を横に振り続けた。 「どうか・・・、どうか・・・。僕のことを少しでも哀れだと思う気持ちがあるんなら、どうか独りにしてください・・・! お願い・・・」  しばらくシノさんはその場にいたが、やがて空気が動く気配がした。  シノさんが、カバンを拾って、部屋を出て行く。  やがて、ガコンと玄関のドアが閉まる音がした。  冷たく響く、鉄の音。  僕には、棺桶の蓋が閉まる音のように聞こえた。  <side-SHINO>  翌日。  俺は千春のことが気にかかりながら、会社に出勤した。  会社に行きしな、千春の部屋のチャイムを数回鳴らして、ドアを叩いてもみたが、返事はなかった。携帯に電話をかけてみたけど、電源自体が入っていないのか、コール音さえしない。  俺はそのまま惰性のようにバスに乗ったけれど、車窓を流れていく風景も、その後の満員電車の混雑も、いつもと同じ景色なのに、まるで灰色に見えた。  千春が、あんなになるなんて。  子どものように泣きじゃくって、獣のように俺を押し倒した。  俺はそんな千春が怖くもあった。  ・・・けど。  それで千春の哀しみが癒されるのなら、それでもいいって俺は思ったんだ。  例え、どんなに酷く扱われたって、俺は大丈夫なんだって思えたから。  だって、千春なんだから。  あんなに俺のことを気遣ってくれて、励ましてくれた人だから。  俺は、もっともっと君を理解すべきだった。  強いとばかりずっと思い込んでいた。  でも、そうじゃなかったんだよな。  葵さんが言っていたように、千春にだって、他の人と同じ弱さが心の奥底にあったんだ。  それなのに君は、それを表に出すことを決してしなかった。  そうさせたのはきっと、この俺や君を取り囲む人達が、君をその場所に追いやったんだ。  いつも超然としていて、冷静で、頭がよくて、何でもできて、ちょっと冷たくて、でも困ってる人間を見ると、とてつもなく優しくなる人。  俺達はいつしか、君にそんな完璧な仮面を付けるように強制した。  君は自分こそが罪人だとでもいうような顔をしてみせたけど、本当に悪いのは俺だよ、千春。  君にそんな顔をさせたのは、俺だ。  俺がきちんと自分の気持ちと向き合って、それをちゃんと君に伝えていれば、きっと君があんな顔をすることはなかったのに。  ── 俺は、千春のことが好きだ。  あんなに彼女が欲しいって連呼してた俺だけど。  本当に好きなのは、千春、君なんだ。  男同士の恋愛なんて最初は想像もしなかったけど、初めて肌を合わせた時から、俺は君に愛されることが嬉しくて仕方がなかった。  君と過ごした時間全てが、愛おしかった。  いつもそこにいるのが当たり前になっていて、俺はそれに甘えて、自分のこの感情が一体なんなのかということにきちんと決着をつけなかった。  自分がそんな甘い感情に捕われていることに目を向けるのが何だか凄くテレくさくて、そんなことをしなくても千春なら何となく分かってくれているんじゃないかって、勝手に都合よく思い込んで。  自分のこの気持ちが、「千春を好き」だというところから全て沸き上がってくるんだってことに、ちゃんと答えを出さなかったんだ。  もっと早く、そのことをはっきり千春に伝えていれば、千春はあんな顔をせずに済んだのかな・・・?  でも、今頃になって・・・君に拒絶されてから、こんなことを思うなんて、俺は卑怯だよな。  ── ごめん、千春。ごめん・・・。  俺は、電車からホームに押し出されるようにして出た。  それでも立ち止まっている俺に、何人もの人がぶつかっていく。  皆、一瞬迷惑そうな顔をして俺を見たが、俺の顔を確認するとちょっと驚いたような、そして気まずそうな表情を浮かべ、去っていく。OL風の女の子には、足先から顔までジロジロと怪訝そうに見つめられた。  俺は、自分の頬に手を当てた。  濡れた感覚。  俺は、ラッシュ時のホームのど真ん中で、バカみたいに泣いていた。  「課長、今日、早引けしていいですか」  会社に出勤したなり俺がそんなことを言い出したんで、課長は目を白黒させた。 「おい、なんだよ、朝っぱらから。まぁ、大事なイベントは昨日終わったらから一先ずは構わないが・・・それで? 何時から早引けしたいんだ」 「今からです」 「はぁ? お前、何言ってんだ?」  課長が口を歪めた。  俺の顔を見た途端、課長は口を噤んだ。 「・・・なんだ、お前、マジに言ってるのか」 「はい」  課長は赤くなった俺の目に気がついたのだろう。 「体調が悪い訳じゃないんだな」 「はい」 「どうした? ご家族にご不幸でもあったか」 「いいえ」 「じゃ、どうしたんだ。理由を聞かねば、許可も出せん」 「好きな人を失いそうです」  俺がそう言うと、課長はポカンと口を開けた。  課長の隣に席のある田中さんも、同じような表情を浮かべている。 「おっ、お前、本気でそんなこと言ってんのか?」 「はい」 「仕事とプライベートは別だっていうのは、社会人としての常識だろう」 「分かっています」 「それでもお前は、早引けしたいのか」 「はい」 「・・・それならお前、ズル休みすりゃよかったじゃないか」 「会社に来る時に、思いついたので」 「それにしたってだなぁ・・・。── ま、変なところまで律儀というか、真面目というか。全く、お前らしいがな」  課長はそう言って、苦笑いを浮かべる。 「明日は、ちゃんと出社するんだぞ」 「ありがとうございます」  俺は一礼すると、身を翻して部屋を出た。  田中さんの「頑張って!!」との声が、俺の背中を押してくれた。  俺は、さっき乗ったばかりの電車にまた乗り込んで、月島に取って返した。  途中何度か携帯を鳴らしたが、やはり携帯は繋がらなかった。  何だか物凄く胸騒ぎがする。  不安で不安でたまらない。  早く、早く千春の声が聞きたい。顔が見たい。千春をこの腕に抱き締めたい。  ── 千春・・・千春・・・!  駅に降り立つと、タクシーを捕まえた。  バスなんて悠長に待ってられない。 「運転手さん・・・、急いで!」  俺があんまり急かすものだから、タクシーの運転手も前のめりになって運転してくれた。  マンションの前に降り立つと、俺は階段を駆け上がって、303を目指した。  303のドアは、朝と何ら変わらない様子で閉まっていた。 「千春! 千春!!」  俺はチャイムを数回押し、ドアを何回も叩いたが、まるで応答がない。  気付けばドアを叩く俺の手は真っ赤になっていたが、そんなの構っている場合ではなかった。  あんまりしつこくドアを叩いていたのが迷惑だったのか、302の主婦がドアを開けて顔を覗かせた。 「お隣さんなら、30分前に出かけましたよ」 「どこに?」  俺がそう訊くと、「そんなの、私が知る訳ないでしょ」と言われた。  確かに、そうだよな。  どこに・・・どこに行ったんだろう・・・。  そうこうしてたら、マンションの管理業者の人が姿を現した。  303の前に立つ俺を、怪訝そうに見る。  俺が頭を下げると、「あ、篠田さんですか」と俺に気がついた。 「どうされました? 何か、トラブルですか?」  彼は心配げに俺に話しかけてくる。 「え? どういうことですか?」 「今朝ほど、突然連絡がありまして。成澤さん、お引っ越しを希望されるとかで。こちらとしては、一ヶ月前にお知らせしていただくのが条件ですので、そこら辺を直接会ってお話しようと思いましてね・・・」  俺はそれを聞いて、愕然とした。   ── 何でだよ、千春。どうして・・・・。   <side-CHIHARU>  目の前で、岡崎さんがせわしなく電話をかける。 「 ── ええ、ええ。今日運んでもらえます? 夜までに。ええ、急で申し訳ないんですけど。はい、すみません」  その背後では流潮社の社員が、様々な荷物を持って右往左往していた。  僕はと言えば、仕事場のだだっ広い部屋にあるソファーにポツンと座って、ぼんやりと空を見つめていた。  岡崎さんが、僕の向かいに座る。 「ねぇ、どうしたの? 急に仕事場の方に寝床を移すって。どんな心境の変化よ」  僕は溜息をついた。 「本腰入れて、執筆活動に力を入れたいと思っただけですよ」  僕がそう言っても、岡崎さんはあまり信用していないというような表情を浮かべた。 「本当にそう思ってるの? まぁ、嘘でも、こちらとしてはいいことだけど」 「家具は部屋に入りそうですか」 「ええ」  岡崎さんは、分厚いスケジュール帳をソファーの上に投げ置いた。 「仕事部屋以外の部屋は書籍の物置と化していたから、そこを片付ければ大丈夫でしょ。リビングダイニングもほとんどモノがなかったから、丁度いいわ。ま、月島のマンションはただでさえ、あなたにとっては不釣り合いなところだったんだから、よかったんじゃないかしら」   ── 不釣り合い・・・か。  そうだね。  僕が、過去のよき思い出に縋り付き過ぎたんだ。 「それにしても酷い顔色よ。ちゃんと休んでいるの? 夜遊びも程々にしてね」  岡崎さんの小言を聞きながら、僕はソファーに横になった。  そっと瞳を閉じる。  もう何も考えたくない。 ── 何も。  あのまま月島のマンションにいたら、きっと僕はシノさんを傷つける。  精神的にも、肉体的にも。  それなら、物理的に離れてしまえばいい訳で。  だから僕は、ほとんど夜逃げ同然の心境で仕事場に転がり込んだ。 「それで、携帯はどうしたの? 今日かけても、全然繋がらなかったけど」 「 ── 壊しました」 「ええ?」  岡崎さんが僕の前にしゃがみ込んで、顔を覗き込んでくる。 「本当に大丈夫? 何があったの?」 「話したくありません」  岡崎さんは溜息をついた。  僕がそう言うと、絶対にしゃべらないことを彼女は分かっているからだ。  さすがのキャリアウーマンの彼女も、まるで母親のような顔つきをして僕を見ると、少し中座してタータンチェックの膝掛けを取ってきて、それを僕の身体にかけた。 「今日の予定はどうする? キャンセルしましょうか?」  岡崎さんは、僕の前髪を指で掻き上げながら、そう言う。  僕はウンと頷いた。 「分かったわ。しばらく休みなさい。ここのところ、私達も本業以外の仕事をあなたに頼み過ぎていたかもね。引っ越しは、業者さんにしっかり頼んでおいたから。夕方には来てくれるはずよ。取り敢えず家具の配置とかは、こちらで指示を出しておくから、気に入らなければ自分で直しなさい。じゃ、夕方、また来るわ。いいわね」  僕はまた、無言で頷いた。  もう、喉がぴったりと張り付いたような感覚で、一生声が出ないように思えた。
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