act.08

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第四章 おしりの肉は、背中まで割けることがない件について <side-CHIHARU>  篠田さんの申告通り。  彼は、なかなか酒が弱かった。  酒の卸売会社に勤めているのに酒が弱いなんて、ホント笑ってしまう。  まぁ、彼の場合は就職する時に職種が選べなかったし、就職当時は未成年だった訳だから、自分が酒が弱いなんてことを知ったのは、就職してしばらくたった後だったんだろうけど。  僕は、耳まで真っ赤になって眠りこけてしまった篠田さんの腕を肩に担ぎ、バーを出てタクシーに乗った。  タクシーが走り出すと、窓際に寄りかかった篠田さんの頭がゴツゴツと窓に当たる音がし始めたので、僕は慌てて彼の頭を僕の方に引き寄せた。  篠田さんの頭が、僕の肩に寄りかかる。  こういうシチュエーション、普段なら完全にホテルなんだけどな。  僕は、間近にある篠田さんの俯き気味の顔を眺めた。  ── 篠田さん、意外にまつげが濃くて長い。  普段は奥二重の奥に根本が隠れて見えてないから、分からなかったんだ。  そのまつげの左側が何度もあくびをしていたせいで、艶やかに濡れていた。  僕は、まつげを濡らす水滴を指で掬った。  それを何となく指の腹で広げる。  そうして僕は、本日何回目になるやら分からない溜息を、またついた。  ── 誰か、これは冗談だと僕に言い渡して欲しい。  僕は、明らかにこの人に惹かれ始めているんじゃないだろうか。  最初は、小動物を愛でる感じ・・・なんてふざけたこと考えてたけど。  僕が自分のこの感情を冗談にしてしまえていたのは、ほんのついさっきまでだ。  そう、篠田さんが、「君は生まれた時からきっとずっと、好意的な視線に囲まれてきているんだろう。だから、劣っている人間がどういう気持ちでいるか、きっと理解できないんだ」と言い出す時まで。  はっきり言って篠田さんのその発言は、僕を鋭く傷つけた。  僕は、生まれた時から好意的な視線など全くないところで育った。自分を世界一劣った人間だと思っていたし、辛酸は幼い頃に一通り舐め尽くしてきた。今の僕が、どれほどのものを捨てて完成されてきたか知りもしないで、ただただ羨ましいと言われても。  だから、篠田さんが何気に言った言葉は、僕がキレるスイッチとなるものだった。  ── 本当の僕のことを見る気もないくせに。  過去に同じようなことを僕に言い放った人間は、その場で立ち直れなくなるほど言葉責めにして、ボロボロになったところで冷たく切り捨ててきたのに。  ── なのになぜか僕は、篠田さんにそうしなかった。  それどころか篠田さんの手を握って、なぜ篠田さんがそうまで思うようになってしまったかを聞き出そうとまでした。  僕のその行為は、はっきり言って反射的に出たことで、僕自身驚き、戸惑った。  僕の中で起こった怒りの感情は、篠田さんを更正させる・・・本気でそういう単語が浮かんだ・・・ことに向かった。決して篠田さんには向かわなかった。  これって一体、どういうことだ。  自分の中で起こったことなのに、全く説明ができない。  それどころか、いきがって頼んだスコッチで酔いつぶれていく篠田さんを愛おしくすら思うなんて。  ── 本当にどうかしてる。  相手はノンケじゃないか。  もうノンケは相手にしないと、僕は固く決めたはずだ。  それに、篠田さんだって困るに決まってる。  こんな生産性のないことなんて、僕が最も嫌ってることだ。  だから、今のうちに『これはただの友達として好意をよせているだけだ』という暗示を自分に掛けるべきなんだ。  けれど、うまくできるかな、それが。  コントロールできるだろうか、自分を。  これまでは、凄く上手にそこら辺はしてきたつもりだけど。  今、僕がこんなにも不安になっているのは、自分の中に今ひとつ分からない感情の動きがあったからだ。  なぜ僕は、あんなにもムキになったんだろう。  篠田さんがネガティブなご託を並べまくっていうのを聞いて、僕はなぜあんなにも腹が立ったのか。  そしてどうしてそこまで、知り合って間もない他人に、『そんなこと言わないで、立ち直ってほしい』と切望したのか。  ── 分からない。本当に分からない、自分が。  夜の月島は美しい。  元々埋め立て地だから水辺が近く、最近では近代的な高層マンションが建ち並ぶようになったので、まるで小さな摩天楼といったところだ。月島の玄関・勝鬨橋を渡ると、背の高い建物から瞬く明かりが水面に映ってキラキラしている風景に出会う。  でも悲しいかな、僕が初めてここにきた頃の昭和の匂いが染みついた下町風情の風景は、どんどん少なくなってしまっている。  地下鉄が開通したお陰で交通の便は便利になったけれど、得体の知れない連中の人口だけが泡のように膨れて、古くから住む人達との間に歪んだ空間が存在しているように感じる。  こうしていつも、僕が大切にしたいとこだわることは、ことごとく失われていくんだ。  祖母に、この月島に、そして ── 過去に一度だけ本気で愛した人。  だから僕は、失いたくないものほど目を逸らして生きてきた。  適当に生きてもそれなりに楽しいし、有意義に過ごしていける。気持ちいい思いもできるし、気分よくなれることも多い。上辺だけで書いた小説だって、黙っていても売れる。そんな偽物でも、世間は認めてくれるんだ。  だから本当に大切なものぐらい手に入らなくったって平気だって、ずっとずっと言い聞かせてきたじゃないか。  僕は、再びぼんやりと篠田さんを見つめた。  僕と一緒に無理して何杯も飲んだグレンフィデックの香りが、寝息から漂う。 「お客さん、着きましたよ」 「ああ、ありがとう」  僕はタクシー代をカードで支払うと、再び篠田さんを抱えて、マンションに入った。  つい先日似たようなシチュエーションだったことを思い出して、僕は少し笑った。  あの時は花村だったけど、今日は篠田さん。  花村の身体の重みは反吐が出るほど苦痛だったけれど、篠田さんの重みは悪くない。でもま、確実に篠田さんの方が重いけどね(笑)。 「篠田さん、家に着いたよ。鍵、どこですか?」  篠田さんの部屋の前で、篠田さんの身体を揺する。  篠田さんは眉間にシワを寄せて、「う・・・うぅ・・ん」と唸った。  僕は苦笑いする。  ── ちょっと別のことを想像してしまうから、篠田さん、それはやめてほしいんだけど。 「ほら、もうちょっとだから、頑張って。鍵のありかを教えてください」  篠田さんはスンと鼻を鳴らすと僕の胸元に頭を押しつけ、目を閉じたまま「・・・カバンの・・・ポッケ」と呟いた。  その子どもっぽい口調に、僕はまた苦笑を浮かべる。  ── ホント、いい加減にしてほしいね。  僕は、僕と篠田さんの身体の間で揉みくちゃになっているビジネスバッグのポケットを片手で何とか探った。  やっと鍵を探し出し、部屋に入る。  部屋は僕の部屋を反転した造りになっているはずだったので、スイッチの位置は直ぐに分かった。   僕は迷いもなく、奥のダイニングに向かって進む。  ガラスのドアを開けて、ちょっと驚いた。  いろんなものがダイニングテーブルの上や周囲に散乱している。  まるで嵐が通り過ぎたか、空き巣が入ったかといったような有様だ。 「なに、このカオス状態・・・」  僕はそれを横目で見ながら、ダイニングの隣にあるはずの和室の引き戸を開けた。  ギクリとした。  僕は篠田さんを抱えたまま、その場に思わず立ちつくしてしまう。  ── そこには、全く何もなかった。がらんどうだった。  ダイニングの散らかりようとは比べものにならないくらい、本当に何もない。  畳の上に家具が置いてあった痕跡がうっすらと残るだけの空虚な空間。  まるで篠田さんの心の中にぽっかりと空いた穴のように思えた。  ── そうか、ここ妹さんと甥っ子が使っていた部屋なんだ。  ということは、篠田さん部屋は玄関側にある一番狭い部屋か。  逆戻りだ。  僕は、篠田さんを引きずりながら、玄関廊下に面した洋間のドアを開けた。  この部屋だ。間違いない。  室内の様子を見て、僕は確信する。  狭い空間に篠田さんの身体のサイズにしては少し窮屈そうなベッドと、本棚やオーディオ・AV機器、テレビ、クローゼットがぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、僅かながら見える床には洋服やらタオルやら雑誌やらが散乱している。  きっと今まで部屋の片付けは、妹さんがしてくれていたんだろう。今は完全に『男やもめ』といった具合の部屋だった。  僕は、篠田さんをベッドに横たえる。 「う~ん・・・・」  篠田さんは1回身を捩らせて安心したように大きく息をすると、スヤスヤと心地の良さそうな寝息を立て始めた。 「篠田さん、そのまま寝ると、スーツ、シワになりますよ」  そう僕が声をかけても、起きそうにない。  僕は、篠田さんの上着と靴下を脱がせた。  スラックスは正直迷って、ベルトだけ外した。  別にここまできて下心は更々なかったが、今の僕に篠田さんのズボンを脱がす勇気はなかった。  ── しかし、それにしても。  僕は周囲を見回して、溜め息をつき、呟いた。 「・・・この散らかりようったら・・・ヒドス」 <side-SHINO>  目が覚めると、まず頭が痛かった。 「う~~~~~」  俺は、ベッドの上で唸り声を上げた。  間違いない、二日酔いだ。  夕べは、調子に乗って強い酒を速いピッチで飲み過ぎた。  だって、途中から記憶ないもの。  うわ~・・・、こえぇ。  酒で記憶なくしたのって、どれくらいぶりだろう。  いつもはそうならないように用心してあまり飲まないようにしてたんだが、夕べは成澤くんがいたせいか、彼のペースに合わせて飲んでしまった。  しかし成澤くん、酒、強すぎだよ・・・。  俺は頭を抱えて、ハァと溜息をつく。  と、枕元にあった携帯が鳴った。  メールだ。成澤くんからのメール。 『おはようございます。起きたら、朝食食べに僕の部屋に来てください。ー 千春』  と書いてある。 「相変わらず、いい人だなぁ・・・。ホント、見かけによらず」  俺は、夕べ朧気に残る記憶の中の、魔王のように怖い形相をした千春くんの顔を思い出していた。それでも、そんな顔してたって、やっぱりキレイだったんだけどね。まぁ、キレイだからこそ余計凄みがあるというか(汗)。  俺は携帯を閉じて初めて、部屋の中の様子が変わっていることに気づいた。 「 ── 部屋ん中、きれいになってる・・・」  床に散らかり放題だった雑誌は、ベッドサイドにきちんと重ねて置いてある。  脱ぎっぱなしにしてあったYシャツやTシャツは、どこかに消えてなくなっていた。  俺は携帯を持ったまま部屋を抜け出すと、ダイニングも覗いてみた。  ダイニングもきれいに片付いている。  床に散らばっていた郵便物は、新聞とあわせてダイニングテーブルの上に重ねてあった。  その隣には行方不明だったテレビのリモコンにボールペン数本と角がヘコンだティッシュボックス。  スーパーのビニール袋は小さく三角形に折り畳まれて、キッチンの作業スペースに纏めて置かれてあった。  飲みかけそのままだったマグカップも洗われて、水切りカゴの中に置かれている。  俺は頭の痛さも吹き飛んで、洗面所に向かった。  少々慌て気味に、洗濯機のフタを開ける。  あちらこちらに散乱していた衣類やタオルで一杯になっていた。  俺は顔を上げて、キョロキョロと眼球を左右に動かした。  ── 散らかっているものが、勝手に片付くはずはないよな。そうなるってーと、つまり・・・ 「千春くんが片付けてくれたんだ・・・」  俺は、顔が真っ赤になっていくのを感じた。  ── これじゃ、どっちが年上かわかったもんじゃない・・・。  俺は再び溜息をつくと、昨日から着っぱなしになっている汗くさいYシャツを脱いで、洗濯機に突っ込んだ。  液体洗剤を入れ、フタをしめてボタンを押す。  水が多量に流れ込む音を聞いてから、俺は洗面台の鏡に目をやった。  二日酔いのワリに、顔色は悪くなかった。  久しぶりに、随分ぐっすり眠れたような気がする。  千春くんに、あれやこれやとグチったからかな・・・。  ホント、俺、ひでぇよな。  夕べは多量に汗を掻いたから、Yシャツを脱いでもまだ汗くさかった。  二日酔いの時はあまり風呂には入らない方がいいのだが、俺はまずシャワーを浴びることに決めた。  さすがにこんな有様で千春くんの家には行きたくない。  俺は、『あと30分ほどしたら、行きます』と返信して、風呂場の戸を開ける。  そこで俺はハッとした。 「パンツ!!」  俺は慌ててズボンとパンツを脱ぐと、今し方回り始めた洗濯機に、パンツを放り込んだのだった。     風呂上がりに白のTシャツとチノパンを着て、俺は少々慌て気味に千春くんの部屋のチャイムを押した。  なんだかんだいって、30分を5分ほど過ぎてしまった。  ドアが開く。  白いタンクトップの上からブルーのストライプシャツを羽織った千春くんが立っていた。下は洗いざらしのジーンズに裸足。  朝から本当に隙がなくて、モデルさんが立っているみたいだ。 「お風呂、入ってたんですか?」  俺の湿った髪を見て、千春くんが少し眉間にシワを寄せる。 「うん、汗くさかったからさ・・・」 「でも、アルコールを抜くのには、よくないのに」  千春くんが中に入るよう促してくれる。 「それは分かってたんだけどさ。流石に昨日の汗塗れのままじゃ、あんまりだろ。それに・・・── ああ、そういえば、部屋、片付けてくれてありがとう。千春くんだろ? 片付けてくれたの」  前を歩いていた千春くんが、突然ぴたりと止まる。 「おっと」  危うく背中にぶつかりそうになった。俺は千春くんの背中に両手をつく。  千春くんは、首だけ僕の方に向けた。  千春くんの横顔が、怪訝そうに少し歪んでいる。 「今、僕のことを『千春くん』って呼びました?」  へ?  俺はそう指摘され、ようやく気がついた。  そそそ、そうだ。勝手に『千春くん』って呼んでた!! えっと、い、いつからだろう??? 「ご、ごめん! 俺、断りもなく・・・」 「そんなことはどうでもいいんですがね。── あんまり僕を驚かせないでください」  彼はそう言って俺から視線を外すと、胸を押さえてハァと息を吐いた。 「ええと・・・成澤くん」  俺がそう呼び直すと、今度はキッとした目で俺を見た。── 出た、出たよ。ブラック・チハル。 「今更、『成澤くん』はないでしょう。千春でいいです。千春と呼んでください」 「じゃぁ、千春くん」 「 ── 『くん』もいりません」 「え? 呼び捨て?」 「だって篠田さんの方が年上だし。・・・そうだ。僕も篠田さんのこと、『シノさん』と呼ぶことにします。会社の人にそう呼ばれてたでしょ?」 「まぁ、確かにそうだけど・・・。って、何でそれ、知ってるの?」 「 ── 教えない」  彼はそう俺を切り捨てて、さっさとダイニングに向かってしまった。  こ、これが成澤千春のドSぶりか。  快感というよりは、ただ心臓がドキドキする。  ── オジサン、この刺激に耐えられるかしらん・・・(汗)。  俺は、千春くん・・・いや、千春の後を追った。  「まずはこのコップ一杯のお茶を飲んで。熱いですから気をつけて」  俺は千春に言われるまま、キッチン側の壁付きに置かれたアンティーク製のダイニングテーブルについた。椅子も古びているが、よく手入れされていて座り心地がいい。うちみたいな安売り家具とは全然違う。  俺は、千春の出してくれたお茶を啜った。  んん? 何、このお茶。酸っぱいというか、出汁っぽい味がするというか・・・これ、お茶?  俺が首を傾げていると、千春は向かいの椅子に座り、俺と同じものを同じように啜った。 「梅醤番茶です。二日酔いにいいんです」 「え? うめ・・・??」 「うめしょうばんちゃ、です。祖母から教えてもらった生活の知恵ですよ。十代の頃、僕がイキがってまだ未成年なのに酒をがぶ飲みした次の日に、祖母にこっぴどく叱られながら飲んだ記憶があります」  千春はぼんやり宙を見つめながらそう呟くと、頬杖をつきながら軽く息を吐いて、またお茶を啜った。 「ふーん・・・」  俺は、湯飲みの中を覗き込む。潰された梅肉とすり下ろされたショウガがくるくると回っていた。  確かに、おばあちゃんの味って感じだな。  千春は外に出ると全く生活感を感じさせないけど、こうして家にいると途端に雰囲気が柔らかくなる。特にさっき、おばあちゃんの話をしている時の顔は、まるで少年のような顔つきをしていた。── 何か、少しだけ彼を身近に感じられる。 「全部飲みました?」  しばらくして、千春が俺の湯飲みの中を覗き込んできた。 「う、うん・・・」 「じゃ、朝食準備します」  湯飲みを取り上げられて、代わりに新聞を渡された。  俺は新聞を開きつつ、その上から目だけを出して、キッチンに向かう千春の後ろ姿を盗み見た。  背が高いから、キッチンが無駄に低く見える。  俺もそうだが、使いにくいんだよな。この高さ。  迷いのない手際ながらも少々気怠い雰囲気の所作が、何だか艶っぽい。  ── 美人だよなぁ・・・。  そう思っていると、千春がこちらを振り返った。  俺は慌てて、新聞を引き上げる。 「── 何ですか?」 「何が?」 「見てたでしょ? さっき」 「そう?」  俺がしらばっくれると、広げた新聞紙の上に長い人差し指がにゅっと伸びてきて、バリバリという音を立てながら新聞が下に押し下げられた。 「白状しないと、朝食、あげませんよ」  俺を見下ろすブラック・チハル。  俺は下から彼を見上げつつ、「見てました」と白状した。  朝食より何より、千春の目が怖い。目が。 「何だっていうんです?」  またキッチンに向き直りながら、千春は言う。 「いや・・・千春に好きになってもらう恋人は、きっと幸せなんだろうなって思って」  背中を見てるだけで、彼が苦笑いをしたことが分かった。 「なぜ、そう思うんです?」  千春は、テーブルの上に朝食を並べながら、そう訊いてくる。  俺は目の前に置かれたクリーム色のおかゆを見て、逆に質問した。 「これ、なに?」 「干し貝柱のおかゆです。干し貝柱は、肝臓の働きを助けてくれるので」 「── ほら。こんなことできるの、男女問わず滅多にいないと思うよ。だって干し貝柱って、俺も商品として扱ってるから分かるけど、夕べから下準備しないと使えないんだぜ? こんなに相手のこと考えてよくしてくれるのって、凄いって思うんだけど」  千春は向かいに座って溜息をつくと、右手で顔を覆いながら天を仰いだ。 「僕も、自分がこれほど『つくせる男』だとは知りませんでしたよ」 「そうなの?」  俺が訊くと、千春はまるで何かに観念したように、2、3回頷いた。 「もし僕が女性だったら、僕をお嫁さんにもらってくれますか?」 「え?!」 「── もしもの話ですよ」  頬杖ついて俺を見つめる千春の視線にあてられたのか、何だか頬が火照ってくる。 「そ、そりゃ・・・こんなにキレイで片付けも料理もできる人なんだから・・・俺にはもったいないぐらいのお嫁さんになれるよ」 「へぇ。シノさん、僕のことキレイだと思ってくれてるんだ」 「君のことキレイだと思わない人間なんて、いるのか?」 「そりゃ、いるでしょうよ。好みなんて人それぞれだし。ちなみに僕は最近、柴犬が好きになりましたけどね」 「柴犬?」 「ええ。特に黒いヤツとか。可愛いですよね・・・凄く・・・。── さ、おかゆ、冷めないうちに食べましょうか」 「う、うん」  俺達はしばらく無言で、朝食を食べた。 「 ── ありがとう。凄く美味かった」 「そうですか。よかった」  千春は食器を片付けながら、「今日は終日休みでしょ?」と訊いてきた。 「うん。うちは基本、週休二日制だからね」 「じゃ、シノさん、取りあえず少し・・・絞りましょうか、身体」 「へ?! お、俺、太ってる?」  俺は、自分の身体を見下ろした。 「いや、太っている訳じゃなくて。今までついてた筋肉が脂肪へと緩んできかけてるんです。夕べ、シノさんを担いで帰ってきた時、ちょっと思ったんですよね。── 学生時代、なにか運動してました?」 「ずっとバレーボールしてた」 「なるほど。で、今、運動は?」 「仕事の六割が肉体労働だから、別に構わないと思ってた・・・」 「それじゃ、使う筋肉が決まってくるでしょ。それ以外の筋肉は緩んできますよ。── ほら」    千春は布巾で手の水滴を拭った後、俺の側までやってきて、脇腹を指で摘んだ。  ムニュといった感触。  次の瞬間、俺達は顔を見合わせ、ハハハと同時に笑った。 「筋肉が戻ればまた代謝が上がって、他の部分もどんどん締まってきます」 「はぁ・・・。千春も鍛えてるのか? 身体」 「ええ。それなりにやってますよ。職業的には必要ないですけど、自分的にブヨブヨする己の身体が許せないだけです。脂肪で弛んだ肉体ほど醜いものはありませんから」 「出たー、ナルシス発言」 「でも事実でしょ。シノさんだって、シノさんらしい身体をつくれます」 「ホントかなぁ・・・」 「ええ。僕の通っているジムに行けば、すぐです」  そう言って千春は、実に屈託のない天使のような笑顔を浮かべた。 <side-CHIHARU>  「いででででで~~~~~~!! 無理! 無理無理!!」 「はい、篠田さん、こっから頑張って~~~~!!」 「せっ、先生っ、俺の腕は、そっちの方向には曲がりません!!」 「い~や、絶対曲がるから!!」 「うわ~~~~~!!!」  僕は、シノさんの奮闘を見て思わずクスクスと笑ってしまう。  僕が通うジムは、最小限の動きで筋肉を鍛えていくタイプのところで、大きなマシンなどはない。  その代わりトレーナーがマンツーマンでついてフォームを修正していくので、一切の妥協は許されない形になっている。  使う道具はダンベルとかゴム製のベルトだとか凄くシンプルなものだけだが、ゆっくりとした動きで筋肉を鍛えていくので、見た目以上にきついのだ。 「シノさん! 頑張って正しいフォームを覚えてくださいね。ある程度筋肉が戻ったら、あとは一日たった5分だけ自宅でやればいいですから」  僕がフロアの外から呑気に声をかけると、シノさんは基本中の基本のスクワット体勢のまま、顔を真っ赤にしながら派手に顰めつつ、叫んだ。 「わっわっわっ、分かった! 分かったけどっ!! せ、先生!! これ以上腰を落としたら、尻が背中まで割ける!!」 「割けるか、んなもん!!」  トレーナーから背中に喝を入れられて、シノさんは悲鳴を上げている。  僕はとうとう吹き出してしまった。  ホント、可愛くて、ウケる。 「あら~、めっずらしい! 成澤くんが爆笑してる。こりゃ雪でも降るかな、今晩」  僕は右から聞こえてくる声に、顔を向けた。 「葵さん」  ジム仲間の葵さんだ。  彼女はプロのベリーダンサーで、確か30代半ばという年齢だったが、まさにフェロモンの塊といった美女だ。  彼女は僕が十代後半に夜遊びを始めた頃からの知り合いで、今では『澤』と僕の事を呼ぶ人が多い中で、『成澤くん』と僕の本名を呼ぶ数少ない友人の一人だ。彼女はバイセクシャルで、生きる上で同じマイノリティーとしてのつながりもあるから、僕もずっと縁を切らずにきた。  「なんだか楽しそうじゃない、今日。誰、あれ? 新しい彼氏?」  葵さんにそう言われ、僕は顔を顰めた。 「違いますよ。彼は僕の生徒です」 「生徒?」 「ま、話すと長くなるんで」 「ふ~ん・・・」  葵さんは、再びシノさんに目をやった。 「先生! 太ももの震えが、とっ、止まんなくなってきた!! これ、おっかしいんじゃないのっっ!!?」 「そぉだ! それがいいんだ!! その震えが、筋肉を育てていくんだよ!!」  その様子を見て、葵さんも笑い出す。 「やだ、なんだか先生、凄く楽しそう。久々じゃない? 新入生は。どんな屈強な人でも、初日は絶対にああなるものねぇ。あはは、なんだかドギマギしてる感じが可愛いわね、彼」  僕は、葵さんの発言にドキリとする。  昨日、西森さんもそんなこと言っていた。  やはり見る人が見れば、シノさんは今でも十分魅力があるということだ。  ── しかし、本人がそれを認めてないんじゃな・・・。 「葵さんも可愛いと思いますか?」 「『も』ってことは、成澤くんもそう思ってるんでしょ?」 「そう思っているのは、僕ではないです。第一、彼はノンケですから。対象外です」 「そうなの?」  葵さんからマジマジと見つめられる。 「そうですよ」  しばらく僕は、葵さんと見つめ合った。  葵さんはプッと頬を膨らませると、僕の胸を叩く。 「ホント、この子は目の表情すら読ませないんだから。まったく、可愛いげのない子」 「そんなこと言うの、葵さんぐらいですよ」  僕がそう言うと、葵さんは派手に顔を顰めた。 「やだ。みぃ~んなそう思ってるわよ! 誰もが成澤くんのこと怖くて、直接君に言わないだけ」  ── ま、それは確かにそうなんじゃないかって思うけど。  葵さんはペットボトルの水を少し飲みながら、フロアを見る。 「でもま、いいお友達見つけたじゃない、あなた。今まで成澤くんが引き連れてた人種とは全然違う。凄く『健全』って感じ。せいぜい大切にすることね」  葵さんはセクシーな微笑みを浮かべると、背中越し手を振りながらジムを出て行った。
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