act.27

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act.27

<side-CHIHARU>  僕が目を覚ましたのは、朝の九時頃のことだった。  身近に人の体温を感じて視線を向けると、そこには広い素肌の背中があった。  僕は身体を起こす。  シノさんは、まるで子どものように身を丸くして、眠っていた。  夕べは遅くまで抱き合っていたので、シノさんも僕もグッタリしてしまって、交代で風呂に入ったらそのまま爆睡してしまった。  いくら自分のいつも寝ているベッドとはいえ、他人がすぐ横にいる状態で爆睡・・・だなんて経験、これまで一度もない。  だから正直、目が覚めて一瞬僕は、状況がいまいち飲み込めなかった。  でも、目を横に向けると、シノさんが眠っていて。  僕がそんな状態で熟睡できていたことに、自分のことながら驚いて。  そんな神経質な僕とは違って、シノさんはどこでも眠れちゃうタイプ(笑)だから、シノさんは今もしっかりとした寝息をたてていて、ちょっとやそっとでは起きそうにない。 「よかった。今日が日曜で・・・」  僕はそう呟く。  これが平日だったら、シノさん、完全に遅刻だよ。  僕は再びシノさんに視線をやる。そして胸にかかっている掛け布団をそっとずらすと、シノさんの美しい裸体が現れた。   ── ああ、僕は本当にシノさんとセックスしたんだな・・・。  夕べの幸せな時間は、僕がひたすら願望した単なる夢だった・・・なんてオチだってあり得た話だもの。  僕はたまらなく甘い気分になって、シノさんの肩を撫でると、そこにキスを落とした。  きっとシノさん、目を覚ましたらどんな風に振る舞っていいか、分からなくなるだろうな・・・。  僕はそう予想する。  だって、僕が初めてセックスをした翌朝も、どんな顔をして相手と顔をあわせたらいいか、分からなかったもの。  でもドギマギして猛烈にテレてるシノさんを見るのも、なかなかオツだよね。  僕はフフフと笑った。   ── 困った、自然と顔がニヤケてしまう。  初冬のキリリとした空気に冷やされて、シノさんの身体が少し冷えていたので、僕は掛け布団を彼の首元まで引き上げ、床にずり落ちていた薄手の毛布を更に上からかけた。  夕べセックスをし終えてから、「初めてのセックスは気持ちよかった?」と訊いたら、「気持ちよかったのはもちろんだけど、それより初めての相手が千春でよかった」とシノさんは答えた。  今思い起こしても、胸がジーンと熱くなる。  初めての相手が、僕でよかった、なんて。  僕は根っからの男好きで、これまでたくさん相手を傷つけるような恋愛を重ねてきたヤツなのに、濁りのない美しい瞳で真っ直ぐ僕を見つめ、彼はそう言った。  僕は、寝乱れたシノさんの髪を手櫛で整えた。  僕は今、過去感じたことのない ── 吹越さんと付き合っていた時にも感じ得なかったほどの幸福感を、覚えている。  恋人として付き合ってる訳でもない。  互いに愛の言葉を交わした訳でもない。  たった一度、シノさんと肌を合わせただけで、だ。 「本当に、あなたは凄い人だよ」  僕はひとりそう呟くと、シノさんのこめかみにキスをした。  ふと、ダイニングから携帯の着信音が聞こえてくる。  僕のはベッドサイドにあったから、シノさんの携帯だ。  僕は裸のままベッドから抜け出すと、ダイニングに向かった。  さすがに、少し腰が痛い。  怪我するまでには至ってないと思うけど、そこがドーンと重く疼く。  下世話な話、なんだかまだシノさんが挟まってる感じ・・・。  ダイニングに向かう途中、開きっぱなしの洗面所のドア越しに僕の髪もシノさんに負けず劣らずバッサバサに乱れているのが鏡にうつってて、ちょっと笑ってしまった。  右手で前髪を掻き上げながら、リビングダイニングのドアを開く。  ダイニングテーブルの上に置かれてあったシノさんの携帯はまだ鳴っていて、僕はそれを手に取った。  ドキリとする。   ── 聡子チャンからの着信だった。  聡子チャンと携帯の番号、交換したんだ。  僕の視線は少し宙を泳いだ。  きっと、少し前に聡子チャンのストーカーをシノさんが撃退した時に交換したんだろう。  あまりに長くベルが鳴っているので、シノさんには悪いとは思いつつ、僕は電話に出てしまった。 「 ── はい」 『え? あ? 篠田さんの携帯ではないですか?』 「そうです。おはよう、聡子チャン。僕、澤です」  僕がそう名乗ると、聡子チャンはホッとしたような声で『あ、澤先生ですか』と言った。 『あの・・・、篠田さんは・・・』 「ごめんね、昨夜遅くまで僕の部屋でどんちゃん騒いでお酒飲んだから、今、彼、爆睡してるんだ」  僕がさらりと嘘をつくと、聡子チャンはすっかりそれを信じたようだった。『篠田さん、お酒弱いですものね』とクスクス笑う。 「で? よければ、伝言しておくけど」 『あ、そうですね・・・。実は先日、危ないところを助けていただいて・・・』 「ああ、聞いたよ。ストーカーに狙われてるんだって?」 『それほど大げさなものじゃないんですけど。篠田さんには、その後もずっと家に送ってもらったりしたので、凄くご迷惑をかけてしまって』  僕はそれを聞いて、ああ、と思った。  だから先週から今週にかけて、シノさんの帰宅がやたら遅かったのか。  シノさん、そんなこと、一言も僕に言ってなかった。  僕は心の奥底に浮かぶ黒い感情を無理矢理押し殺すと、「シノさん、人がいいからね」と返した。途端に聡子チャンが『そうなんです! 篠田さんこそ疲れているのに、本当に自分のことそっちのけで、仕事先から毎日お店まで来てくれて・・・。本当に優しい人です』と返してきた。   僕は、心臓がズキリと痛むような錯覚を覚えた。   ── 彼女、シノさんのこと、好きなんだ。・・・好きなんだ・・・。 『澤先生?』  僕の沈黙に、聡子チャンが不審がる。 「え? ああ、聞いてるよ。それで?」 『きちんとお礼がしたいと思って。急なんですけど、今日髪のカットをした後に、夕食をごちそうしようかと・・・』 「なるほど。分かった。一応伝えておくけど、後でもう一回かけてあげてくれるかな。お昼頃だと、きっと大丈夫だと思うよ。そういうことは、直接本人に言ってあげた方が、きっと喜ぶからね」 『分かりました。じゃ後で、もう一度かけさせていてだきます』 「じゃ」  僕は電話を切った。  一瞬、シノさんの携帯を床に投げつけようと僕の身体が動いたけど、理性でなんとかそれを抑える。 「はぁー・・・」  僕は長い溜息をついて、携帯をそっとテーブルの上に置いた。  両手でゴシゴシと顔を擦る。   ── 聡子チャンは、いい子じゃないか。  美人だし、性格もいい。身長差だって15センチぐらいで、シノさんと並ぶと丁度いい。  シノさんの本当の魅力を分かってて、好きになってくれた女性だ。  彼女がシノさんの恋人なら、シノさんを『刺身のつま』呼ばわりしたあの女子マネージャーだって、きっと後悔どころか、自分の敗北を痛感するだろう。   僕なんかより彼女と付き合う方が、何より・・・シノさんが苦しまなくて、済む。 「 ── たった一回寝ただけじゃないか」  僕は自分に言い聞かせた。  たった一回寝ただけ。  そんな男なんて、これまでごまんといたし。  シノさんは、僕のことを好きで僕と寝たんじゃない。  彼もまた、僕の肉体に欲望を感じて ── 感じてくれて、だからできたんだ。セックスが。  これまで未知の領域だったことが、夕べはっきりと分かったんだから、もうシノさんはそのことを恐れることも尻込みする必要もなくなった訳だ。  シノさんは、もうこれまでのシノさんとは違う。  聡子チャンと二人きりで何回も会っているのであれば、女性に対する緊張感もさほど酷くなくなってきている証拠じゃないか。 「 ── 僕の役割は、もう終わったんだ」  そう口に出してしまったら、踏ん切りがつくかと思ったけれど。  逆に、意外なほど傷ついている自分がいた。  僕は、カリッと親指の爪を噛む。  勢い余って、唇の裏も噛み切ってしまって、口の中に鉄の味が広がった。 「成澤千春の役目は、もう終わったんだ」  それでも僕は、再度そう呟いたのだった。    <side-SHINO>  目が覚めると、俺は広いベッドにいた。  いつもと、見える風景が違う。  俺の部屋はもっといろんなモノで溢れてるはずで、こんなに何もモノがないなんて・・・。  しばらくぼんやりとして、布団の中で身体を動かすと、ふわりといい香りがした。  あ・・・。これ、千春の香りだ・・・。  千春のシャンプーの香り。  薬草っぽいさっぱりとした香りの中に、微かに甘い花の香りが混じる繊細な香り。  その香りが俺の髪からもして、俺はハッとして身体を起こした。  まず見えたのは、素っ裸の俺の身体。  あちらこちらに、うっ血した痕がある。  これっていわゆる・・・キスマークってやつ?  俺は一瞬で昨夜のことを思い出して、顔がかっかとした。   ── そうだ、俺。昨日、千春と・・・  ということは、俺、もう童貞じゃないってことだ。  俺は、ぐるりと部屋の中を見回した。  特に景色が違って見える訳じゃなかったけど。  とうとう俺、童貞捨てたんだ。千春と一緒に・・・。 「・・・千春?」  俺はベッドを起き上がった。  周囲を見回すと、ここで脱いだはずの服や下着がなくなっていて、仕方なく俺は、シーツを身体に巻き付けて部屋を出た。  部屋を出ると洗濯機が回る音がして、ダイニングから物音が聞こえてきていた。  ドアを開けると、白いTシャツにベージュ色のセーターを着た千春が、鍋の中から掬ったスープを味見しているところだった。 「あ、シノさん、起きたんですか?」 「う、うん」 「おはようございます。 ── といっても、もうお昼ですけどね」  と言いながら、千春が微笑む。  飾り気なのない自然な笑顔。  俺はなんかやたらと照れくさくて、鼻の下を仕切りに擦った。 「お、おはよう」 「あぁ、そうか。着替え、用意しておくのを忘れてました」  千春は一旦コンロの火を止めると、和室のクローゼットを開けて、新しい下着とジーンズ、黒のTシャツ、グレイのパーカーを取り出して、俺に渡してくれた。 「僕とシノさん、サイズはほとんど変わらないから、ジーンズも大丈夫だと思います」 「ありがとう」 「シノさんが着替えてきたら、丁度昼ご飯ができ上がりますから。今日はちょっと品数が少ないですけど・・・」 「そんな。全然いいよ、気にしなくても」  俺が肩を竦めると、千春はシーツの合間から見える俺の胸元をチラリと見て、すぐにキッチンの方に顔を背けた。  でも俺はしっかりと見たぞ。  あちらへ向く瞬間、その口元が笑みを浮かべるのを無理に堪えようとグッと引き締められたのを。   ── なんだよ、素直にニヤければいいじゃないか。  いつもは俺が何かに失敗して恥ずかしさのあまり笑みを浮かべると、ここぞとばかりに茶化してくるくせしてさ。  俺にはその隙を見せないってか。 「千春 ── ハァックシュッ!!」  ニヤけ顔を拝んでやろうと千春の名前を呼んだ瞬間、俺は盛大にクシャミをしてしまった。 「ほら! 早く着替えないと、風邪ひきますよ。もう、何やってるんですか」  千春は既に、『お袋モード』の千春になってた。   ── ああ、チクショー。惜しいことをした。  俺は、足にまとわりつくシーツをたくし上げながら、わたわたと寝室に取って返した。  トマトのリゾットに豆腐サラダ、ベーコンエッグというシンプルな献立は、起き抜けの俺にはちょうど良かった。  千春も若干だるいのか、動きが全体的に気怠くて、妙に色っぽかった。 ── それって、俺の千春に対する見方が変わったせいなのかな?  だって、夕べの千春はとてもキレイで、可愛くて、エロくて・・・。 「ん? なんですか?」  千春は、リゾットをスプーンで掬う手をとめて、俺を見た。 「い、いや。なんでもない」  俺は慌てて、卵を口に突っ込む。  何だか、今でもドキドキしてしまう。  千春のあんな甘えた視線を何度も受けることになって、ドキドキしないって方が無理ってもんだ。  いつもはツンとしてて、時には悪魔のように恐ろしい目をするあの千春が、とんでもなく甘い、蕩けそうな瞳で、何度も俺を見た。  千春のキスも、俺に触れる指先も、俺の名を呼ぶその声も、全部が全部、凄く甘い・・・。  やっぱり千春は、『ツンデレ』ってやつなんだ。  でも『デレ』の確率が物凄く少ないから、たまに『デレ』をされると、皆が虜になっちまうんだ。 「また、手がお留守」  ピシャリと千春が言い放つ。 「冷めると、おいしくないから」 「は、はい」  俺は、残りのリゾットを一気にかき込んだ。俺は猫舌だから、ちょっと舌を焼いてしまう。 「何もそこまで早く食べろとは言ってませんよ。まったくもう」  千春は顔を顰めながら席を立ち冷蔵庫を開けると、グラスに氷と水を入れ、素っ気ない素振りで俺の前に置いた。  もう既に、『ツン』様だよ。  ああ、昨夜の『デレ』様は、幻か・・・。  食事を終え、一緒に後片付けをしている最中、俺は思い切って千春を映画に誘った。 「なぁ、今日、映画観に行かない?」  俺が千春を見ると、千春は俺に横顔を見せたまま、「行かない」と瞬殺で答えた。 「い、行かないかぁ~」  物凄い断り方に、俺は思わず笑ってしまう。  千春、直球過ぎるよ。  でも、こんな断り方しても、千春はなぜか許されるんだよな。 「じゃ、今日、何して過ごす?」  俺がそう尋ねると、千春は洗った布巾をベランダの外に乾しに行きながら、「シノさんの予定は、既に決まってると思いますけどね」と言った。 「え? それ、どういう意味・・・?」  俺がそう呟いた瞬間、俺の携帯が鳴った。  手に取ると、聡子ちゃんからの着信だった。  俺は電話に出る。 「もしもし?」 『篠田さんですか?』 「ああ、聡子ちゃん。どうした? なんか、あった?」 『いえ、別に何かあった訳ではないんですけど・・・。今日、篠田さん、ご予定は空いてらっしゃいますか?』 「え? 今日?」  俺は、千春を見た。  千春は和室のソファーに座って、何かの雑誌を読んでいる。  何だよ、千春。超能力者か? 『篠田さん?』 「え? ああ。空いてます・・・。一応・・・・」  ええと、空いてるってことなんだよな、多分。  千春は、完全に俺の誘いにのってくる気配なし、だし。 『よかった! ぜひ、お礼をさせていただきたい思って。急なんですけど、お食事、ご一緒にいかがでしょうか? よければ、髪のカットも。前にご来店した時から一ヶ月以上経ちますし・・・。髪型をキープするには一ヶ月に一度、ご来店していただいた方がいいんですよ』 「あ、そうなんだ・・・」 『美住さんが、首を長くして待ってます』  美住さんも待ってるのか・・・。 「わかりました。今日、行きます」 『よかった! お待ちしてます。何時からでもどうぞ』  電話を切る。  俺が顔を上げると、千春が言った。 「デフォルトに行くんでしょ?」 「ああ」 「パーマもかけ直すかもしれないから、早めに行った方がいいんじゃないですか?」 「千春も行かない?」 「行かない」  俺は、がっくりと頭を垂れた。 「子どもじゃないんだし。もう保護者同伴でなくったって行けるでしょ?」  俺はぷうっと頬を膨らませながら、唇を尖らせた。 「ほら、すねない! きちんといい格好に着替えて行くんですよ。僕があげた黒のVネックニットに色落ちしてないストレートジーンズ、それに昨日着てたジャケットをあわせたらいいです。あ、ジャケットはそこにかかってますから」  千春が、和室の窓際にかけられているジャケットを指差した。 「分かったよ」  俺はすね気味のままそう返事してジャケットを掴むと、「ごちそうさま」と言い残して、部屋を出た。 <side-CHIHARU>        バタンと鉄のドアが閉まる音がして。  僕は、ハァーと溜息をついた。  ふと自分の手元に目を落とす。  膝の上にのっていた雑誌は、天地が逆になっていた。 「 ── なにやってんだ」  幸いなことに鈍感なシノさんは、このことにも気付いていなかったようだけど。  僕はソファーの上に膝を抱えて座って、頬杖をついた。 「ヘコむなよ、自分・・・」  早めに手を離した方が、自分のためにもいいんだ。  でないと吹越さんの時のようになってしまう。  あんな思いを二度も繰り返すことになったら、僕はきっと正気で生きてはいけない。 「篠田俊介、見事、恋愛塾卒業・・・か」  僕がそう呟いた時、丁度いいタイミングで洗濯機がピーと音を立てたのだった。
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