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とり二郎は、うまい、煙くない、臭くない、女子に絶大な人気を誇る、お洒落なやきとり屋。
一般的なやきとり屋とは違いオヤジ臭が無いのはいいが、女子のグループとカップルでほぼ埋め尽くされたこの店は、逆にひとりでは入り難い。退社後にまで会社の人間関係を引きずるのは主義に反するし、田中先輩の策略に嵌るのも少々悔しいが、食は私の唯一の生き甲斐であり、弱点でもある。
とり二郎の誘惑には勝てぬ。
途中ちょっと寄り道をし、遅れて案内された予約席には、すでに全員勢ぞろいし飲み始めていたが、なぜか面倒なふたりが混ざっていた。
なんだよ。女子会じゃなかったのか。
「あー、関口さん! 遅いっ! こっち空いてるよ、ここ座って!」
嫌味な江崎だけならまだいいが、わざとらしく椅子に置いていたカバンを退けて、私を隣に座らせたがる大沢が居る。
なぜ営業が総務課の宴会に居るのかと、文句が喉元まで出かかったが、同じく営業の佳恵まで誘っていたわけだから、それを口にする意味は無い。いや、最初からの企みはそれか。
「楓さん、悪いんだけど、席、替わってくれませんか?」
「えっ? いいの? やった!」
私のひと言にわかりやすくうなだれている大沢を尻目に、満面の笑みを浮かべそそくさと席を移動する楓は、大沢に絶賛片思い中。おかげで田中先輩の隣、壁際の居心地良い席を陣取れた。
片思い万歳。
「関口さん、なに飲みます? ビールでいいっすか?」
メニューを開き、懲りもせず身を乗りだして飲み物を勧めてくる大沢を一瞥し、烏龍茶と告げる。私はやきとりを食べに来たのであって、飲みに来たわけではない。
「なんだ? 関口! 烏龍茶かよ? 相変わらず空気読めない奴だな」
「烏龍茶、いけませんか? やきとりには最適だと思いますけど?」
江崎をジロリと睨むと、大沢の横槍が入る。
「まあまあ、江崎さん。関口さんはお酒弱いんで。無理に飲ませなくてもいいんじゃないっすか?」
「なんだよ大沢? 酒が飲めないのが偉いのか? ふんっ! こいつにいつかしこたま飲ませて潰してやる……」
残念ながら、おまえと酒を飲む機会なんぞ、一生無いと思う。
「江崎ぃ! おまえ、いい加減にしろよぉ!」
美香さん、カシスサワー一杯目で、すでに酔っています。
「大沢さんの大好きなネギマだよ! 楓が食べさせてあげる。はい、あーんして?」
「エリカ焼酎お代わりーっ!」
「大沢、おまえ、ちょっと顔が良いからっていい気になるなよ……」
「べつに良い気になんて、なってないっすよ……」
「黙れショーワ! おまえなんかお呼びでない」
「そうだ! そのとーーりっ!」
呑兵衛の狂宴と化した彼らの騒ぎをよそに、次々と運ばれてくる熱々のやきとりを頬張る至福のひととき。
ああ、幸せ。生きていてよかった。この幸せのためなら、他のことにはすべて、耳に栓をし目を瞑るのもやぶさかではない。
やきとりはやはり塩だな、次は手羽先にしようと、ひとりニヤニヤしながらボンジリとモモの串を両手に持ち、交互に頬張っていると、隣の田中先輩がそろそろ先に逃げようと耳打ちしてきた。
それは、正しい選択。明日が出社だろうが休みだろうが、彼らはとことん飲み食い歌う。勝手に盛り上がっているこの機に乗じて逃げ出さなければ、帰るタイミングを逸し、地獄の朝までコースに巻き込まれてしまうのだ。
私たちふたりは、無言で頷くとバッグを持ち、トイレに立つ振りをしてレジへ。ここまでのお会計を済ませ、こっそりと店の外へ出た。
あとは、野となれ山となれ。
「ありがとうございます。助かりました」
田中先輩が声をかけてくれなければ、私ひとりで途中退避はできなかった。
「いいのよ。あの子たちに付き合うと朝まででしょう? この歳になるとさすがにもうそんな体力は無いもの」
「いえ、そんな……。でもまあ、明日も仕事ですしね」
「そうなのよ。それはそうと……関口さん、まだちょっと早いから、よかったらお茶に付き合ってくれない? そんなに時間はとらせないわ。ちょっと話したいこともあるの……仕事の話で悪いんだけど」
勤務時間外にふたりきりで話さなければいけない仕事の話とは、いったいなんだろう。あまり、いい話ではなさそうだ。
::
私たちは、とり二郎から少し離れた駅前にある、チェーンのカフェで向かい合った。
「時間もアレだから手短に話すわね。早速だけど、関口さんはいまの仕事に不満は無い?」
「いまの……ですか? いえ、べつに不満なんて……」
「そう? ならいいんだけど。じつはいまね、開発部のほうで人を探してるって話があるのよ。関口さんは理系出身だし、以前お勤めしてた会社もうち同様システム開発でしょう? だからそちらの仕事のほうが合うのかな? って。もちろん、興味があればの話だけど……」
「そちらの仕事って、プログラマーですか? そうだとしたら、私なんてとてもじゃないですがお役に立てません」
大げさにブンブンと手と首を左右に振り、そんなこととんでもないと完全否定してみせた。
「そうなの? でも以前の……」
「理系出身っていっても、なんとなく入って後悔しただけで、そっち方面はからっきしダメなんです。だから、以前の会社でもお茶汲みとかコピー取りとかの完全な雑用係でしたし、全くの未経験ですから、プログラマーなんて恐れ多い仕事、私にはできません」
田中先輩は、そうだったの、と、ため息をついた。
「残念ね。向こうに行けばお給料もいまより良くなるし、関口さんには良いお話かなって思ったんだけど……。そうなんだ……」
「そんな、残念そうにしないでください。私、いまの総務のお仕事好きですから」
「本当に? そう言ってくれると嬉しいけど……」
そういう彼女の目は、私の本音を探っている。
「本当ですよ! 人間関係も良くて、みなさんとっても良くしてくださるし、居心地が良いから他へ移りたいなんて、思ったこともありません」
本当ですと念を押すように、満面の笑みで頷いては見せたが、訝しげに苦笑する彼女の顔には、『そんなわけないでしょう?』と書いてある。社交辞令はお見通しか。
「わかったわ。じゃあ、この話は聞かなかったことにしてね。それと、他言無用でお願いします」
異動話なんて、はじめてのこと。
今回はたぶんもう大丈夫だろうが、理由は何であれ私を名指してこんな話をされるということは、いまの仕事も安住の地ではないのかも知れない。
「もしかして、邪魔にされてるのかな?」
総務のあのメンツのうちの誰かが何かを言ったのだろうか。それはきっと無きにしも非ず。課内の人間関係に馴染んだとはいえない自覚も、無いわけではない。もしそうであれば、さすがの田中先輩でも、私の扱いに多少は困っているのかも。
「あり得る……」
だからといって、開発なんていつでもどこでもデスマーチ。絶対に嫌だ。ほとんど残業無し定時退社のいまの仕事を捨てて、あんな苦行に戻りたいとは、微塵も思わない。
もし、万が一、有無を言わさず正式な異動命令が出たら、その時はその時。たとえ会社を辞めても、せいぜいまた佳恵に説教を喰らうだけで、特に困るわけでもなし。
あの説教は、できれば避けたいが。
いや、もしものことなんぞ、考えるだけで時間の無駄。それこそ、くだらない時間の使い方だ。
「月が、きれいだ」
夜空にぽっかりと浮かぶ白い月を眺め、うっかり呟いた感傷的な言葉にクスクスと自嘲しながらのんびり歩く。
とり二郎のやきとりは、何度食べてもうまい。
今日のところは、これで良しとしよう。
会社から自宅までは、徒歩十分強。駅近くのカフェへ行ってしまったので、二十分弱の散歩というところか。
ぼんやりと歩みを進め、マンションの入り口に近づくと、薄暗い街灯の下に、壁を背にしてトランクらしき大きな荷物に腰をかけている、まるで誰かを待ってでもいるような人影が。
「えっ? 玲子?」
「あーゆーむぅー!」
私の名を叫びながらこちらに向かって走り出したそれは、勢いを崩さぬまま体当たりしてくる。
危ない。いくら玲子が私よりずっと小さくとも、その全体重と衝撃を受け止められるほどの体力が、あるわけがない。危うく尻餅をつきそうになりながらもなんとか踏ん張り、その衝撃を受け止めた。
「あゆむぅ! もうやあだあ! あたし、今度こそ隼人と別れるぅ」
抱きついて泣き叫んでいるこの女の名は、安藤玲子。離婚するする詐欺常習犯だ。
「ちょっと玲子! 近所迷惑でしょ? こんな所で泣かないで、良い子だから家に入ろう?」
やれやれ、またしても厄介ごとが飛び込んできた。
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