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act.09
第五章 いいです、温泉。いりません。
<side-SHINO>
ううう、筋肉痛が2日経ってもとれないとは・・・。
いや、それどころか、きつくなってきてないか? これって、年のせいなのかなぁ・・・。
俺は脇腹を擦りながら、会社の階段を上がった。
先週まではエレベーターを使っていたけど、あのドS王子・千春から「日頃から、“ながら運動”をするようにしてください」と命令されているから、本日より3階まで階段を使うことに決めた。むろん、駅でも階段だ。
恋愛講座をお願いしたのは自分の方だったが、千春の方が満喫してるよな。絶対。
土曜日に初めてジムなるものに入会したが、トレーナーにこってりしぼられる俺を見て、千春、爆笑してた。
さすがドS王子だよ、ちくしょー。
しかも彼は、俺が悲鳴をあげている動きと同じことを隣でしても、実にクールな感じで、叫び声ひとつあけず軽々とメニューをこなしてた。
そして益々滅入ることに、そんな千春の姿をフロア中の女子達が熱い視線で見ていたことだ。
ちょっと待て! 千春は、男しか好きになんねぇんだぞ!!って何度喉から飛び出そうになったことか。
ダンベルを肩のラインまで上げる時に浮かびあがる二の腕内側の筋肉がサイコーっだなんて、休憩室で遭遇したオバさま方までがそんなこと言ってた。
・・・どこまでマニアな見方なんだよ。『二の腕内側の筋肉』って。
俺はと言えば、激しく汗だくで一回目のセットでもうボロボロだったから、そのオバさま達からやや疎ましそうな目で見られた。
彼女達の視線は、Tシャツごしに見える俺の二の腕に向かっていたから、多分千春のほっそり二の腕と見比べていたんだろう。
ああ、どうせ俺の二の腕は太いですよ!
特に元々利き腕の左は、バレーボールをやってた時代から酷使してきただけに、特に太いし、右腕より少し長い。
ほっそりスレンダーな千春と比べると、他にも太ももとか胸とか、太いんだ、俺。
今は濃い系が好かれてない時代だそうだから、千春みたいな体型が理想なんだろう。
現に、千春が例え自分達を恋愛対象にしないと分かっていても、女子達は千春を熱っぽい目で見つめてるし。
やっぱり、なんだかんだ言って、容姿って凄く大切なんだよな。
俺は今まで自分の外見には無頓着で、安売り店で店員に言われるがままに服を買ってきたから、世間で何がカッコよくて何が自分に似合うのかなんて、まるっきり分からない。
まぁ、千春が俺を「絶対に男前にしてみせる」って宣言をしてくれたのですっかりその言葉に甘えようとしているが、金銭面ではそうもいかないから、ジムへの入会も貯金を崩して入るようにした。
なにせセレブ御用達のジムらしく、目が飛び出るぐらい高かったので、俺は一ヶ月間の期限付きという特別な条件で入れてもらえることになったのだ。
いやぁ・・・。俺みたいなごく普通の、何の取り柄もない男が男前になるには、それ相当の金がかかる・・・。
席に着くなり、課長に呼ばれた。
俺が課長の席まで行くと、課長は席から立ち上がって俺の肩を叩いた。
「おめでとう、主任」
「は?」
「そんなアホづらすんな。お前の企画が通ったんだよ、今年の年末商戦」
「本当ですか?!」
俺は思わず大きな声をあげてしまった。課長がオーバーに耳を塞ぐ仕草をする。
「こんなことで嘘つく訳ないだろ。今年はお前が推した『薫風』でいくと社長が決定した。今日からお前、日本酒課年末商戦企画推進主任、な」
顔を緩ませた俺に、課長の隣の席の田中さんが「うわぁ、篠田さん、おめでとうございます」と声をかけてくれる。
田中さんは、俺が苦労して『薫風』の製造元である柿谷酒造を口説き落とした過程を知ってるから、そう言ってくれたんだ。
俺は振り返って、川島を見る。
「おい、川島! 薫風でいくって!」
川島は立ち上がりながら苦笑いを浮かべると、「言わなくても、全部聞こえてるよ」と言った。
俺は思わず川島のもとに行くと、がばっと川島を抱き寄せて、バンバンと肩を叩いた。
「痛いって! その体育会系の喜びの表し方、やめれ!」
川島が悲鳴をあげるのを、課のみんなが全員笑っていた。
そんなに嫌なのかよ。
これは最大級の喜びの表し方だろ?!
川島も、幾度か俺につき合って栃木の山の中まで行ってくれたから、その二人で頑張って商談に結びつけた『薫風』が選ばれたことが、純粋に嬉しかったんだよ、俺は!
「課長、これから柿谷酒造に行ってきてもいいですか?」
「今からかよ?」
「ええ。川島と一緒に」
俺がそう言うと、俺の腕から逃れようと必死になっていた川島が、「え?! 俺も?!」と素っ頓狂な声を上げた。
「だって、一緒に直接報告、行きたいだろ?」
「まぁ、そうだけど・・・」
「何だよ、お前。今日忙しいの?」
「別に忙しかねぇけどさ」
「嘘でも忙しいって言え」
課長が川島の頭を企画書の束で叩いた。続いて俺も叩かれる。
「男同士の抱擁はもういい。直接報告に行きたいっていうならしょうがねぇな。後で出張費ちゃんと計上しとけ。配送部に車調整してもらえよ」
「分かりました!」
俺は、今年の年末商戦の企画書ファイルとノートパソコンをカバンに突っ込んだ。
「ほら! 川島、行くぞ!!」
俺が川島の椅子を蹴ると、川島は渋々といった感じで重い腰を上げた。
「何でそんな不機嫌なんだよ」
東北自動車道の那須塩原方面に車を向けつつ、俺が助手席の川島に声をかけると、しばらく川島は答えなかった。
ちらりと横目で見ると、川島は口を尖らせてる。
「 ── だから、何なんだよ」
俺がもう一度訊くと、川島はダッシュボードの上に足をのせて言った。
「今夜、美樹ちゃんとデートの約束してたんだよ」
「え? そうなの?! そうならそうと、言えよ!」
「課長の前で言える訳ないだろ?! 夜にデートがあるから、出張できませんなんて」
── ま、確かにそうだよな。
いやぁ、そりゃ悪かったなぁ・・・。
俺は本気でそう思ったので、「悪かった。すまん。なるだけ早く帰れるようにする」と言ったが、川島はすっかりふてくされて、「そんな訳ないじゃん。お前、柿谷のご主人に無駄に気に入られてるから、またどうせ泊まってけって言われるぞ。今日中に帰ってくるのなんて無理だって」とぼやいた。俺に背を向けて、背中を丸くしている。
俺はちらちらと川島を見ながら、左手の人差し指で川島の背中をツンツンと押した。
「川島ぁ~、機嫌直せよ~。埋め合わせはするからさぁ~、おい、川島ぁ~」
しばらくそれを続けていると、とうとう川島は根負けして、「やめろ! うっとおしい!」と笑いながら叫んだ。
「ったく、お前はいつも強引なんだよ。今日の昼飯、奢れ」
「分かった。奢る奢る」
よかった。
とりあえず、川島の機嫌は直ったみたいだ。
栃木県塩の湯温泉郷の奥にある柿谷酒造は、1852年創業の古い酒蔵だ。
来年で160周年を迎えるという小さいながらも歴史の深いところで、酒の弱い俺が一口飲んで「美味い」と心の底から初めて思った本醸造酒『薫流』を製造していた。
俺がこの酒蔵と出会ったきっかけは、仙台出張のおりに仲良くしてくださってる仙台の青木酒造の杜氏・鬼頭さんが飲ませてくれたとっておきの酒が、他でもない『薫流』だった。
「酒蔵の杜氏が惚れる本物の日本酒」と鬼頭さんが絶賛した酒は、杜氏でなくとも素晴らしいと思える酒で、俺が柿谷酒造へ行くことを鬼頭さんから口添えしてほしいとすぐに頼み込んだほどだった。
鬼頭さんは、最初難色を見せていた。
なんでも柿谷酒造はとても小さな酒蔵で、量産しているような酒蔵ではないから、地元でしか流通してない。
東京の卸業者が行ってもまず相手にされないだろうし、柿谷のご主人はなかなかの頑固者だから門前払いを食らった者は何人もいると、俺のことを本気で心配してくれた。
でも俺としては、日本酒を扱う仕事に就いてから、初めて「これは凄い」って思った品だったし、少ない量でもいいから、東京の人にもこの味を知ってほしいと思ったんだ。
なんとか鬼頭さんにお願いをして紹介の電話をかけてもらったが、一回目訪問した結果は、やはり『門前払い』だった。
それから柿谷さんと直接会えるようになるまで、およそ一年の歳月がかかった。
最初は行く度にお約束の門前払いの刑だったが、俺のことを気の毒に思った奥さんが、次第に事務所まで入れてくれるようになって、お茶をごちそうしてくれるようになった。
その間、相変わらずご主人の柿谷さんは全く会ってはくれなかったが、ある時偶然柿谷酒造の杜氏・広山さんのお母さんを助けたことがきっかけになって、柿谷さんと会えるようになった。
広山さんのお母さんは84歳と高齢で、俺が柿谷酒造から帰る際に道路で踞っているのを発見して、麓の救急病院まで運んだ。軽度の心臓発作だったらしく、俺がそこを通りかかったのが本当にタイミングよかったんだ。
後から聞いた話では、山間部は救急車が来るまでに時間がかかるそうで、それが原因で助からない人も多いとのことだった。
広山のおばあちゃんからも広山さんからも随分お礼を言われたけど、困った人を助けることって、人として当然のことだろ? 道ばたでおばあちゃんが苦しんでるのに、放っておくなんて誰ができるんだよ。だから、そんなに褒められることなんかじゃないって、俺は思った。
だから当時、ご家族が来るまではと付き添っていた病院で広山さんと会い、彼が他でもない柿谷酒造の杜氏さんだと知った時も、俺はそれを交渉に利用するつもりはなかった。
なんだか弱みにつけこむみたいだったし、それを狙って広山のおばあちゃんを助けたつもりはなかったからだ。
その後も幾度か柿谷酒造に通うついでにおばあちゃんの転院した病院までお見舞いに行っていたが、俺が何の仕事をしているかは、ずっと黙っていた。
だけど、バレるものはバレるんだよな。
KAJIMIYAのロゴが貼り付けられた社用車でいつも見舞いに行っていたので、どうやらそこからバレたようだ。
結局その話が柿谷さんの耳まで届いて、ある日突然、俺は柿谷酒造の事務所から蔵の中に呼ばれたのだった。
「大概の営業マンは、毎回高価な菓子折りを持ってぎたり、ブランド品をうちのもんに買ってぎてみたり、見習い職人の下仕事を無理矢理手伝おうとしたり、果ては土下座までするような奴らばっがりやったんさ。やけど、菓子折りひとつ持ってこず、ただただ『話を聞いてくれ』と事務所に通ってぎて、あげぐうちの女房のボヤき相手になっておるような営業マンは、お前だけだべさ」
柿谷さんと顔を合わせた時、開口一番そう言われた。
いかにも頑固者といった風情で、しかめっ面の柿谷さんだったが、その後一言「広山んところのばぁさんを助けてぐれて、ありがとう」と小さく呟いた時、なんか俺の胸は熱くなった。この人とは、一生つき合って行きたいと思ったんだ。
その後も、俺はことあるごとに柿谷酒造に通った。
俺の(童貞以外の)人生相談を柿谷さんにすることも多く、妹の再婚についてまず相談したのも柿谷さんだった。
今では、まるで家族のように俺を迎えてくれる。
柿谷酒造は相変わらず小さな蔵元だったが、加寿宮との取引が始まって、少しずつだが生産数が伸びてきた。
一時期は、日本酒離れのあおりを食らって人を雇い入れる体力すらなくなっていたようだが、現時点までで3人の雇い入れを行えるようになった。
売上数でいうと、他の大規模な酒造会社を扱う先輩達とは雲泥の差だったが、俺は柿谷酒造の酒を地元以外に紹介できたことが嬉しかったし、何より社長に初めて褒められたことが嬉しかった。
だから今年、柿谷酒造が30年ぶりの新作として生み出した『薫風』に何としてもスポットライトを当てたかったのだ。
『薫風』は、発泡性の日本酒だった。
主力商品の『薫流』と比べると、ずっと軽い口当たりで、まるでシャンパンのような甘くてもすっきりとした飲み口に仕上がっている一本だった。
薫風ができあがるまで、柿谷酒造の中でも、かなり悩んだり揉めたりした。
まだ若い蔵元ならともかく、古くからの伝統的な手法を守る蔵元で、現代向けの(特に女性をターゲットとした)テイストの酒を製造すること自体、かなり危険なことだった。それは邪道だと、常連客や同業の酒蔵から批判が出る可能性が多いにあったからだ。
だが俺は、どっしりした甘口の『薫流』を作る柿谷だからこそ作れる発泡性の日本酒があるはずだと、柿谷さんの後押しをした。
だからこそ、柿谷さんが承知の上で抱えたリスクを、ちょっとでも少なくしたいと思ったんだ。
年末商戦に薫風がうまいことのって、消費者の評価が高まれば、この思い切ったチャレンジが間違っていなかったとの証明になる。
だから、売り方も気をつけて、丁寧に売って行きたい ── そういう思いで書いた企画書だった。
その企画書が通ったんだから、やっぱりこれは直接顔を見て、報告したいじゃないか。
機嫌を直したとは言っても、ずっとぼやいている川島を助手席に従えて、俺は柿谷酒造までの道を急いだ。
<side-CHIHARU>
今日は帰れそうにないとシノさんから連絡があったのは、夕方のことだった。
僕は文芸誌の取材中だったが、はっきりいってそこからはすっかりテンションが下がってしまって、終わった後、岡崎さんにダメ出しをされる羽目になった。
公私混同はやめなさいとか、いろいろ、ブツブツと。
確かに、今までそこら辺の一般常識が僕は今ひとつ欠けているから、岡崎さんの言うことはもっともなんだけど。
これまで公私混同でもうまくやってきていたのに、今になってそれがうまくいかなくなっているということだ。
これからは公私混同しないように、気をつけなくちゃ・・・ 。── しかし、こういうのって、澤清順のキャラとしてOKなんですかね、岡崎さん。
僕はそんな疑問を岡崎さんに返すことなく、帰宅した。
で、当然一人分の食事は作る気がまったく失せて、外に出ることにした。
六本木にあるVIPルームで食事ができるクラブ『ラ・トラヴィアータ』に僕が姿を現すと、いつもの連中が「わぁ」と歓声を上げつつ寄ってきた。
「澤くんが来るなんて、久しぶりじゃない?」
黒髪のロンゲを無造作に縛ったスタイルのファッションモデル黒柳ケンが、異様にまでに白い歯を輝かせながらそう言って、馴れ馴れしく僕の肩に手を回してくる。
周囲でキャァと歓声が上がった。
最近は、ホモ好きの女の子がそこら中にいるから、僕がちょっとお面相のよい男と接近すると、この手の歓声が上がる。そう言えば、この間シノさんを少し抱き寄せただけで、真美チャンや由紀チャンがこの手の歓声、上げてたな。
僕はその歓声を完全に無視して、さっさとVIPルームに向かった。
こっちは腹が減ってるんだ。
腹が減ってイライラしてるんだ。
このクラブは3階吹き抜けの構造になっていて、内装はパリのオペラ座を意識して作られている。
店のオーナーがパリ・オペラ座のファンで、特に演目『椿姫』好きが高じて造ったクラブだ。
オペラ座でいう一般観客席にあたる部分にダンスフロアがあり、入って左手にDJブースコーナー、正面に小さなステージがある。イベント時にはここでライブが行われたり、夜通しトランスパーティーが行われたりもする。
入口の左手壁際にはロングカウンターのショットバースペース。右手にはテーブル席。テーブル席に向かう途中に、2階に上がる螺旋階段があり、上がり口には厳つい顔をしたセキュリティーの男が立っている。
2階すべてがVIPルームとなっていて、ルームというよりはVIPゾーンと言った方がイメージに近い。オペラ座のようにバルコニーが迫り出た造りのボックス席が合計6つ、1階フロアを見下ろす形になっている。
このVIPルームは下からよく見えるようになっているので、有名人がVIPルームに来ることによってそれが客寄せパンダのようになっていて、早い時間からでも客であふれていた。VIPの中でも、花村みたいな騒がれたい芸能人なんかには、この外から見えるVIPルームの造りがウケているようで、VIPルーム利用率も高い。
店も上客を離したくないためか、VIPルームで本格的なフランス料理を提供するサービスを行っている。
客は、クラブ系の音楽を聴きながらフランス料理を食べるという少々ちぐはぐな状態に陥るが、逆にそれを楽しんでいる若い客達が大勢いた。
彼らは、若くして思いがけず大金を掴んでしまったような成金タイプの連中が多く、皆どんな風に金を使えばいいのかわかっていない人間が多い。店側としては、そういう客はいわゆる『上客』で、待遇を良くしてくれる。
むろん、この僕もそのろくでもない連中の中の一人という訳だ。
3階はいわゆる『天井桟敷』だ。本来なら劇場中一番安い席ということになっているが、ここでは正反対の意味になる。
このクラブでの3階席はクローズしているVIPゾーンにあたり、1階フロアからは誰が3階にいるか見えない。したがって、姿を晒したくないと思う者達が集まってくる。ここは、常連客の利用が多かった。僕も大概ここを利用している。
僕がセキュリティーをスルーして、まっすぐ3階を目指すと、下で絡んできた奴らのほとんどがついてきた。
いろいろ後ろで話していたが、それも完全に無視して、僕は店員に注文をした。
牛ほほ肉の赤ワイン煮込みとバゲット、ロケットのサラダに子羊のロティ、蟹のキッシュ、季節野菜のテリーヌ、そして赤ワインを一本。
その注文の仕方に、テーブル席傍らのソファーに座った黒柳達が目を見張った。
今日は悠長にコース料理を食べる気分じゃないんだ。
いきなりガツガツと食べたい気分なんだ。
ああ、僕は何かしらのストレスを感じると、ドカ食いする傾向がある。
ということは、今僕は、何かしらのストレスを感じているということだ。
僕のイライラは、すぐに外に伝わる。
皆、不機嫌な僕に警戒してか、愚かにも僕のテーブルの向かいに座ってくるバカはいなかった。
頼んだ食事が来ると、僕は無言で猛然と食べ始める。
味はうまかったが、やはり何かが足りない。
僕は、ほほ肉のソースを乱暴につけたバケットを口に放り込みながら、空席のはずの向かいの席をぼんやり眺めた。
本当なら、この目線の先に八重歯が見えてたはずだ。
シノさんは、よく食べる。
僕も普段からよく食べる方だが、シノさんと一緒に食べると妙にすぐ満腹感が来て、人並みの食事の量で終わる。
シノさんの食いっぷりに当てられるのかな。
ふと食べる手が止まる。
── 改めて思うけど、一人の食事って、つまんないんだな。
幼い頃は、全然平気だったのに。
今更そんなこと思っている自分がおかしくて、僕は思わずフンと鼻で笑った。
周囲の人間は、それで僕が空腹から来る不機嫌から解放されたと思ったらしい。
黒柳が声をかけてくる。
「ここのところ夜の街で澤くんの姿を見かけないって噂が立ってたから、てっきり花村ちゃんに拉致監禁されてるんじゃないのって、話になってたぜ」
そんな話をさも面白い話のように話す。周りの奴らも「ウケるー」って言いながら笑っている。
僕は黒柳を一瞥した。
「そんな訳ないでしょ」
僕がそう言い放つと、「そうだよね。そんなことある訳ないよね」と、オーバーに表情をつくって返してきた。
── ダメだ。今日は、どいつもこいつもバカに見える。
僕が溜め息を吐くと、一定の距離離れて僕の様子を見ていた女の子達が、僕と同じようにほぅと息を吐いた。
女性とは本当に不思議なもので、例え僕が彼女達に一切興味がないとしても、熱い目線を僕に送ってくる。
男はもっと単純だから、相手が自分の落とせない守備範囲外だと分かると、途端に頭を切り替えて別の獲物を探すものなのだが。
「花村ちゃんが犯人じゃないとすると、誰が澤くんをこの週末独占してたわけ?」
今売れに売れている若手アーティストの小岩井ミワが黒柳の肩に身を乗り出しながら、口を尖らせた。
彼女は売れっ子アーティストとは言っても事務所の力で売れているだけで、さほど歌はうまくない。ダンスが少々上手なぐらいだ。
「そう言えば、オレ、別の噂聞いた」
黒柳の後ろでソファーの背に凭れかかっている男が手を挙げる。 ── ええと、こいつ、誰だっけ。名前、忘れた。
「先週の金曜日、あか抜けない男と『N.Y』で飲んでたのを見かけたって」
N.Yとは、確かにシノさんの合コンテストをした後に寄った店だ。
「え~、ホントぉ~?」
「マジかよ」
「何でも、ダサイ吊るしのスーツに、ボサボサで真っ黒い髪の毛した男だったらしいぜ」
「なにそれぇ、ただのサラリーマンじゃん」
「そんな訳ないだろ、さすがに。見間違えじゃないのか、それ。なぁ、澤くん」
最後に黒柳にそう訊かれたが、僕は何も答えず、無造作にキッシュを口に突っ込んだ。
僕が再び負のオーラを出し始めたのを察したのか、黒柳は口を噤んで、居心地悪そうにタバコを銜えた。
ああ。
なんて、くだらない世界。
これがシノさんに出会うまで、僕がどっぷりと浸かっていた世界。
── 騒がしい店の方が気が晴れると思ったんだけどな。
そう思っていると、懐のi-phoneが鳴った。
この着信音、シノさんからだ。
僕は口の中のものをワインで流し込むと、即座に電話をとった。
『 ── もしもし? 篠田です』
わざわざ名のらなくったってわかるよ、シノさん。
「何? 仕事、終わった? 今、どこ?」
『奥塩原』
「え? 奥塩原? 今日泊まりってことですか?」
『そ、そう』
なんでビビり気味の声なんですか? シノさん。
「で? 何で電話してきたんですか?」
僕がそう訊くと、『今日、ドタキャンしちゃったからさ。夕食の約束。大丈夫だったかなって思って』と言ってくる。
何それ。
大丈夫って、どういうことですか?
「大丈夫ですよ、もちろん。シノさんはなんですか? シノさんがいないと、僕はまともに夕食も食べられない男だと思ってるんですか?」
『そ、そんなこと、言ってないだろ? ただ俺は、謝りたくて』
「謝らなくていいです。元々週三日ぐらいって約束だったし、ここのところ互いに根を詰めすぎましたから、丁度いいです。全然、迷惑してませんから」
『それでも、俺は謝りたいんだよ。約束は、昼までに連絡するってことだったし。連絡したのが遅い時間になっちまったからさ、夕食の準備をしてくれてたんじゃないかって、そう思ってさ。・・・・ホント、申し訳ない。次から気をつける』
── 本当にもう・・・この人ってば。
律儀というか、堅物というか。不器用というか。
僕は、ふっと肩の力を抜いた。大きく息を吐く。顔は自然と苦笑いが浮かんでいた。
ホント、敵わないよ、この人には。
「・・・いいんですよ、本当に。 ── 電話がかかってきていた段階で、僕は何もしてなかったんですから。安心してください」
僕の声のトーンが変わったので納得したのか、『そうか、よかった』と言うシノさんの声も幾分明るくなる。
「ところで、どこに泊まってるんです? 奥塩原なら、温泉旅館?」
『まさか。仕事先の酒蔵だよ。いつも泊めてもらってるんだ』
「ふ~ん。じゃ、温泉入りに行った訳じゃないんですね?」
『違うよ』
シノさんが笑う。
電話越しでも特徴のある声だ。少し鼻にかかってる低めの声。
『ここには同僚と仕事で来てるんだ。遊びじゃないよ』
もちろん、遊びじゃないのはわかってますよ。── って、今、同僚って言った?
「二人なんですか?」
『そう。なんで?』
シノさんが訊き返してくる。
僕は正直、何と答えていいかわからなくなって、「てっきり一人だと思ってたから。シノさんこそ、一人の食事じゃなくてよかったですね」と減らず口を叩いた。
シノさんはまた笑って、『確かにそうだ』と言う。
その時シノさんの声の向こうから、『おい、シノ、早く温泉行くぞ! でなけりゃ、閉まる!』という男の声がした。
── なにぃ?
僕の眉がピクリと震える。
「やっぱり、行くんですね。温泉」
『ええと、あの~~~~。 ── 今度、千春も来る? 塩の湯温泉』
「いいです、温泉。いりません」
僕はそう言って、電話を一方的に切った。
こともあろうか、同僚と二人っきりで温泉だと・・・・?
当然二人一緒に入るってことだよな。
これから同僚と、裸の付き合いをするってことなんだよな。
── シノさん、襲われたりとかしないかな。
一瞬でもそんなことを思った僕は、自分自身が本当にバカに思えて、頭を抱えた。
同僚はどうせゲイじゃないんだから、そんなことになる訳ないじゃないか。
ってか、たかがこんなことで動揺してる僕ってなに?!
ホント、今夜この場にいる人間は、僕を含めて、バカばっかりだ。
僕がふと顔を上げると、僕の周囲にいた人間は、一様にぽかんとした顔で、僕を見つめていた。
何だっていうんだ、もう。どいつもこいつも・・・。
僕は落ち着かない気持ちのまま、渡海さんに電話をかけた。
ツーコールで電話がつながる。
『やぁ、電話待ってたよ』
上機嫌な渡海さんの声。
僕はそれとは対照的な声で、渡海さんに言った。
「ペニンシュラ、今から部屋を取ります。来れますよね?」
『もちろん。仕事なんかほっぽり出して参りますよ、王子様』
僕は渡海さんの返事を聞いて、電話を切った。
グラスに残ったワインは、鉄サビの味がした。
<side-SHINO>
俺は、きょとんとして携帯をマジマジと見た。
「いきなり切られた・・・」
あまりの勢いだったので、ちょっと笑ってしまった。
そんなに黙って温泉入ろうとしてたのが気に入らなかったのか???
「さすがドS王子・・・」
俺が小さく呟くと、「ドS・・・何だって?」と川島が背中越しに顔を覗かせてきた。
「い、いや。こっちの話」
携帯を腰のポケットにしまって川島を見ると、川島は目を細めて俺を見ていた。
何、そのへんな視線。
「お前も隅に置けないな」
川島が変な声色で言う。まるで悪代官さながらに。
「何のことだよ」
「女だろ、女。女に電話してたんだろ。お前、いつの間に彼女作ってた訳? 俺に内緒で」
俺はお前に言ったよね、というような口ぶりだった。
「バカ、違うって。女なんかじゃねぇよ」
「あ、顔が赤くなった」
「お前がバカなこと言うからだろ? ホントに違うって」
俺は、柿谷さんから借りた入浴セットを手提げカバンに突っ込んだ。
「怪しいなぁ。さっきの会話、完全に女に対する“言い訳電話”に聞こえたけどなぁ。俺だってさっき、美樹ちゃんにそんな電話してきたばっかだよ」
「だからぁ、違うって言ってるだろ、しつこいなぁ。相手は男だよ、男。隣に住んでる人。最近仲良くなったんだ。ほら、行くぞ! 早く行かないと閉まるって言ったの、お前だからな」
俺は川島を追い立てた。
川島は、「チハルって誰だよ~。完全女の名前じゃんか、それ~」と食い下がっていたが、俺は無視を決め込むことにした。
だってどう逆立ちしても千春は男だし、俺は嘘をついていないんだから。
しかしそれにしても。
千春って、こんなにも感情の起伏が激しいだなんて想像もしてなかった。
雑誌のインタビューに答えている彼は、とてもクールで二十歳代とは思えないほど超然とした雰囲気だったが、実際の千春は意外に表情豊かで、年相応に見えることが最近多くなってきた。
まぁ最近といっても、知り合ってまだ一週間程度だけどさ。
でも俺が思うに、千春は随分世間から誤解を受けてるんじゃないかと思う。
冷静で思慮深く、達観した目線で世の中を見ている。
確かにそれは千春の性格ではあったが、別のもっと彼らしい部分が殺されているような気がしてならなかった。
他の人と話している時は、雑誌の中の澤清順と同じ。
でも俺と話す時は、全然別の、成澤千春。
なんでだろう。
どうしてそんなことをする必要があるのかな?
俺なんて単純だから、人によっていろいろ性格を使い分けて話すなんてこと、とてもじゃないができない。
千春先生。
俺にとっては、先生自体が謎だらけで、難しいです・・・。
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