act.05
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act.05

<side-CHIHARU>  僕があまりにもすぐにドアを開けたものだから、お隣さんはちょっと驚いた顔つきをしていた。  その顔を見て、僕はなぜかホッとしていた。  ── よかった、目の腫れも赤みもすっかり引いてる。 「えっと、あ、よ、よかった。ご在宅で」  そんな台詞を聞くと、益々セールスマンっぽい。不器用そうで人がいいのが何より取り柄といったようなセールスマン。セールス先で逆にお年寄りの用事なんかいいつかっちゃって大変な目に合うってタイプの。  むろんそれは僕の勝手な想像なんだけど。  彼が一体何を言い出すか、内心浮き足立っている自分がいる。  まさか僕の顔、緩んでないよね? 「何でしょう」  僕があくまで冷静な口調で聞き返すと、彼は黒いスーツの懐から封筒を取り出した。 「今朝のお礼です」  ── ああ、なんだそんなことか。  ちょっとがっかりする。  と同時に、確かに普通、顔を合わせて二言目に「今夜付き合わない?」だなんて話をするのはゲイの世界でしかあり得ないことか、と思い直した。  いいや、僕は彼に誘って欲しい訳じゃない。  彼をそんな簡単な存在に貶めたくはない。  ああ、彼のことに関しての僕は、何だか支離滅裂だ。  彼から封筒を受け取って、中身を見る。ビール券だった。しかし、二十枚も入っている。 「今朝のお礼にしては、随分多いように思いますが」  僕がそう返すと、彼はテレくさそうに少し笑った。  口角がぐっと上がる唇の向こうに僅かに飛び出た八重歯が見える。益々柴犬っぽい。  ああ、昨日はこんな顔見えなかった。ちょっと得した気分になる。 「いや、仕事柄安く手に入るんですよ。気にしないでください」  彼はそう言う。  仕事柄? 彼はどんな仕事しているんだろう。 「でも、これじゃ2万円相当ですよ。今朝僕がお渡ししたのは、この十分の一程度だ。これではもらい過ぎです」 「いやいやいや。いいんです。本当に、助かったから・・・。嬉しかったんです。凄く」  テレ笑い・・・というより、はにかむって感じだな。  そう言えば、ハニカミ王子っていうのが昔流行ったっけ。 「それになんというか、あの~・・・」  あれ、急に渋い顔になった。  なんだろう、言い出しにくい話? 「下心があるっていうか・・・」 「下心?!」  超絶ドキリとした。 「あなたももうご存じだと思いますけど、僕はゲイですよ。その僕に下心とは、あなたもそうだということですか?」  ノンケだと思ってたけど、まさか・・・と思いつつ、僕がそう切り返すと、彼は大慌てで首を横に何度も振った。 「あ! いや!! そういう意味ではなくてですね」  ── 何だ、やっぱり違うのか。そうだよな。僕の嗅覚がゲイとストレートを取り間違えたことはない。 「弟子にしてほしいというか・・・先生になってほしいというか・・・」  は?  今度は僕が渋い顔をする番だった。 「弟子? あなた、ゲイになりたいんですか?」 「いやいやいや」  彼はまたも激しく首を横に振る。何だか、簡単な話ではなさそうだ。 「とにかく立ち話もなんなんで、入りませんか」  僕がそう言うと、彼は目を見開いた。 「え、いいんですか?」  心底驚いている。  そんなに意外だろうか。  ── ま、確かに祖母の死後、この部屋に入った人間は、両親と家事委託業者と岡崎さんぐらいのものだけど。 「あなたが嫌なら、別にここでも構いませんけど」 「あ、いえ、迷惑かな、と」 「まさか。それに先生になるならなるで、玄関先では先生なんてできないでしょ。ま、ワイロももらいましたし」  僕がビール券の入った封筒をかざすと、向こうもちょっとほっとしたようだ。「じゃ、お邪魔します」と中に入ってくる。  そして彼は、まるでおのぼりさんのように部屋を見回した。 「へぇ~、うちと同じ間取りなのに、全然雰囲気が違う。すごく広く感じるよ」  なんて呟いてる。 「そうですか? どこも一緒なんじゃないですか。あ、適当に座っててください」  彼はぺこりと頭を下げて、ダイニングと一続きにしている和室のソファーに膝頭をガバリと開けて男らしく座る。  如何にもノンケって感じだよね。隙だらけだ。 「いやぁ、うちよりずっとオシャレだ・・・。やっぱ住む人が違うと同じ間取りでも全然変わるんだなぁ・・・。あ、すみません、俺、タメ口で・・・」  そうやって慌ててる様が可愛い。  やっぱりカワイイや、この人。  どこがどう可愛いんだか分からないんだけど、雰囲気的になんか可愛い。  今までに僕の周囲にはいなかったタイプ。  ま、そもそも、今までの僕の人生で普通のサラリーマンと遭遇することなんてなかったしな。 「そんなに固くならなくても構いませんよ。きっとあなたの方が年上だし。おいくつですか?」 「えっと・・・32歳」 「あ、そうなんですか? まだ二十代かと思ってました」 「え、そう見える?」 「ええ、若いですよ。逆に僕の方が老けて見えるんじゃないかな」 「澤君は、老けてるんじゃなくて大人っぽいんだよ。今時の26歳にしてはさ」  一瞬、彼にお茶を出す手が止まった。 「── 知ってたんですか、僕が澤清順だってこと」  僕はそう言いながら、心の片隅で落胆している自分がいた。  やはりこの人も身の回りにいるたくさんの顔のない人達と同じに成り下がっていくような、嫌なイメージが浮かんだ。  彼は頭を掻きながらも、こう言った。 「それがお恥ずかしながら。今日知ったんです、偶然。女子社員が見せてくれた雑誌で」  そうして彼は、ビジネスバッグからA4変形版の雑誌を取り出した。  ああ、それなら先月、ゲラ版をもらっていたやつだ。  僕のくだらない恋愛論をしつこく何度も訊かれた。 「正直言うと、俺、澤君の小説も読んだことないんだ。いや、澤君のはおろか、他の作家の小説もあまり読まなくて。新聞とかビジネス書は、よく読むんだけど」  彼は膝頭を併せ、身を小さくして細々と言う。  僕の方も、少し肩の力が抜けた。  僕の小説なんて、恋愛論より更にくだらない。  彼には、読んでもらわなくったっていい。  僕は彼の前にお茶を置いた。「あ、すみません。作家先生にそんなことさせちゃって」と彼は恐縮している。 「いいんですよ。作家なんてね、たいしたものじゃないです。会社勤めの人の方がずっと偉いですよ」  僕はダイニングチェアーを和室に近づけて置き直すと、それに腰掛けながら、本心からそう言ったが、彼は「人のできないことができるって、それは凄いことだよ」と返してきた。  ── ・・・僕の身の回りの人で、僕にそんなことを言ってくれた人は、今までで誰もいない。  自分を卑下していることに、少し罪悪感を感じることができた自分に驚く。  なんかこういうの、今まで本当になかった。  僕は、思わずまじまじと彼を見つめた。  出会ったばかりで僕をこんな気持ちにさせる彼は、本当に何者なんだろうと。  彼は、あんまり僕に見つめられ続けたせいか、少し居心地が悪そうにそわそわと身体を揺らした。  僕はハッとして、ゴホンとひとつ咳払いをする。 「── で、僕は何の先生をすればいいんですか?」  僕がこう切り出すと、彼は「迷惑なら、ホント断ってもらっていいからね」と前置きした上で、こう言った。 「俺の恋愛の師匠になってもらいたいんだ」 「恋愛の師匠・・・? ええと、それは・・・恋愛相談ってことですか?」  俺は、時折顔を合わせていたお隣の女性と子どもを思い出していた。  やはりそういうことか。別居の危機に晒されて、誰かに相談したかった・・・ということなんだろう。  内心、残念に思っている自分をバカみたいに思いながら、「ゲイの意見でよければ、いくらでも恋愛相談しますよ」と続けた。  ところが、事情はそうではないらしい。 「恋愛相談とかってそういうんじゃなくて・・・。その前段階というか・・・」 「前段階?」  彼はギュッと唇を噛みしめた後、勇気を振り絞るように切り出した。 「俺・・・、実はその・・・、全然モテないんだ。自分でも冴えない男なのは分かってるんだけど、彼女できたためしがないんだ。自分から告白したこともないし、もちろんされたこともないし。いっちょ前に仕事はできるんだけどさ、そっち方面の話がまったくダメなんだ。今日、彼女がいないことを会社の女の子に話したらさ、この記事読んだ方がいいって言われて。それなら、直接本人からご教授いただいた方がずっといいなって、思っちゃったんだ・・・」  僕は、彼の言葉を息を詰めて聞いていた。  僕の目は、何度も何度もパチパチと大きく瞬きをしているようだった。 「一緒に住んでいたのは、お嫁さんとあなたのお子さんじゃなかったんですか?」 「え?! ち、違うよ! 妹と甥っ子だよ。だって、女の人とそういうことしたこともないのに、子どもなんてできるわけないじゃないか!!」  ・・・・・・・。  一瞬、完璧に真っ白い『間』が二人の間に流れた。  次の瞬間、彼は真っ赤な顔をして多量の汗を掻き始めた。 「えっと、その、あの~~~・・・」  完全にパニックになって、しどろもどろしてる。  逆に僕は、あの女性と子どもが彼の妻と子でなかったことに酷く安堵して、彼が思わず『童貞宣言』をしてしまったことなど小さな問題だと冷静さを取り戻していた。 「失礼な質問をしますが、経験したことがないんですか? つまり・・・まだ童貞ってこと?」 「いやっ、そのっ、なんというか、つまり、・・・・そうです」  彼はとうとう観念したようで、がっくりと首を折った。 「自分でも分かってるんだ。三十路も過ぎた男のくせに、まだ経験がないなんて、まったく恥ずかしいというか、情けないというか・・・」  また昨夜みたいに泣き出しそうな声で彼が言う。 「言い訳みたいに聞こえるけど、中学時代は部活優先の生活だったし、オマケに高二で両親が死んじゃったから、そのまま中退して社会人になって、何とか妹を食わしていかなきゃならなくて、だから恋愛なんて二の次で・・・。気づいたら女の人とどう接していいか分からなくなっていたというか・・・」  ── あぁ。この人、そんな苦労してきた人だったんだ・・・。  僕は、何とも言えない気持ちになって目の前の項垂れた彼を見つめた。  世間を冷めた目で斜めに見てきた人生を歩む僕とは真逆の生き方を、彼は選んできた。  不器用でも何でも、大切な物を守るために自分を犠牲にして、気づけば自分のためにどうしたらいいかその方法を見失ってしまった人。  なんだか祖母のことを思い出してしまって、鼻の奥がツンとなった。  だが彼は、そんな僕の表情の変化にも気づくことなく、ひたすら32歳の童貞男を恥じ入って、顔をくしゃくしゃにしている。  ── ああ、そんな顔をしなくてもいいのに。経験があるかないかだなんて、そんなのどうでもいいじゃないか。人間の価値なんて、そんなことで決まるわけがない。  僕なんて、随分幼い頃から「男が好き」というハンデなんて乗り越えまくって、経験だけはバカみたいに積んできたが、結局何も手にしていないのだから。 「あぁ、このことだけは、死んでも言わないつもりでいたのに・・・」  そう言いながら大きな手で顔を覆い隠す彼に向かって、僕はこう断言した。 「経験があるかないかなんて、そんなのはとても小さい問題です」  僕がそう言うと、彼は「そう?」と顔を上げた。  僕はその瞬間、彼を覆っていた鎧が消えてなくなるようなイメージを持った。  きっとそれは、今まで彼が僕を警戒していた目に見えないバリアみたいなものだったのだろう。  僕は更に彼を安心させるように微笑むと、「例えあなたが経験がなくても、少なくとも僕はあなたを否定したりはしませんよ。むろん、バカにもしません」と言った。  僕の微笑みが人々を魅了することは『うぬぼれ』でなく『事実』として僕は知っていたから、あえて僕はここでその武器を使った。  しかし僕自身、それを誰かの心に『安心』を与えるために使うだなんてこと、思いもしていなかったけれど。  案の定、彼は心底ほっとした顔をして、身体を起こした。 「あの・・・訊いてもいいですか、昨夜の涙の訳」  彼は少しバツが悪そうな顔をしたが、素直に話してくれた。 「昨夜は、妹の再婚が決まって甥っ子と共に家を出て行った初日で、しかも身の回りの人がバタバタッと恋愛モードになったりとかでさ、自分が酷く孤独な人間なんだと痛感したっていうか。このままずっと世界の中で俺だけが独りぼっちのままじゃないかって思うと、何だか怖くなって。そしたら泣けてきたんだ、急に。全く、大の大人が恥ずかしいとしか言えないんだけど・・・」  彼はそう言って、本当に恥ずかしそうに頬を少し赤らめながら、頭を掻いた。  ── 孤独、孤独か・・・。  僕だって、その手の痛み、知らない訳じゃない。  種類は違うかもしれないけれど、僕だって本当は孤独なのだから。  例え毎日、違う人間が僕に愛を囁いてくれるとしても、そのどれもが表面的で常にファッションでしかない薄っぺらいものだとしたら、それはそれで十二分に孤独だろう? 「恥ずかしくなんかないですよ、全然。人間、誰だって独りが身にしみれば涙も出ます」 「いや、君は優しいな・・・。ホント、優しい。だからきっと、君はモテるんだよな」  彼はそんなことを言う。  僕は思わず苦笑いをした。 「そんなこと言うのは、あなたぐらいのものですよ。僕が、『優しい』だなんて」  僕は根っからのドS人間だと、世間ではもっぱらの噂だ。  彼はそんな僕にまだ「いやいや、君は十分優しいよ」と噛みついてきたので、口説いてるんですか?と冗談交じりに切り返すと彼は真に受けたかのように顔を真っ赤にして「とんでもない!」と頭を横に振った。  ま、普通はそういう反応だよね。 「僕が教えなくても、恋愛、十分いけそうですけど。ええと・・・」  名前を呼ぼうとして、僕はまだ彼の名前すら知らないことに気がついた。  そうなんだよな。  僕、バーでこういう会話をすることは今まで腐るほどあったけれど、まさか相手の名前を自分の聖域の中で訊く羽目になるなんて、思いもしなかった。岡崎さんだって、今のこの状況を知ったらきっと卒倒するだろう。 「すみません、お名前、訊いてもいいですか?」  僕がそう言うと、彼は目を大きく見開いて、次の瞬間にはまた再び真っ赤になった。  どうもすぐに赤くなるタイプらしい。 「あああああ! す、すみません! 申し遅れました」  ここら辺、完全に営業モードだよね。 「ワタクシ、こういう者です」  自然に黒いスーツの懐から名刺が出てきて、僕は吹き出しそうになるのをこらえながら、彼を斜に構えてみた。  その視線に気がついたのか、彼の手が止まる。  僕は、その名刺をぐっと手で押し返した。 「別にビジネスじゃないんですから。名刺なんていいですよ」  彼は益々恐縮して、額の汗をスーツの袖で拭う。  ああ、そんなにしたらスーツが傷んでしまうのに。  何というか本当に不器用というか、男らしい無頓着さというか。  第一、今彼が着ているスーツだって、全く彼の体型に合っていない三流品の『吊し』スーツだってことがありありと分かる。こういうのが野暮ったさに繋がるんだってこと、世間一般のリーマンは気づいてない人が多い。  実際。芸能人が格好良く見えるのは、実のところ彼らの長所を客観的に判断して、一番似合う髪型や服装をコーディネートしてくれるスタッフがついてくれるからだ。僕もテレビ局なんかで私服姿の芸能人に出会うこともあるが、思わず幻滅したり吹き出したりしてしまう人がかなりいる。  僕は芸能人ではないが、幸いなことに私服の趣味はどうやらいいようで、雑誌の取材でスタイリストがついても、結局は私服のまま撮影に入ることも多い。  ようは自分を客観的に見ることができて、冷静にそれを分析できる目を持っているかどうかじゃないのかな。── ま、それが一番難しいことなんだろうけどね。 「そうだよな。こんなタイミングで名刺なんて、最低だ。何だかつい、これに頼っちゃうんだよ。サラリーマンが身に染みてるっていうか、なんていうか。合コンでもこれやって、女の子に引かれるんだ」  彼は名刺を懐にしまって姿勢を正すと、「篠田俊介です。よろしくお願いします」と頭を下げた。  如何にも生真面目な感じの挨拶の仕方。  確かにこれだけ固いと、合コンなんかにくる蝶々のような女の子達からは「ノリが悪い」と敬遠されるかもしれない。 「こちらこそ、よろしくお願いします、篠田さん」  僕は立ち上がって篠田さんに近づくと、手を差し出した。彼もゆっくりとソファーから立ち上がり、恐る恐るというリアクションで僕の手を握り返す。  相当緊張してるせいか、手がちょっと震えていて、汗ばんでる。  こういうのも女の子にとってはマイナスかもしれないけど、僕は不思議といやな感じはしなかった。  彼は彼なりに、それなりの覚悟をして僕の部屋のチャイムを押したのだ。きっと。  そう思ったら、彼の味方でい続けたいと珍しくも僕はそう思った。  まだ僕に、そんな良心があったなんてね。  これまで僕は、人を何かに利用することでしか、相手との関係を結ぶことなんてできなかったのに。  僕は自分でも不思議なものを見るように、握手を交わしている手を見つめた。 「あの~・・・」 「はい?」  ── 長いこと握手してることで、変に思われてしまったかな。  僕は慌てて・・・といっても絶対にその内心を気取られないようにあくまでスマートに手を離すと、「人と握手するのなんて、デビューの頃の握手会以来ですよ」と淡泊な口調で言った。  決して今の妙な間が、性的なものと思われたくなかった。  あの握手はそういう意味を込めていなかったし、彼には男とみたら誰でも発情する人間だと思われたくはない。 「商談成立ですね」  僕がそういうと、彼の顔がぱぁっと明るくなった。 「じゃ、先生になってくれるってことかな?」 「ええ、いいですよ。僕なんかでお役に立てればね」 「うわ~、よかった。正直、今までの人生の中で一番の博打をうった気分だ」 「ゲイに恋愛指南を受けることが?」 「あ! いやいや、そういう意味じゃなく。君に端から相手にされないと思ったんだよ」  あ。そういう台詞。何だか口説かれているような気分になってしまうのは、やはり僕が彼を意識しているということだろうか。  ダメだ、成澤千春。  ノンケはダメだ。  昔こっぴどく痛い目にあったくせに。それを学習したからこそ、これまでそれなりに問題もなくやってきたんじゃないか。彼のためにもこの想いは、せいぜい『好奇心』とか『趣味』とか、せいぜい『尊敬』まででとどめておくべきだ・・・。 「まずお引き受けするのに、いくつか断っておくことがあります」  僕がそう言うと、篠田さんの身体がまた幾ばくか緊張した。 「な、なんでしょう」 「確かに僕はゲイですが、男なら誰でもいいというタイプの人間ではありません。── まぁ中にはそういう人もいますが、僕の場合、恋愛的思考がヘテロの方には一切手を出しません。だから、篠田さんもテリトリー外だから安心してください」 「ヘテロっていうのは・・・」 「ようするに異性間での恋愛指向者です。ストレートの人というか、ノンケというか。分かりますか?」 「あ、ストレートね。そういう表現は知っているよ」  篠田さんの肩から力が抜ける。どうやらきちんと理解してくれたようだ。 「それから、澤清順と呼ぶのもやめてください。僕はここにいる時は成澤千春として住んでいます。できれば、そちらの名前で呼んでください」 「はい、分かりました」 「では恋愛教室の時間ですが・・・どのくらいの頻度がいいですか?」 「それは、君に任せるよ。君の都合のいいようにしてもらえれば」 「そうですか・・・。そういえば篠田さんは、夕食とかはどうしているんですか? これまでは妹さんが用意してくれていたんでしょう?」  彼は少し目を見開いて、「ああ」と溜め息をつくように返事をした。 「実は、そうなんだ。これまではずっと妹の作ってくれるものを食べてたから・・・。自分では作れないから、これからはコンビニ弁当に頼るしかないかなって思っていたところだよ」 「じゃぁ、残業のない日のこのくらいの時間に夕食を兼ねてというのはどうですか。場所は基本的に、ここで。お昼の段階でその日の予定を僕の携帯までメールしてください。食事は僕が準備します」 「え、そんなの、いいの? 夕食作りまでお願いすることになるなんて、君の負担になりそうだ。何だか悪いなぁ・・・」  彼はそう言ったが、顔は明らかに喜んでいるのが分かる。  本心が顔にすぐ出るところも、恋愛ゲームでは不利に働くんだろうね、彼の場合。  でも今の僕には、可愛くて仕方なく見える。ま、それは決して恋愛対象としてではなく、ただ純粋に可愛い生き物としてってことで。 「僕は会社勤めじゃないですからね。だから割と時間は自由が効くし、比較的料理をするのは好きなんですよ。だから夕食はよくここで食べています」  それは嘘だった。  料理することは嫌じゃないけど、人に呼び出されて外で食べることの方が多かった。  でも、これからは宣言通りの男になろうと決心する。 「もちろん、お互いに都合が悪くなる日もあるでしょうから、そうなったらメールで次の予定を決めましょう。週に3日を目安に恋愛教室を開講しましょうか」 「うん、分かった」  そういうことで、僕らは互いに携帯の番号とメールアドレスを交換しあった。  シノさんの携帯電話は、随分古いタイプのスマホでかなり使い込んだ形跡がある。  この流行遅れの野暮ったい携帯電話も、合コン時には女の子のウケの悪さにつながるだろう。  逆を返せば、それだけシノさんは物を大切にするタイプの人間だとも言えるのだが。  携帯のカレンダーに早速明日一回目を迎える恋愛教室の予定を彼がいそいそと入力している様を見て、思わず僕は、またもや可愛いと思ってしまう。  僕は、彼が携帯を懐にしまうのを確認してから、最後にこう切り出した。 「それから最後に、僕とあなたの間で受講料としての金銭のやりとりはやめましょう」  彼の表情が気色ばむ。 「え・・・、それって、報酬はなしってことかい?」 「ええ。僕は別に金には困っていませんから」  多少嫌みな言い方かなと思ったけれど、実際にそうなのではっきりと言った。  しかし幸いにも、篠田さんはそこには反応せず、むしろ報酬がないということ自体に難色を示しているようだった。 「それは困るよ。それなりに時間を割いてもらう上に、夕食まで用意してもらうのに。材料代だってバカにならないんだし、それより時間はタダじゃないんだから・・・」  ああ、この人ってやっぱりちゃんとした企業人なんだな・・・と僕は思う。  得てして僕みたいな会社勤めをしてない人間や、酷いのになると霞ヶ関でふんぞり返ってるお役人さんなんかは、人が動く時間に対して金がかかっているという感覚が非常に薄いけれど、一般企業の常識からすれば、そういう方がズレてるんだよな。僕もそれは、小説を書く時の取材をしてみて初めて知ったことだ。 「せめて・・・ビール券とかじゃダメかな? ああ、それも金券か・・・!!」  篠田さんは大きな溜め息をついて天を仰ぎ、頭を抱えた。  僕はただ単に、彼と金を目的とした関係になりたくなかったからだったが、ぐるぐるしている篠田さんを見るうち、いいことを思いついた。 「じゃ、篠田さん、小説のモデルになってくださいよ」  篠田さんが、ほけっとした顔をする。 「え? 俺が?」  ほけっとした顔のまま、自分を指さす。 「ええ。あなたが恋愛の勝者になるまでの軌跡を、次回作のテーマにするということで」 「ええっ! 俺なんかが、小説の主人公?! そんなの、絶対に無理だよ、無理無理」 「そうなんですか?」 「そうだよ。俺なんて、全然恰好よくないし」 「写真は出ませんから」 「そっ・・・そうか。あ、でも、皆からは普通過ぎてつまんないって言われてるし」 「普通の定義ってなんですか?」 「え? あっ、えっと・・・平均?」  ・・・・・。 「うわ~~~~~、俺って、バカ丸出し!! ボキャブラリーなさ過ぎ!!」  また一人でもんどりうっている。  篠田さん、切羽詰まるとオーバーアクションなんだな。  周りの人はこんな彼を見て、どうしてつまらない男だと思うのだろう。十分興味を惹く存在だと思うのだが。 「ま、とにかく。あくまでモデルなんで、内容はもちろんフィクションとして着色しますから。誰も篠田さんをモデルにしてるだなんて気づきませんよ」 「でも・・・」 「じゃ、恋愛教室、やめますか?」 「うっ。うぅ・・・・。そ、それでお願いします」  最後に篠田さんは、観念したように深々と頭を下げたのだった。
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