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美咲編
「ただいま。今日ね、学校で後ろの席の子と仲良くなったよ」
私はこの春、高校生になった。学校は家からも近かったが、ある事情があってアパートで一人暮らしをしている。
一人暮らの私が喋っている相手は誰かというと、それは鏡だ。私は鏡に向かって会話をしていた。これは決して寂しさを紛らわすためではない。これには、ちゃんとした理由がある。
『ピンポーン』
私は鏡の前で今日の出来事を話しているとき、部屋の呼び鈴が鳴った。私は喋るのを止め、部屋の時計を見た。もうかれこれ二十分近くも鏡の前で会話をしていた。
私はすぐさま立ち上がり、インターホンを出た。カメラが付いているインターホンに映し出されたのは、妹のヒナちゃんと麻衣子さんだった。
私は先ほど会話していた鏡台の鏡に布をかぶせた。そして急いで玄関を開け、二人を部屋に招き入れた。
「お姉ちゃん見て、ランドセル」
ヒナちゃんは真新しい真紅のランドセルを背負っていた。そして背を向けて、それを私に見せてくれた。
「ランドセル持って行っちゃダメって言ったんだけど」
麻衣子さんは苦笑いしながら、そう言った。しかし優しい眼差しでヒナちゃんを見ていた。
「ごめんさい。今日学校から帰ってくるの遅くなっちゃって。すぐ着替えます」
私は麻衣子さんに伝えた。
「ヒナちゃん、ランドセル似合ってるね」
私はそう言うと、ヒナちゃんは恥ずかしそうに照れていた。そして私は学校の制服を脱いで着替えた。
これから私たち三人で買い物に行く。そして買い物が済んだあとで父と合流して一緒に食事する予定になっていた。
麻衣子さんの運転で、後部座席に私とヒナちゃん。ヒナちゃんは大事そうにランドセルを抱いていた。私は高校生でヒナちゃんは小学生になったばかりで、お互いに新しい学校生活の話をした。ヒナちゃんは友だちのことを楽しそうに話していた。
「ねぇ美咲ちゃん、入学のお祝いに何か欲しいものない?」
買い物に来た麻衣子さんは私に訊いた。ちなみに先ほどヒナちゃんは、入学のお祝いにクマのぬいぐるみを買ってもらっていた。ランドセルは車に置いて、今度はランドセルより一回り大きいなぬいぐるみを大事そうに抱えていた。
「私はいいですよ。今、欲しいものありませんし」
麻衣子さんの問いに私はそう答えた。
「遠慮しなくてもいいのよ」
「遠慮とかじゃなくて、本当に欲しいもの思い浮かばなくて」
「だったら私が選んでもいいかな?」
麻衣子さんはそう言うと、私をある売り場に連れて行った。そこは化粧品売り場だった。
「えー、化粧品なんて私にはまだ早いですよ」
そう言って、私は麻衣子さんを引き留めた。
私は高校生になったけど、周りの友達よりずっと幼い外見をしていた。それは自分でも自覚している。中学生のとき友達には化粧する子もいたけど、私にはまだ化粧は似合わないと自分では思っていた。
「早くないわよ。もうそろそろ化粧品の一つや二つ持っていてもおかしくない年頃よ。それに素敵な鏡台を持っているのに、化粧品を持ってないなんて宝の持ち腐れよ」
そういえばさっき部屋で、麻衣子さんは鏡台のほうをちらりと見ていた。台の上に何もないことを確認したのだろう。
麻衣子さんは強引に化粧品を薦めてくれた。そして淡い口紅と深い赤のマニキュアを買ってくれた。初めての化粧品が一流ブランドで嬉しいような照れ臭いような気持になった。
「今度、化粧の仕方、教えてあげるね」
麻衣子さんはそう言って商品の入った紙袋を渡してくれた。
買い物を終えたあと、父と合流し食事をした。
「二人とも入学おめでとう」と父が言い、私たち四人は軽く乾杯をした。食事はイタリアンでパスタやピザをみんなで食べた。
食事が進み、お互いにいろんな会話をしていたとき、麻衣子さんがある話題を振った。
「ねぇ美咲ちゃん、やっぱりみんなで一緒に住まない?」
麻衣子さんは申し訳なさそうな顔をして私に訊ねてきた。
実は、父と麻衣子さんは再婚だ。
私の母は、私が4歳のときに亡くなった。突然死だった。元々身体の弱い人であったみたいだが、亡くなったのは本当に突然だった。朝、目を覚ますことなく亡くなったのだ。死因も不明だ。
麻衣子さんのほうは、未婚のシングルマザー。ヒナちゃんは麻衣子さんの子供。どうして未婚だったのかは、そんな深い話までは私は知らないし、訊けもしない。
父が私に麻衣子さんを紹介したのは、私が中学二年になったばかりの頃だった。私は全然反対ではなかったし、嫌でもなかった。麻衣子さんとは気が合うし、ヒナちゃんも私に懐いてくれて可愛かった。
そして父と麻衣子さんは、私の高校、ヒナちゃんの小学校の入学を機に入籍をした。しかし私は家を出た。父と麻衣子さんのお邪魔になるのも気が引けたし、また他にも理由があった。
「私、美咲ちゃんのこと邪魔だって思ったことは一度もないのよ」
麻衣子さんが少し悲しそうな顔で私に言った。
「ヒナもお姉ちゃんと一緒に住みたい」
ヒナちゃんまでにそう言われると、私も切ない気持ちになる。
「ごめんなさい。私一人暮らしがしてみたいんです」
私の言葉を聞いて父が呆れるようにため息を吐いた。「もう放っておけ。美咲は一度言い出したら聞かないから」
このあとの食事会は、重たい空気に包まれた。麻衣子さんが頑張って違う話題にしようとしていることが、胸に棘が刺さったみたいで痛かった。
「ただいま」
アパートまで送ってもらい、部屋に戻ってきた私は、鏡台の掛けていた布を上げ鏡に向かって言った。
「おかえり」
鏡の中に映っている母が返事した。
もちろん鏡の中の母は、私の母親ではない。母のお化けでもない。この鏡に映っているのは、つくも神という神様らしいのだ。そのつくも神が母親の顔をして私に返事してくれたのだ。
つくも神というのは、百年使い続けた道具に宿る神様らしい。以前つくも神自身が説明をしてくれた。
この鏡台は明治時代に作られたもの。鏡台は椅子のない座式。小さな台の上に鏡が乗っていて、台には三つ抽斗が付いている。木には漆が塗られていて深くて濃い木目の色彩が浮かび上がっている。それを眺めていると、私はいつも自分の意識が吸い込まれるような不思議な感覚に陥る。
この鏡台は祖母が友人から譲ってもらった品だそうだ。なんでも歌舞伎役者が腕のいい職人に作られた品だという。
祖母が気に入って譲ってもらったものだけど、それより気に入ったのが亡くなった母だった。母は思春期に入ると、この鏡台を自分の部屋に持っていき使ったそうだ。そして今ではこの鏡台は私の物になり、母の形見でもある大切な品だ。
「お母さん、今日ね、麻衣子さんにこれ買ってもらった」
私は口紅とマニキュアを母の姿をしているつくも神に見せた。
「良かったね」と、つくも神は言った。
しかし、鏡の中の母の表情は変わらない。つくも神は感情というのがない。麻衣子さんがヒナちゃんに向ける優しい微笑みが私も欲しかったが、でも母の姿が見れるだけでも嬉しいので贅沢は言えない。
つくも神が私に姿を見せたのは、母が亡くなってしばらくのことだった。当時幼かったので記憶が定かではないが、母がいなくて寂しかった私は、母親の大切な鏡台を眺めていると突然母の姿でつくも神は現れた。それからしばらくの間は、鏡の中の母を本物の母だと思っていた。
そしてその鏡に映る母の姿は、私にしか見えてない。幼い頃、鏡に向かって「お母さん」と呼ぶ私を心配して、一度父が私を病院に連れて行ったことがある。それ以来、私は人前で鏡に向かって喋るのはいけないことだと子供心に意識した。
私が小学校に入る頃になると、つくも神が母ではないことをつくも神の説明でようやく理解した。理解はしているが、いまだに私は「お母さん」と呼んでいる。
つくも神にとっては姿など何でもいい。ただ鏡に映った中で一番多く映っていたのが母だったので、その姿で私の前に現れたにすぎない。だから私が頼めば父の姿にもなれるし、祖母にもなれる。
つくも神は姿を変えるだけでなく、鏡で映った昔の状況も鏡越しに見せてくれた。まさにホームビデオのように。お母さんに抱っこされた赤ちゃんの私も、私は見せてもらったことがある。
これらの能力は、本来つくも神の能力とは違うらしい。たまたま鏡台に宿ったつくも神だから出来ることのようだ。でも、この能力のおかげで私はお母さんとの思い出を多く憶えていることができた。
実は一人暮らしの理由もここにある。
あれは我が家に初めて麻衣子さんとヒナちゃんが遊びに来たときだ。一年以上前の話だ。
家に来たのは初めてだったが、外では何回も会っていた。その日も楽しく過ごしていた。
そんなときヒナちゃんが鏡台に触ったのだ。その瞬間、私は「ダメー」と叫んでしまった。ヒナちゃんは一瞬固まり、そしてすぐに大声で泣きだした。麻衣子さんはヒナちゃんに「勝手に何でも触ったらダメでしょ」と言いながらヒナちゃんをあやした。父は「触るぐらいいいだろ」と言って、私を叱った。
私も咄嗟に大きな声で叫んでしまったことに、自分でも驚いた。ヒナちゃんが泣いているのを見て、私も涙が溢れてきた。このとき私は、申し訳ない気持ちだったり、嫌悪だったり、いろんな感情が渦を巻いていた。
たぶんこれは今でも同じかもしれない。誰かがこの鏡台を勝手に触ろうとすると、反射的に大声を上げるかもしれない。それが自分でも嫌だから、私は家を出て一人暮らしをすることにした。
私は今日あった出来事をつくも神に話した。そして一旦つくも神に隠れてもらうことした。なぜなら鏡としてこの鏡台を使いたかったから。私は今日麻衣子さんに買ってもらった化粧品を使ってみた。
口紅とマニキュアを塗って自分を見た。やっぱり私には化粧が似合わない。幼い顔なのに無理をして背伸びしてるようにしか見えない。「変なの」と自分で呟いた。
私はつくの神を再び呼んだ。「どう?」と私は訊いた。化粧した私の顔を見たつくの神は、「変」と一言だけ言った。
やっぱり、こういうところはお母さんじゃない。きっと普通の家庭のお母さんなら、お世辞でも娘に「かわいいわよ」とか言ってくれると思う。私は少しだけ悲しくなった。
「変なのは自分でも分かってるから」
私はつくの神に向かって拗ねた口調で言った。そして続けて「この化粧品、一日前に戻してくれる?」と頼んだ。
「かしこまりました」と、つくの神は返事をした。
実は、これこそがつくも神の本来の能力になる。
次の日の朝、起きた私は鏡台の前に座る。昨日、封を開けたはずの化粧品が買ったときの新品の状態に戻っている。
鏡台の鏡に覆っている布を上げ、つくも神に挨拶をした。
「お母さん、おはよう。これ、ありがとね」
私はそう言いながら、化粧品を持ち上げ鏡のほうに見せた。
「おやすいごようです」と、つくも神は素っ気ない。
つくも神には、物の時間を巻き戻す能力があった。
つくも神の「つくも」は、「次(つぐ)百(もも)」が訛って言うようになったとか。そしてこのことから「九十九」と漢字で書いて、それを「つくも」と言う。
百年使い続けた道具につくも神が宿り、つくも神の能力によりその道具は一年前の状態に戻してくれる。だからこの鏡台は九十九歳と百歳の間を行ったり来たりしているということになるみたいだ。
実際、私が母から譲り受けてからこの鏡台の外形は変わっていない。もちろん今では大切に使っているが、でも幼い時はひょっとしたら雑に扱っていたかもしれないのに。
そして時間を巻き戻す能力は、鏡台の持ち主である私にも使わせてもらえる。ただ、生涯で最大365日分つまり一年間分だけ、つくも神にお願いすれば時間を巻き戻してもらうことができるのだ。
つまり、この化粧品は365日の一日分を使って、一日前の買ったときの状態に戻したのだ。
このことを知ったのは私が小学校に入る前のことだ。大切な人形を持って公園に遊びに行ったとき、私は砂場遊びに夢中になり人形をすぐそばに置いた。そして、ふっと人形を持とうとしたら、辺りに人形がなかった。公園の周囲を見渡すと、一匹の野良犬が人形を咥えていた。私は怖くて動けなかった。しかし運良く野良犬は人形を離しどっかに去った。人形を急いで取りに行くと、もうぼろぼろの状態だった。私は泣きながら家に帰り、家には誰もいなかったのでつくも神に話しをした。
「私が直してやろうか?」
私は泣き止み、「うん」と言った。そしてその日はその人形を抱いて寝た。次の日の朝には本当に直っていた。
それから私は何回か物の時間を巻き戻してもらった。踏んで壊してしまった筆箱、しょうゆをこぼしたお気に入りの服、などなど。
そして中学に入ったころ、私は何かの会話の流れから生涯で最大365日分しか戻せないことを知った。そしてつくも神に訊いた。「365日分を使い切ったらどうなるの?」っと。
「もう二度と美咲とは会えなくなる。さよならだ」
こういう説明は早く教えてほしかったのに、つくも神はいつもこちらから訊かないと教えてれない。
「あと何日分残っているの?」。私は焦ってつくも神に訊ねた。
「あと残りは284日分」
私は驚いた。まさかこんなにも使っているとは思わなかった。幼い頃の記憶だから定かではないけど、せいぜい20日分ほどぐらいしか使ってないと思っていたからだ。私はこの日からめったやたらに、この能力は使わないようにした。
今回、化粧品に使ったのは、麻衣子さんが化粧の仕方を教えてくれるって言ったのに、自分で勝手に使ったのが申し訳ないのと、やっぱり化粧したかったのね、と麻衣子さんに思われるのが恥ずかしいからだ。たまには一日分ぐらいつくも神の能力を使っても罰は当たるまい。
高校入学から半年が過ぎた。私たち家族は相変わらずだ。私たち女三人はよく会っていたし、夏休みには家族四人で旅行にも行った。
麻衣子さんから買ってもらった化粧品は、まだ新品のまま鏡台の抽斗にしまっていた。麻衣子さんから化粧のことを言われなかったし、私から化粧の仕方を訊くのも恥ずかしかったからだ。私は化粧のことなど大して気にしてなかった。それより気になっていたのは麻衣子さんの体調のことだ。
夏休みの旅行のとき、麻衣子さんの顔色がおもわしくなかった。「大丈夫?」と訊いても、「夏バテしたみたい。でも大したこと無いから」と返ってきただけだった。
でも夏休みも終わり、まだ太陽の厳しい日差しが残った九月のこと。突然、麻衣子さんが入院したという知らせを父から受けた。
私はすぐさま病院に駆けつけた。
「驚かせてごめんなさいね」
病室のベッドで寝ていた麻衣子さんが、私の顔を見るなりそう言った。
麻衣子さんの顔色はさらに悪くなっていた。顔は青白く、血の巡りが悪いのが私ですら見て分かる。それに体もやつれていた。
ベッドの横に立っていた父の表情は強張っていた。無理して明るく見せようとぎこちない笑顔を私に向けた。ヒナちゃんは椅子に座った状態で、上半身だけ麻衣子さんのベッドにうずくまった状態で寝ていた。そして麻衣子さんの指が、ヒナちゃんの髪をまるで櫛で梳くよう撫でていた。
「美咲ちゃん、私、乳がんみたい。でも心配しないで。すぐ命に係わるってほどのもんじゃないの。それに最近は医療の技術も進歩して乳がんも治る可能性が高いの。でもしばらく入院して詳しく検査する必要があるみたい」
顔色は悪かったけど、麻衣子さんの表情は穏やかだった。まるで何の不安もないみたいだった。父の表情のほうが告知された当人のようだった。
「美咲ちゃんにお願いがあるの。私が帰るまでヒナの面倒見てくれる?」
麻衣子さんはヒナちゃんをちらりと見た。そして表情が変わった。自分の体のことより子供のことを心配している表情だった。
「うん、任せて」。私はそう言って唇を噛み締めた。
「良かった。これで安心して治療に専念できるわ」
麻衣子さんはニコリと微笑んだ。そして父のほうを見て「ついでに、そこの人の面倒もお願いね」と言った。
私も父のほうを見ると、やはり表情は強張ったままだ。私はニコリと麻衣子さんに微笑み返して「任せて」と返した。
その日、私はアパートではなく自宅のほうに泊まることにした。しかし一旦アパートに戻って、どうしてもやらなくてはいけないことがあった。
パジャマや歯ブラシ。明日、学校に持っていくものの準備。これらもしなくてはいけなが、それよりももっと大切なこと。一刻も早く済ませてしまいたい大事なことがある。
私は鏡台の前に座り、鏡に覆われている布を持ち上げた。鏡には決意した私の顔が映っていた。そしてすぐ、つくも神を呼んだ。
「ねぇ、あと残り何日分、巻き戻せるの?」
「残り269日分です」
「じゃあ、一日だけ残して、268日分、麻衣子さんの体を巻き戻して」
「かしこまりました」
つくの神の巻き戻す能力は物だけとは限らない。人の体でも有効なのだ。
私は中学生のときは陸上部だった。中学二年のとき選手に選ばれたが、大会三日前に友達と階段でふざけていて足首を捻ったことがある。幸い骨には異常が無かったが全治三週間の捻挫だった。
私は悔しい気持ちや申し訳ない気持ちを、つくも神に話した。毎日練習していたし、リレーの選手だったので他のメンバーに迷惑を掛けてしまったと後悔した。
そしてこのとき、つくも神から言われた。「体を一日前に巻き戻してやろうか?」と。私は巻き戻せるのは物だけだと思っていたので驚いた。もちろんお願いした。そして、一日で回復した足を診て医者は奇跡だと言った。
つくも神から話を聞くと、母も体を巻き戻していたという。
母は流産を二回繰り返し、私を産んだ。私を妊娠中、母は流産しそうになるとお腹の中にいる私を巻き戻した。二回の流産で、流産しそうな体調の変化が分かったからと、母はつくの神に言ったことがあるそうだ。
そして私は産まれた。産まれたときの私は未熟児だった。産まれてからも、私が熱を出したりすると、母はたびたび私の体を巻き戻したそうだ。ひょっとしたら私が幼く見えるのは、このことが関係しているのかもしれない。
しかしこの能力にも限度がある。死んだ者は生き返らないということだ。流産してから巻き戻しても、お腹の中の赤ちゃんは生き返ったりはしない。
そう死んでしまったら手遅れなのだ。麻衣子さんが死んでしまったら巻き戻すこともできない。医者から命に別状はないと言われても、人はいつ死ぬか分からない。母のように。
一日だけ残っていればいい。もう一生この能力に頼れなくてもいい。一日分だけ残っていれば、つくの神と離れることもない。
もう父が悲しむ姿を見たくない。私も悲しみたくない。ヒナちゃんに私のような想いをさせたくない。
私は麻衣子さんの癌が進行する前に戻ってっと願いながら、つくも神に頼んだ。
私は泊まるために必要な物を持って自宅に戻った。そして、ヒナちゃんを寝かしつけたあと、父から麻衣子さんの状態を詳しく聞いた。本当に今のところ命には別状はないそうだ。今後は、がんの大きさや種類を検査し治療法が決まってくるらしい。
父と私はそのあと何にも話すことができなかった。お互いに母のことが頭をよぎっていたからだろう。だけどそれを口にすると、また同じ運命が待っていそうで怖かった。
その晩、私はヒナちゃんと一緒の布団で寝た。どうか麻衣子さんが無事でありますように、と祈りながら目を閉じた。
*****
美咲、お前の願いは叶えてやる。麻衣子の体を268日分巻き戻してやろう。ただし、お前の寿命はこれで365分の1になる。約二か月半だ。そしてお前が死んだあとの魂は私が頂く。
私は神と名乗っているが、実は妖怪。百年使われた道具に住みつく物の怪なのだ。
「つくも」とは「付喪」。
「喪」とは、死者への悲しみ。つまり私には、死者への悲しみが「付いて」まわるのだ。
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