act.11

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act.11

<side-SHINO>  俺が次に千春に会えたのは、出張から戻った翌日の夜のことだった。  出張から帰った日は千春の方に予定が入ってるということで、久しぶりに一人の夕食となった。  コンビニで弁当を買って、バラエティー番組を見ながら食べたのだが、やっぱり何というか・・・一人の食事はつまらん。  千春と俺は、まるで正反対の性格をしているし、住んでいる世界も違い過ぎて、正直ちゃんと会話が成立するか不安だったが、意外に全く違うことが互いに刺激になるのか、千春との夕食は楽しかった。それに、千春もそう思ってくれてる感じが伝わってきて、それも嬉しい。  だから、俺が出張の日に夕食の約束をドタキャンした上に黙って温泉に入りに行ったせいで、思いっきり不機嫌になってる千春が何だか可愛くて、まるで本物の弟ができたみたいだった。   ── まぁ、電話をブチ切られた時は、正直背筋が寒くなったけどな。ちょっと怖くて(汗)。  翌日の水曜日はジムに行く日で、少しだけ残業になった俺を会社の前で千春が車でピックアップしてくれて、そのままジムに向かった。  はっきり言って俺は、あの電話のやり取りの後、千春と顔を会わせるのが何だか怖くてめちゃくちゃ緊張したが、千春は意外にもケロリとしていて、何事もなかったかのようにごく普通の対応だった。  千春はB型だからか、後に引きずらない性格らしい。  ほっと胸を撫で下ろした俺を、千春は不思議そうに見ていた。  二回目のジムは初日ほど悲鳴をあげることもなく、段々と動きが身体に馴染んできて、思ったより大丈夫だった。これなら続けられそうだ。  帰りに、遅くまでやっている取引先の酒屋さんで、リーズナブルだが味のいい白のテーブルワインを買って帰った。  千春は夕食の下ごしらえをジムに行く前に済ませてくれていたらしく、アサリの白ワイン蒸しと、レタスとグレープフルーツのサラダ、ズッキーニと茄子のマリネ、豚ロースのソテーに黒オリーブを潰したソースをかけたものと、味も見た目も申し分ない夕食を用意してくれていた。  ホント、女の子なら即結婚だよな、こんなできた子なら。  俺は、グラスで1杯だけワインを飲んで ── それでもほろ酔いするには十分な量だ・・・後は千春に飲んでもらった。  千春はホント、酒が強い。  合コンの帰りに飲んだ時も、度数の高いスコッチをビールで口直しをしながら何杯も飲んでいたのに少しも酔う気配は見えなかった。  ザルを通り越して、枠だよ、枠。  俺は出張とジムの疲れもあって、食事を終えると、しきりに欠伸が出始めた。 「 ── シノさん、疲れてるんなら、ソファーに座ってて。今、お茶いれますから」 「うん」  俺はお言葉に甘えて、和室にある三人がけのソファーに座る。  でも何だか眠くなって、ソファーに座った格好のまま横に倒れた。つい、うつらうつらしてしまう。  千春は、湯のみと急須を並べたお盆をローテーブルの上において、テーブルを少し寄せると、俺の前に腰を下ろした。畳に敷かれたラグの上に直接胡座をかいて座る。  千春は、俺を顔を覗き込んできた。 「シノさん、食べてすぐ寝ると、牛になる」  やわらかな囁き声。 「 ── うん・・・」  ああ、瞼がショボショボする・・・。  クスクスと千春の笑う声がした。 「シノさん、寝るのメッチャ我慢してる」 「・・・うん・・・」 「いいよ。少しの間だけ寝ても。でもそのまま寝ると風邪ひくから、しばらく経ったら起こします」 「・・・うん・・・少しだけ・・・」  俺は返事をするかしないかで、完全にブラックアウトした。 <side-CHIHARU>  番茶を煮出している間にシノさんの様子を窺うと、ソファーに座ったと思ったら、そのままコテンと横に倒れてしまった。  何だか子どもみたいでカワイイよ、シノさん。  年末商戦の企画主任に抜擢されたとかで、仕事も凄く忙しくなってきたみたい。  疲れてるんだよな、きっと。  多分この人は、何事にも一生懸命なんだろう。  今日、ジムで真剣に頑張ってる姿を見たら、そんなことは容易く想像できる。  シノさんは、眠たそうにゆっくり何度も瞬きをした。  僕が寝てもいいよというと、「うん」と返事をしながら、すぐに眠ってしまった。  シノさん体力あるから、きっとどこでもすぐ眠れる人だよね、多分。  僕はヘンに神経質なところがあるから、枕が変わるとあまりよく眠れない。  誰かとホテルに泊まっても、よほど消耗するセックスをしない限り、その後爆睡・・・なんてことはない。   ── まったく、ゲイの男の部屋で無防備なまま寝ちゃうなんて、どこまで僕に気を許してるんだ、この人。 「それだけに、更に手を出しにくいんだよな」  なんて冗談を思わず口にしてしまう。  むろん、シノさんの信用を裏切るようなことをするつもりはなかった。  でも渡海さんに変なことを言われて以来、何となくシノさんを意識してしまう自分が嫌で、僕自身戒める気持ちを強化したつもりなんだけど、気を許すとついそんな冗談が口をついて出る。 ── まずい、シノさんの前で出さないように、気をつけないと。  僕はソファーに背中を凭れさせながら膝を抱えて座ると、横目でシノさんの無垢な寝顔を見ながら、お茶を啜った。  根っからの男好きの僕が、男と二人きりで何もしないで一緒にただいるなんて。  はっきり言ってそういうの意外だけど、なんかこういうのも悪くないよなって、思う。  恋の駆け引きとか、利害関係とか、そういうのが一切なくて、ただ一緒にいて楽しいし落ち着けるから、共にいる関係。  最初のきっかけは確かに取引から始まったけれど、一週間経った今ではもうすっかりその意味が変わってきつつある。少なくとも僕は。  シノさんが僕の作った料理を美味そうに食べるのを見るのは楽しいし、表情がわかりやすいシノさんをからかうのも面白い。  シノさんには事あるごとに「僕を先生と呼べ」と強制しているが、僕がわざわざそう言うのは本気で言ってる訳じゃなく、僕がそう言う度に、6つも年上のシノさんが神妙な顔をして「先生」と呼ぶ姿がカワイイからだ。  僕は何でもっと前から、シノさんの存在に気づかなかったんだろう。  計算で言えば、僕が十代の頃からシノさんは隣に住んでいた。  とは言っても、シノさんが引っ越してきてすぐに祖母が死んで、それからというものこの僕は、高校や大学に行くのはお昼から、夜は毎夜街へ遊びに行くというようなヤバい人間になっていたし、隣はてっきりシングルマザーが住んでいるとばかり思っていたから、シノさんみたいな人が隣に住んでるなんて想像もしてなかったんだ。  壁を1枚を隔てたところで、ずっと僕の傍にいたんだよな、この人は。   ── 不思議だよね、人の縁なんてものは。 <side-SHINO>  ソファーに横になって少しうつらうつらした後、目を覚ますと、俺の足下で畳に座ったまま、ソファーに寄りかかった格好で千春が本を読んでいた。  本当に端正な横顔だ。  本のページをめくる指も、男らしいけど長くてキレイ。  こんな男がずっと俺の隣に住んでたってことが不思議だよ。  でも、千春は俺みたいな一般サラリーマンより随分収入があるようなのに、なんでこんなマンションに今も住んでいるんだろう。  家賃でいえば、ごく一般的な相場の価格だったが、千春からすれば格安といってもいい金額のはずだ。彼が望めば、もっと広くてキレイなマンションに住めるだろうに。 「 ── 千春は何でここに住み続けてるの?」  俺がソファーに寝っ転がったままそう訊くと、千春は少し驚いた表情を浮かべて、「もう目を覚ましたんですか? もうちょっと寝ててもよかったのに。本当に少ししか寝てませんよ」と言った。  俺としては短時間でもかなり深く眠っていたみたいで、身体はだるかったが、頭はすっきりしていた。  俺は身体を起こすと、ソファーに座り直した。  千春も本を置いて、俺の隣に座る。 「お茶、もらっていいかな」  俺がローテーブルに置いてある急須を指差すと、「ああ、もう冷めちゃってるから、淹れ直してきましょうか?」と千春が言ったんで、俺は「いい、いい」と断り、前のめりになって、自分で湯のみに注いだ。 「ぬるい方がゴクゴク飲めて、丁度いい」  アルコールのせいか喉が渇いていたから、俺は一気にお茶を飲み干した。 「で、質問の答え」  俺がそう促すと、俺を見ていた千春が「ああ、質問ね」とちょっと笑った。 「どうしてここに住み続けてるか、ですよね」 「そう。千春なら、ここよりずっといいところに住めるだろ? 住もうと思えば」 「確かにそうですね」 「なら、なんで?」  千春は、う~ん・・・とテレ臭そうなというか、バツが悪そうな表情を浮かべた。 「ここには祖母との思い出が残ってますからね。気難しい時期の僕を、それなりに苦労しながら育ててくれた(ひと)ですから、離れがたいんです。 ── そんな子どもじみた理由ですよ。僕がここに住んでいるのは」  全然僕のキャラにあってないんですけどね、と自嘲気味に笑う千春を見て、俺は左の拳を固めて、軽く千春の太ももを叩いた。 「そういうの凄く大切な事じゃないか。キャラにあってないとか、そんなの関係ない。というより、キャラにあってない訳じゃないよ。俺は、千春らしいと思う」  俺は、心の底からそう思った。  俺から依頼された無茶なお願いを親身になってきいてくれて、俺が童貞だって分かっても馬鹿にしなかった千春。知り合って間もないのに、俺の身体の心配とかを凄くしてくれて、俺のダメなところをいろいろとフォローしてくれる。  時には確かに怖い時があったり、何を考えてるか分からなかったり、人を突き放すような表情を浮かべる時もあるけど。  本当は・・・心の根っこは優しいんだよな。凄く。 「僕にそんなことを言うのは、シノさんだけですよ」  千春は、俯き加減で俺に叩かれた太ももを数回手で撫でながら、苦い笑いを浮かべた。 「こんなこと訊いていいか分からないけど・・・。千春のご両親は?」  千春が顔を上げる。 「両親ですか?」 「千春も、両親を早くから亡くしたの?」  千春は、「いいえ」と首を横に振りながら、今度ははっきりと笑った。 「両親ともピンピンしてますよ。名古屋にいます。僕の親は、ネグレクトでしたからね」 「 ── ネグレクト?」 「育児放棄です。まぁ、僕のことが可愛くなかった、というより自分達の人生を楽しむので精一杯で、子どもの面倒を見るつもりがなかった・・・ということだと思います。僕は、彼らの使用人に面倒をみてもらった。育てられたんじゃない、あくまで面倒をみてもらっただけです。だから僕の育ての親は、祖母なんです。12歳の時に、僕は祖母の住むこの部屋に一人で来ました」  俺は、千春の言うことを聞きながら、全身の血の気がどんどん引いて行くのを感じた。  俺は、先週金曜の晩のことを思い出していた。  俺はあの日、千春にこう言ったんだ。   ── 君は生まれた時からきっとずっと、好意的な視線に囲まれてきているんだろう。だから、劣っている人間がどういう気持ちでいるか、きっと理解できない・・・。  千春は確かに劣っている人間ではないけれど、生まれてきた時からずっと、幸せに育ってきてはいなかったということだ。  両親が生きている間はむしろ、幸せに育ってきたのは俺の方で・・・。  俺は、彼になんてことを言ってしまったんだ。  俺は、ソファーの上に正座して千春に向き直ると、両手を膝について、深々と頭を下げた。 「ど、どうしたんです? シノさん」  頭上で、千春の驚いた声がする。  俺は唇を噛み締めた。 「 ── ごめん、俺・・・。何も知らずに酷いこと言った・・・。本当にごめん」 「一体、何の事ですか?」  千春の手が、俺の身体を起こそうとしたが、俺は決して譲らなかった。  千春が許してくれるまで、俺は千春の顔を見られないよ。  本当に酷いことを言ってしまった。 「千春が、ずっと好意的な視線の中で育ってきたなんて言って・・・。俺ってヤツは本当にバカなんだ」  千春は、やっと俺の言っていることが分かったようで一旦俺から手を離したが、やがて俺の肩に触れ、そっと撫でた。 「いいんですよ、シノさん。僕に対してそう思ったのはシノさんだけじゃないし。僕は大丈夫だから。顔を上げてください」  俺は、身体を起こす。  凄く優しげな瞳をした千春が、俺を見ていた。  俺は胸がギュッと締め付けられる感覚を覚えた。  きっと凄く傷ついただろうに、何でそんな顔、できるんだよ。 「シノさんに謝ってもらっただけで、何だか今までつっかえていたものがスッとしました」 「ホントに?」 「はい」  千春は頷く。  千春はそう言ってくれたが、俺は何だかこれだけじゃ足りない気がして、唇をまた噛み締めた。 「でも、こんなことぐらいで、謝ったことになるのかな」  俺がそう言うと、「なってますよ」と千春は笑った。 「だからいい加減、そんなブルドッグみたいな顔つきはやめてください」 「ブッ、ブルドッグ?」  俺がぎょっとした顔をすると、千春は楽しそうに笑い声を上げた。 「冗談ですよ。しかめっ面って意味です。じゃ、お詫びに何かしてもらおうかな」  千春は頭の後ろで両手を組んで、天井を眺めた。  俺は元のように座り直すと、内心ヒヤヒヤしながら千春が何を言い出すか、待った。   ── だってほら、千春ってドS王子だろ? 何を言い出すかわからないもんなぁ。 「じゃ、腕立て伏せ100回」  そら来た(大汗)。 「もしくは、空気椅子3分間」  3分間?! 「それとも、一生僕の下僕になってもらおうかな」  下僕って何するシト、それ?! 「アハハハハ! それ、全部冗談だから、シノさん! 顔、顔」 「え? 俺、顔ヘンだった?」  俺は頬を擦る。  千春は頷きながら、「この世の終わりのような顔をしてた」と笑った。  よかった。  この前ジムで笑ってた時みたいな、少年のような笑い声だ。  千春は、「あ~」と声を上げながら目尻に浮かんだ涙を指で拭うと、今度はすました顔をして、俺を見た。 「じゃ、トラウマを聞かせてもらえますか? 学生の頃、シノさんが女性に対して自信をなくしてしまった原因」 「え?」  俺はギクリとした。  千春はマジな顔してる。 「シノさんは今、あの晩のことを謝罪してるんだ。じゃ、あの晩、僕が聞きたかったことを今話してもらうのが、一番いいんじゃないですか?」  う~ん、そうきたか・・・。  千春は、聞くまで絶対に譲らないというような雰囲気を醸し出している。  俺は、ハァと大きく息を吐き出すと、両手で数回、顔を擦った。  この話も、童貞話と同レベルで恥ずかしい話なんだよな、俺にとって。  でも確かに千春に誠意を見せるのなら、話すべきだ。千春だって、話すのが辛い子どもの頃のことを教えてくれたんだから。 「 ── 中学二年の頃にさ。好きな女の子ができてさ」 「うん」 「バレーボール部のマネージャーで、一つ上の先輩だった。ちょっときつめの美人でさ、皆の憧れの的だったよ」 「ふ~ん」 「でさ、部で遠征に出かけた時に、民宿みたいなところに泊まったんだよ。海が近くにあるようなところで。まるで修学旅行みたいな気分になっちゃって、皆はしゃいでてさ。それなりに楽しかったんだけど」 「聞くからに楽しそうですね」 「だろ?」 「でも、そこでシノさんが傷つくようなことがあったんだ」  千春が優しい声のトーンでそう訊く。  俺は、緩く首を横に振った。 「たいしたことじゃないんだ、本当に。他の人が聞けば、何でそんなことがトラウマになるんだって、きっと言うと思うけど」 「 ── 何があったんですか?」 「晩飯の時にさ、刺身定食が出たんだ。こう・・・お盆の上にみそ汁とご飯とほうれん草のおひたしとさ、マグロとサバとイカの刺身がのった大きな皿がのっててさ。美味かったんだけど」 「うん」 「食事が終わりかけた時に雑談が始まって、誰かがその先輩マネージャーと話してて、先輩がマグロの刺身が大好物だって話をしてたんだ。で、男ってガキだからさ、『この中でいるメンバーの中で、マグロの刺身は誰だ』って質問をした訳」 「うん」 「実は後から知ったんだけど、本当はその時、先輩マネージャーは既に部長とつき合っててさ。当然マグロは部長。で、部で一番背が高い同級生がサバだったわけ。他にも、ほうれん草は誰で、ご飯は誰々でって感じで話が進んで行ってさ」 「それで? シノさんは?」 「 ── 俺、刺身のつま」  俺は半笑いで、そう言った。 「あってもなくてもどっちでもよくて、場合によっちゃ、食べられもせずに下げられる、あれ。 ── 笑っちゃうだろ?」  俺が笑っても、千春は笑わなかった。むしろどんどん雲行きが怪しくなって、顰め面になっていった。 「いや、もちろんさ、先輩マネージャーは悪気があってそう言った訳じゃないんだぜ? ただ単に、俺はエリア外だったというか、眼中になかったというか、何というか・・・」 「でも、それ、初恋だったんでしょ?」 「 ── うん・・・」  妙な間が空く。  俺はその沈黙に耐えられなくなって、ハハハと声を出して笑った。空笑いってやつだ。 「ホント、たいしたことないんだけどさ。やっぱ、異性を気にし始めたばっかの時期で、俺も多感な頃だったからさ。なんか、青春の入口で『お前はいてもいなくてもいい男』って言われたような気がして。それ以来、自分が女の人からどう見られてるか、怖くなっちゃって。意識すればするほど、どんどんしゃべれなくなって。で、今に至るってわけ。 ── ご清聴ありがとうございました!」  俺が大げさに頭を下げると、その後頭部に千春の手がポンと乗った。  そしてクシャクシャと俺の頭を撫でた。  俺は頭を下げたまま、横目で千春を見上げた。  千春は言う。 「僕が絶対にシノさんをカッコよくするから。その女子マネージャーが激しく後悔するぐらい、誰もがシノさんを振り返るようになるぐらい、絶対カッコよくしてみせるから」  真顔で、自信たっぷりにそう言い切る千春が何だか嬉しくて。  俺は笑ってるんだか泣いてるんだか分からないような、顔つきになっちまったんだ。  その頬を、今度は千春にムニュって掴まれた。 「そんな目で僕を見ないでください。もちろん、シノさんも努力しなきゃね」  俺は身体を起こした。 「もちろん。頑張ってジムに通って、筋トレのフォームを体得する」  俺はガッツポーズをする。  千春はプッと吹き出して、「シノさん、腕だけは逞し過ぎる」と指差した。  ま、いつもビールケースとか運んでるからな。腕だけは既に鍛えられてんだ、俺。 「お茶、淹れ直します」  千春はそう言って、ソファーを立った。 <side-CHIHARU>  ── 刺身のつま、か。  確かに、大人になってからそう言われたら、笑い話にできるかもしれないけど。  思春期のまっただ中で、初めて好きになった女の子からそんなことを言われた時の破壊力は、それなりだったと思う。  悪気はなかったとはいえ、随分酷いこと言われたんだな。  まぁ世の中、この『悪気がない』という人間ほど、平気で人を傷つけるものだ。  僕は、ケトルに残るお茶を温め直しながら、そう思った。 「千春」  後ろから声をかけられたので振り返ると、シノさんが和室とダイニングの境の鴨居を両手で掴みながら、身体を前後にゆらゆら揺らし、テレくさそうな表情を浮かべていた。 「 ── 話、笑わずに聞いてくれてありがとな。思い切って話せてよかったよ。俺の方も、何だかスッとした」  そう言ってもらえて、僕も嬉しい。  思わず顔がほころんでしまう。  ああ、さっきの話じゃないけど、僕って本当にこんなキャラじゃなかったのに。  シノさんといると、自分でも知らない自分をどんどん発見してしまうんだ。   シノさんは、ダイニングの椅子に腰掛けた。  僕も簡単に洗った湯のみと熱いお茶を淹れた急須をダイニングテーブルに置き、シノさんの向かいに腰掛ける。  湯のみには、シノさんがお茶を注いでくれた。 「 ── 今度、本当に行こうな、温泉」 「えぇ?」  僕は眉間に軽く皺を寄せて、シノさんを見る。  シノさんも顔を顰めて、僕を見た。 「だって、この間電話で凄く機嫌悪かったからさ。行きたかったんだよな、温泉」  シノさんが俺を指差す。  僕は激しく首を横に振った。 「一緒に温泉だなんて、ダメですよ、そんな」  僕がそう言うと、「えー、なんでぇ」と言い返してくる。  僕こそ「なんで」と言いたいですね。 「旅館に泊まるつもりなんですよね、それ」 「まぁ、そうだな。千春が一緒なら」 「部屋はひとつしか取らない訳でしょ」 「そりゃそうだろ。広い部屋に一人泊まってもな」 「 ── か~」  僕は右手で顔を覆って、感嘆の声を上げる。  この人って、マジわかってない。  事の重大さがわかってない! 「そんなことしたら、シノさんもゲイだって思われますよ。シノさん、僕がゲイだってこと、忘れてるでしょう? すっかり」  僕が呆れた顔をしてシノさんを見ると、シノさんは口を子どものように尖らせた。 「いいですか、シノさん。旅館中の人から『あの人も男が好きなんだ』なんて白い目で見られますから。そういうの慣れてないと結構辛いし、田舎に行くほど風当たりはキツくなるんです。シノさんだって、嫌でしょ。変な疑いかけられるのは」  理由を言えば、シノさんは納得するかと思ってたけど。  シノさんは口を尖らせたまま、こう言った。 「俺達をそんな目で見るような心根の曲がった人は、放っておいたらいい。俺らは別にやましいことなんて何もないんだから」  ・・・・・。  僕は、一瞬絶句した。  確かにシノさんは、曲がったことが許せない性格なんだろうけど。  そんなこと言い切ってしまうなんて。  女の子に言われた一言をずっと引きずって悩んでる人と同じ人なのかな。  この人、弱いのか強いのか、よく分からない。  ただ、はっきりしてるのは、シノさんは僕らの関係を『やましい』とは思っていないということだ。きっとこれからも思うことはないんだろう。  まぁ、確かにやましくはないんだけど。  ああ、僕としては、何だか複雑な気分だ。  僕は、ハハハと妙に湿った笑い声を上げながら、両手で顔を覆った。  こんな気分になるなんて、僕ってやっぱシノさんのこと、そういう意味で好きなのかな。  あれだけストレートの男に性的欲望を持ってはいけないと自分を戒めてきたのに、シノさんに「やましくない」と言われて、逆に意識してしまった。  シノさん、僕はね、明らかにシノさんに対して『やましい気持ち』を持っている。  それを何とか必死になって我慢してるんだ。  なぜなら、今のこのいい関係を壊したくないから。  他の男達との関係のように、その場限りの関係にしたくないから。  はははははは。  僕、そのうち壊れちゃわないかな。
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