act.17

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act.17

<side-SHINO>  俺が振り返ると、公園の植木の向こう側に千春が立っていた。  まさかこんなところで千春に会うとは思っていなかったので、俺はちょっとビックリした。  いつから千春はそこにいたんだろう。  何とも言えない顔つきをして、俺を見ていた。  何だか凄く不安げな、子どものような表情。  千春に、そんな顔は似合わないよ。  そんな顔をする必要はないんだ。ましてや俺に対して。  俺は、千春に向かって軽く手を挙げた。  すると千春は少し目を見開いて、ほぅと息を吐き出すと、手にしていた荷物を俺の前に翳した。  あ! 昨日買った服をそのまま放置しっぱなしだった!  俺が露骨にヤバいという顔つきをしたのが伝わったのか、千春は「もう、しょうがないなぁ」といった風な笑顔を浮かべ、歩き出す。  彼はそのまま、公園の中に入ってきた。 「シュンちゃ~ん・・・」  背中を押すことが止んだせいで、晴俊がじれて俺を振り返り、見上げてくる。 「あ、すまん。シュンちゃん、あのお兄さんと話があるから、しばらく一人でブランコ乗ってな」  俺は、「え~」と口を尖らせる晴俊の背中を一回押して、ブランコの向かいにあるベンチに座った。  千春が、その隣に荷物を置く。 「よかった。渡しに行く手間が省けました」  千春は立ったまま話を始めるので、俺は荷物をベンチの反対側の僅かに残った芝生の上に置き、千春に座るように促した。  千春は鼻の下を指で擦って、少し照れくさそうに笑うと、ようやく俺の隣に座る。  こうやってベンチに並んで座ると、やっぱ千春って足が長いんだって思う。  膝小僧が、俺の位置よりひとつ飛び出てるもんな。 「何です?」  小首を傾げる千春に、俺はニシシと笑った。 「や~、足、長いなぁと思って」  千春は顔を顰める。 「真剣な顔をして俯いてるから、何を考えてるんだろうと思えば。そんなどうでもいいこと考えてたんですか?」 「どうでもいいことって、酷いなぁ」 「だって。シノさんだって足、長いんですよ。そんなズボン履いてるから、短く見えるんだ」 「そうかぁ?」 「これからはスウェットをやめて、その紙袋に入ってるタイパンツにしてください」 「スウェット、楽なんだけどなぁ~」  俺が俯いてスウェットをたくし上げていると、何だか視線を感じて横を見た。  千春は、今まで見せたことのないような、すごく優しい表情をして俺を見ていた。  だが、俺が千春に目を向けた事に気付くと、一瞬にして視線を逸らしてしまう。  何だよ、千春。  何で、俺と目が合うとすぐ視線を外すんだよ。  近頃、そういうことが多いんだ。  俺と視線が合うと、気まずいの?  俺が千春に何と声をかけようかと思っていたら、一人で遊ぶことに飽きた晴俊が、走ってきて俺の膝に飛び乗ってくる。  両太ももに、晴俊の体重がドスンと乗っかって、俺は思わず「うぉっ!」と声を上げる。  それを見て、千春は口元を手で隠しながら笑った。   ── ああ、よかった。俺の知ってる千春だ。昨夜の千春とは別の、多分俺しか知らない千春。 「甥っ子さん、大きくなりましたね」 「あ、見たことあるっけ」  晴俊の身体の向きを変えさせながら、俺は千春に訊いた。  千春は、俺を椅子にして座る甥っ子を見ながら、「ええ、もうずっと以前に」と頷いた。 「おい、ハル坊、お兄さんに『こんにちは』は?」  晴俊が千春を見上げて、「こんにちは」と挨拶をする。 「名前もちゃんと言わなきゃ」  俺が膝を突き上げて晴俊に促すと、晴俊は「しの・・・じゃない・・・なんだっけ?」と呟いている。「おい、『えだしげ』だろ?」と俺が耳元で囁くと、晴俊は笑顔を浮かべて、「えだしげはるとしです。ごさいです」と前に上げた手を大きく開いた。 「もう、五歳になるんだ」  千春が目を見張る。 「あまりシノさんには似てませんね」 「ああ。妹はオヤジ似だからな。だからハル坊もオヤジに似てるんだ。ちなみに俺は、完全にお袋似」 「ふうん」  千春が頷く。そんな千春を見上げて、晴俊は幼い声で、「おにいさんのおなまえはぁ?」と言う。 「ああ、ごめん。そうだね、僕も挨拶しなきゃね。成澤千春って言います。26歳です」 「ちはる?」  今度は晴俊が、目を見張った。 「フリン?」  晴俊が首を傾けて言った言葉に、俺はブッと吹き出した。  思わず晴俊の口を手で塞ぐ。 「おまっ、何言ってんだ」 「 ── 不倫って、なんなんですか?」  千春が眉毛を八の字にして、俺を見る。 「いや、美優が・・・、妹がさ、俺のLINEの友達リストを見ちゃって。そこにある千春の名前を見て女だと思っちゃったんだ。いくら男だって言っても聞かなくて、あげくの果てに『ちゃんと白状しないのは、不倫だからか』って言いやがってさ。俺が不倫なんてする訳がないだろ? そんな他人様のものに手を出すなんてさ。千春とつき合うんなら、もっと正々堂々とつき合うつーの。 ── あれ? なんか変か? 今の話の流れ」  俺自身、自分が何を言ってるのかよく分からなくなって千春を見ると。 「おにいさん、かお、まっかっかだねぇ」  晴俊が俺と同じように千春の顔を見つめ、言う。  千春はガバッと立ち上がった。  それはもう物凄い勢いだった。 「じゃ、僕はこれで」  俺の返事を待たずして、さっさと背中を向ける。  俺は晴俊を抱えたまま、慌ただしく千春を追った。 「ちょっ! ごめんって! 俺、何か、またマズいこと言った?!」 「いや、そんなことないです。全然ないです」  千春は背中を向けたまま、肩の横で右手を大きく左右に振る。 「嘘だろ、絶対! じゃないと、そんな態度にならんだろ、それ!」  千春がくるりと振り返る。  俺は思わず立ち止まる。  千春は無表情な顔つきで、「シノさん、荷物」とベンチを指差す。  ── あぁ! しまった! また忘れるところだった!!  俺はベンチに取って返すと、荷物を取ろうとして晴俊が物凄く邪魔なことに気がついた。 「おい、ハル坊、降りろ」 「ヤダ~」 「ヤダじゃない! 荷物持てないだろ」 「ハルがもつ」 「持てる訳ねぇだろ」  晴俊とすったもんだしている間に、気づくともう千春の姿は公園から消えていた。 <side-CHIHARU>  あの人、一体なんだってんだろう!!  僕は、公園を出ると一回も後ろを振り返ることなく、マンションに戻った。  玄関を開け、そこに飛び込むと、勢いよくドアを閉めて、背中越しドアに張り付いた。  まだ、顔が火照ってる感じがする。  鉄のドアのひんやりとした冷たさが心地いいくらいだ。   ── びっくりした。  あまりに衝撃的過ぎて、シノさんが何と言ったか、もう正確に覚えてない。  本当に何なんだ、あの人。  僕を殺す気か?  僕がハァと溜息をついた時、いきなりチャイムが鳴って、僕はまた心臓が飛び出るぐらい驚いた。  覗き窓を見る。  晴俊くんによく似た女性が立っていた。  きっとシノさんの妹さんだ。  僕は一度大きく深呼吸をすると、ドアを開ける。  美優さんは僕の顔を確認すると、「突然、すみません。帰って来られたような音がしたものですから」と頭を下げた。  美優さんのしゃべり方が、シノさんにどことなく似ていて、やっぱり兄妹なんだなぁと思う。  美優さんは、紙袋の中から綺麗に包まれたB5サイズぐらいの箱を取り出した。 「何だか、ご近所のもので申し訳ないんですけど」  彼女が差し出してきたのは、貝と昆布の佃煮だった。  ここ月島の周辺には古くからある佃煮店がいくつかあり、そこの品は絶品だった。僕もたまに無性に食べたくなって、歩いて買いに行くこともある。  しかし僕には、彼女がそれを差し出す意味が分からなくて、怪訝そうに彼女を見た。  美優さんは慌てた様子で、「兄がお世話になっているようですから。成澤さん、お料理できるって聞いて、お菓子よりはこういうものの方がいいんじゃないかって思って」と言う。  ああ、そういうことか。  彼女は、僕が時々シノさんの夕食を作っていることを知ったんだ。  僕は、彼女から佃煮を受け取った。 「ありがとうございます。気を使っていただいて」  僕がそう言うと、美優さんは「いやいやいや」と首を横に振った。その言い方・仕草もシノさんそっくりだ。 「気を使ってもらっているのは、兄の方です。ご迷惑をかけてばかりじゃないかと思って、心配で」 「迷惑だなんてそんな。一人分の夕食を作るのが非効率で困っていたところだったんですよ」 「そう言っていただけて、ちょっとホッとしました。だって、あの人、いつも無神経で、鈍感でしょう?」 「おい! 聞こえたぞ!!」  美優さんと僕が、同時に声のした方を見る。  両肩と右手にいくつもの荷物をぶら下げ、左手でオンブしている晴俊くんを支えているという物凄い格好で、シノさんが歩いて来ていた。 「お兄ちゃん、何、その荷物」  美優さんが、眉間に皺を寄せる。 「ツッコむ前に、背中の『荷物』どうにかしろ」  シノさんが美優さんに背中を向ける。「もう、何してるのハルは」と美優さんが晴俊くんを受け取った。  シノさんはハァとオーバーに息を吐き出す。 「これは、先日僕と一緒に洋服を買った時の荷物です。彼に渡しそびれていたのを、公園で偶然会って」  僕がそう解説すると、美優さんはシノさんと僕を見比べて、「ああ、そうなんですか」と頷く。 「で、お前達は何を話してたんだよ。俺が鈍感だって?」  口を突き出し気味に、シノさんが言う。  僕は美優さんと視線を交わして、笑った。 「 ── だって、事実じゃないですか」 「なっ!」  僕の台詞に、シノさんの黒目がちな瞳がまん丸になる。  その表情を見て、益々美優さんと笑った。 「あぁ、よかった、お兄ちゃんがご近所でちゃんとしたお友達を見つけてくれて。てっきりひとりぼっちになって、メソメソ泣いてるかと思ってたのよ」  美優さんにそう言われ、今度は僕とシノさんが目を合わせた。  シノさん、バツが悪そうにしてる。 「かぁちゃん、おなかすいた~」  晴俊くんがごね始める。 「はいはい。分かった、分かった。すぐ作るから」  美優さんは、晴俊くんの背中をぽんぽんと叩きながら、僕に軽く頭を下げる。  シノさんが「夕食、一緒に食べるか?」と訊いてきたので、僕はやんわりと断った。 「今日は兄妹水入らずの方がいいんじゃないですか?」 「えぇ? そんな、遠慮するなよ」  そう口を尖らせるシノさんを、美優さんが蹴る。 「そういうところが鈍感だっていうの。子どももいるし、落ち着いて食事なんてできないから」  美優さんがそう言ってくれて、ホッとする。  今日はこれ以上、シノさんといない方がいいんだ。  心の平静を保つために、僕には時間が必要だから。  美優さんに引っ張られながらドアの向こうに消えて行くシノさんは、親指と小指を立て、それを耳元に持って行った。それは、「また電話する」のサイン。  僕も頷いて、一度だけ小さく手を振る。  その瞬間、シノさんが笑顔を浮かべるのが見えたが、すぐにドアは閉まった。   ── はぁ・・・。  僕は、胸に手を当てる。  これじゃホント、心臓が持たない。    <side-SHINO>  久しぶりに味わう美優の手料理を黙々と食べていたら、俺の湯のみにお茶を注いでいた美優が、ふいに口を開いた。 「お兄ちゃん、私達が使ってた部屋、お兄ちゃんが使ってもいいのよ」  俺は食べる手を止めて、美優を見る。  美優は、今は閉まっている和室の戸に目をやりながら、「だって全然がらんどうのままなんだもん。驚いちゃった」と呟く。  俺が小鼻を触りながら、「お前らが帰ってきた時、困るだろ?」と言ったら、美優は口を尖らせながら、俺の腕を叩いた。 「もう帰ってくる気ないから!」 「くるきないから!」  晴俊が美優を真似して、俺の腕を小さな手で叩く。  俺はオーバーに自分の身を庇う仕草をしてみせた。 「そ、そういう意味じゃなくて! 今日みたいに帰省して来る時にだよ。寝る場所が必要だろ?」 「そんなの、布団さえあればどこでも眠れるわよ。和室の方が広いんだから、ベッドだけでもこっちに移したらいいじゃない。あんな狭い部屋にいろんなもの突っ込んだ状態で寝てたら、いつか荷物に潰されちゃうわよ」 「何言ってんだよ」 「 ── 心配してるのよ、一応」  美優が、俺の右手に手を重ねる。  晴俊もそれを見て、俺の左手に両手をのせた。  二人のぬくもりがじんわりと伝わってくる。  「お兄ちゃん、早くお嫁さん、見つけてね。お兄ちゃんには、私以上に幸せになってほしいの」  俺は驚いて、美優を見つめた。   ── まったく、いきなり何を言い出すんだよ。お前、そんなこと言うキャラじゃなかっただろ?  俺は、スンと鼻を鳴らした。 「お前以上に幸せになるのって、相当大変なんじゃないの?」  俺がそう言い返すと、美優はいつもの美優に戻って、がっはっはと笑った。 「確かに、そうねぇ~。お隣のお兄さん、相当カッコいいなって思ったけど、うちの旦那に比べたら、やっぱ旦那の方がカッコいいもの~」  その言い草に、俺も笑う。 「お前、完全に色ボケしてんな」 「いいじゃない、ホントにそう思うんだもの。だから、早くお兄ちゃんにも見つけてほしいわけ、私より美女なお嫁さん」 「お前より美女なお嫁さんなら、簡単に見つかるよ」 「何! その減らず口!! 人が折角心配してるのに!」  美優は頬を膨らませて、また俺の腕を叩いた。  俺はハハハと高笑いしながらも、内心は感謝でいっぱいだった。  美優が、俺に対してそんなことを思ってくれているだなんて、思ってなかったんだ、本当に。   ── 私以上に幸せになれ、か。  そうなるのは難しいかもしれないけど、俺は美優や晴俊のためにも、恋愛塾の勉強、頑張らなければと強く思った。
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