嵐の前のひと騒ぎ。

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 篠塚課長も田中先輩も居ない金曜日の定時後に、仕事をしている人間なんて当然居るわけもなく、残っているのは私ひとり。  仕事もなんとか無事に片付き、作り上げた最後の書類を保存していた六時五分過ぎ、軽い足取りで佳恵がやってきた。 「お待たせ……って、なにあんた? まだ仕事してたの?」 「うん。大丈夫。ちょうど終わった」 「大丈夫って、他に誰も残ってないじゃない? あんた、明日から旅行だっていうのにまったく。もしかして、またあの子達に仕事押し付けられたの? しょうがないわね、はっきり言ってやればいいのに」  私が不甲斐ないと、佳恵の目がつり上がっていく。 「今日は課長も田中先輩も居なかったから仕方ないよ。それに、言ったからってどうにかなるもんでもないしさ。大丈夫、この程度のこと、前の仕事に比べたら、どうってことないから」 「まったく、あんたはほんとに……」  こうして呆れられため息をつかれるのも毎度のことだ。 「お人よしって言いたいんでしょう? でも、それは違うよ。私はただ、面倒な思いするくらいなら自分でやっちゃったほうが早くて楽だからやってるだけだもん」  マシンの電源を落とし、ニヤリと笑ってみせると、佳恵も仕方ないわねと笑い肩を竦める。  デスク周りを片付けオフィス内 を点検し、帰り支度をする私の後ろを一緒に付いて歩き、他人のデスクに残されたゴミを捨てたり戸締りを点検したりと、私を手伝いつつおしゃべりが続く。 「まあ、私だってあんたの言うとおり、言って簡単にどうにかなるとは思ってないわよ。女同士って面倒くさいもの」 「うん。彼女たちにしてみれば、あとから入ってきたんだから自分たちの方が先輩なんだって気持ちもあるだろうし。私が年上ってだけでも付き合いづらいと思ってるのかも知れないしね」 「ウチは年齢性別も勤続年数も関係ない能力主義のはずなんだけどねぇ……」 「でも、彼女たちはそうは思ってないもん。仕方ないよ、人の意識はそう簡単に変わるもんじゃないからさ」 「なんか……珍しいわね? あんたがそんなまともなこと言うの」 「失礼ね。まるでいつもはまともじゃないみたいじゃない?」 「まともなときなんて、あったっけ?」  それはあまりの言い草だと苦笑しながら、ロッカーからバッグを取り出していると、笑っていた佳恵が何かを思い出したのか、あっと声をあげた。 「ねえ、大沢があんたの所に行ったでしょう?」 「ああ、大沢? 来たけど?」 「さっきね、帰り際にあの子の後ろを通ったら、佐々木さんはずるいっすね、関口さんとふたりで飲みっすか? って、不満タラタラで仕事してたのよ。あいつ、またなんかやったの?」 「やったっていうか、企画書まとめてくれって持ってきたわ。で、メシ奢りますだってさ。そんなわかりやすい手に乗るわけないのにね」  バッグを肩にかけ振り向くと、腕組みをして顎に手を当てた佳恵が、ニヤニヤしながら品定めをするがごとく私を眺めている。 「なに? なんか付いてる?」 「……ねえ、歩夢。あんた、なんで彼氏作んないの?」 「あのさ、私、そういうの興味無いっていつも言ってるでしょ? 忘れた?」 「勿体無いわよね。あんたって、ぱっと見地味だけど、よく見るときれいだし背が高くてスタイルもまあまあ、頭固いけど性格だって悪くないのに……」 「なによそれ? 微妙に褒めてないよね?」 「大沢だけじゃないよ? あんたを紹介してくれって私に言ってくる男、結構いるんだけど、あんたが機嫌悪くするから紹介もできなくて止めてるんだよね。いい加減、考えたらどう? ホント、男の一人もいればその固い頭もどうにか……」 「佳恵っ!」  拳を振り上げると同時に、チンと音が鳴りエレベーターが到着した。スーッと開いたドアのその奥には、先客がひとり。  とっさに居住まいを正した佳恵が、なにごとも無かったように先に乗り込み、すました声を出す。私も拳をサッと下ろしてあとに続き、ドアのすぐ脇に立ち空気を装った。 「おつかれさまです」 「おつかれさま。いま帰り?」 「小林さん、どうしたんですか? スーツなんて珍しいですね?」  無遠慮にジロジロと見ている佳恵の後ろから、私もこっそりとその人を眺めた。  背が高い。きっと百八十センチは超えているだろう。チャコールグレーの細身のスーツがよく似合う、きれいな顔立ち。銀縁眼鏡のその奥に光る切れ長の目は、少し神経質そうな印象を受ける。  SKTはこのビルの七、八、九階の三フロアと地下に入っていて、七階が総務部とミーティングルーム、会議室、八階は開発部と営業部のフロア。九階は上がったことが無いので知らないが、幹部のオフィスとお偉いさん用の応接室になっているらしい。  誰だろうこの人。上から下りてきたし、佳恵が知っているなら、営業か開発、はたまた上層の偉い人というところか。 「来客だったんだよ。司がスーツだって言うから、仕方なくね」 「こんな時間にですか?」 「いや、客はもうとっくに帰ったんだけど、司のおかげで仕事が終わらなくてさ。一旦家に戻って着替えたらまた仕事だよ。佳恵は? いま帰り?」  私の存在に気づいたその人が、こちらに目を向ける。  その目が訝しげに細められていることに気づいた佳恵が、口を開いた。 「友人です。総務課の関口歩夢」  上から下まで舐めるように私を見る鋭い目つきに、緊張が走る。 「そう。関口歩夢、さん? ……おつかれさま」  口角をわずかに上げるだけの、薄い、笑みともつかない笑みだが、それでも渋く見応えがある。  日頃、男といえば、チャラチャラした若造と、ポッチャリとかわいいおじさんばかりを目にしている私には新鮮な眺めなのだが、こうも射るように見つめられては居心地が悪い。 「おつかれさまです」  佳恵の知り合いで社長を司と呼び捨てるこの人は、やはり雲の上の偉い人なのだろう。絶対に粗相があってはならない。  その眼光に緊張を覚えつつも、精一杯きれいな笑みを張り付けて、丁寧に挨拶をした。 :: 「ねえ、佳恵。あの小林って人、何者? あんたを名前呼びしてた……」  小林と呼ばれるその男の、遠く離れていく背中を振り返る。もう大丈夫聞こえないだろう距離を確認しつつも、佳恵の耳元に口を寄せ、小声で訊ねた。 「えっ? あんた、知らないの? あの人はウチの社長の……司叔父の学生時代からの親友で、司叔父と一緒にこの会社を立ち上げたウチの頭脳、開発部の小林統括部長だよ?」 「へえ……あの人が、噂の? 初めて会ったわ」 「初めてってあんた……、まあそっか、あの人もあまり表立つのは好きじゃないみたいで、九階からほとんど降りてこないもんね。知らなくても無理はないか」 「うん……」  デキるキレるシブいカッコイイと、小林統括部長を賞賛する総務部女子社員の声を耳にすることは、これまで度々あった。  だが、その言葉の最後には必ず、どんなに見た目が良くても、あの氷のような目で睨まれるのは怖ろしい、絶対に近寄れないと、締めくくられる。  あの小林統括部長という人は、イケメンをゲットするためならたとえ火の中水の中、どんな努力も惜しまない女子たちですら、怖れ敬遠するほどの人物らしい。  初めて目の当たりにしたあの鋭い眼差しを思い出し、なるほどと身震いすると同時に、なぜか心がざわざわした。
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