8人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ
先日、幼なじみの連れと一緒に道の駅のトイレの怪を確認しに行ったのだが。
近頃また、こんななことがあったので話したいと思う。
この話を(全てではなく、一部分だけだったが)話して聞かせた俺の数少ない友人の中には、
「それはアンタが単に方向音痴なせいだろう」
と言った奴もいたが、いや、俺は方向感覚だけは案外しっかりしている。
事のおこりは、営業中のこと。
いつも回っている会社においとまを告げていた時だった。
「キクチくん、ちょっと」
物かげからそこの社長がくい、と手招きした。
思えばそれが一連の流れの始まりだったのだろう。
「はい?」
「今から、帰るんだろ? ちょっとばかし、お願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
嫌な予感がしつつ、俺は社長に連れられて玄関前ポーチに案内された。
呼んでおきながら社長、「ちょ、っと待っててくれよ」そう言い残し、姿を消す。
いつもこんな感じ、マイペースな人だ。
特に急いでもいなかったが、直帰なので早く帰りたかった。伸びあがるように彼が消えた方を見やっていたとき、急に、
「いや、すみませんアナタが?」
近寄っていた気配がなかったので、俺はたぶん、軽く飛び上がっただろう。
すぐ後ろに、人品卑しからぬ、小柄な年配の男性が立っていたのだ。
「小泉社長からうかがったんだが……ええとお名前は」
「キクチです」
「ああ、そうそうキクチさん。すみません、実はキクチさんとこの営業所近くに住んでいる者なんだが、良かったら、営業所までで良いので乗せて行って頂けないかと……遠くて悪いんだが」
「はあ……」
男性の笑顔は穏やかで、俺は何となく、つられて笑顔になっていた。
小泉社長は、俺にタクシーの代わりをさせようというわけか。以前にもここの社員を数人、ついでだからと頼まれ、近くの工場まで乗せていったことがあった。
「いいですが、ええと」
横目で社長の姿を探すが、どこかに行ったきりだ。まあ、いつもこんな感じなのだが。
目の前の男性も特に構っていないようで、ぴょこりと姿勢を正し、俺に向かって深々と一礼した。
「アオヤマと申します。よろしくお願いします」
その会社からだと、平坦な道をほぼまっすぐ六〇キロ南下すれば俺のアパートまですぐだった。
しかし、俺の所属する営業所は、アパートの場所とは大きな障害物に隔てられている。
アパートから営業所、距離にして約三十キロ程度なのだが、その間を、広大な台地に遮られているのだ。
雪のみえる北の山地から、南の海岸近くにまで南北に果てしなく伸びる台地に。
そのアオヤマ某氏を送るとなると、まず南下中のどこかで台地を越えて西進し、更に海の近くまで下っていく必要がある。
それからまた、どこかで台地を東向きに横切り、アパートに戻る手間がある。
ふだんの通勤には、家からほど近いバイパスを利用している。トンネルだらけだし、事故や渋滞は多い道路だが、流れが順調ならば三十分足らずで着く。高速道や一般道もいくつもある中、効率よい通勤には、台地をほぼ東西にまっすぐに横切るバイパスがダントツ一位の通路だった。
アオヤマさんは偉そうに後ろの席に乗りこんでくることもなく、横でもいいかい? と助手席を開けた。笑ってみせる顔にも好感がもてた。
「ひとつ、よろしくお願いいたします」
ばかに丁寧にそう言って頭を下げる様子にも嫌味はない。
しばらく走っていて気づいた。というか、それまで気にならなかったこと、それは。
アオヤマさんは、話し上手の前にまず聞き上手で、俺はいつの間にか、彼とは旧知の仲のように会話するまでになっていた。
彼が現在七十歳で、あの会社の取引先であった某会社の役員だったが、つい先日引退したこと。あそこの社長とはそれこそ『トンボを取っていた頃からの悪友』だとのこと。その日はあいさつにあそこに寄っていたこと。
孫が五人いて、一緒に暮らす二人の孫、上の娘が今高一で、ブラバン部のトロンボーンをやっていること。
唯一の趣味は、戦国時代の史跡めぐりだということ。巡った史跡の記録を、家族に教えてもらいながら、ブログに上げていること。
セキセイインコをすでに五年飼っていて、可愛くて仕方ないということ。
俺のこともずいぶん話したような気がする。結構共通項が多かったから。俺も中高と吹奏楽でトロンボーンをやっていたし、セキセイインコは代が替わりながらも二〇年以上飼っていた。戦国時代もほどほどに好きだ。
俺のどんな話にも、彼はうんうん、とうなずいてくれて、時には「それはすごいね!」「たいへんだったねえ」と心から感嘆してくれる。
久しぶりに共通項も多く、相性のよさを感じる人だった。
そして気づけばすでにバイパス経由ですんなりと大地の西側に出て、営業所近辺まで一〇キロ程度の場所に達していた。
そこにふと、アオヤマさんが言った。
「そう言えば、この近くの○○城跡、行ったことあるかい?」
会社からはそれほど遠くない場所なのだが、正直寄ったことはなかった。素直にそう告げると
「時間、大丈夫かい?」急に彼が身を乗り出した。
「キミならきっと、気に入ると思うんだ、少し、寄ってみないか?」
その時、つい「いいですね」と言ってしまった自分の声を、今でも何度か思い出す。
通勤と同じように西進していたバイパスの、いつも降りるよりもふたつ手前のインターチェンジを降りるよう、彼から指示された。雑木林の多い山中だったが、彼はためらいもなく道を告げられ、気づいたらその場所にたどり着いた。
かなり広々とした駐車場には、まだ新しそうなトイレと無人の管理小屋とが併設されており、横にはこじんまりとした池が山に寄り添うように眠っていた。
すでに傾いた日が、水面に白く反射している。
駐車場の入口あたりに、白地に黒々と『倉谷(くらたに)城址公園』とある。
駐車場から見上げる山は、それほど高くはない。しかし、登るとなったらそこそこ体力を使うだろう。そこを
「じゃあ、行ってみようか」
アオヤマさんは、軽々と登り始めた。仕方なく俺も後を追う。
二〇分ほど急な坂、しかしそれなりに整備された山道を登り、ようやく辿りついたのは、広々とした高台の公園と、そこに続く尾根道だった。
そこにある案内板には、室町時代初期に栄えた倉谷城なる城の詳しい由来説明があった。
頂上に近い小さな神社にお参りしてから、俺はアオヤマさんに案内されるまま、少し離れた二の丸跡、本丸跡、空掘跡などを見物して回った。
アオヤマさんは淡々と、しかし澱みなく隅々まで説明してくれる。お詳しいですね、と言うといや、一応地元だしね……と照れくさそうに薄くなった白髪頭を掻いた。
日はまだ赤みを帯びていなかったから、滞在時間は一時間もなかっただろう。
ツバキの赤い花が所どころ色を添える尾根道を歩いていた時。
いやー、本当にいい所ですね、会社から近いのに全然知りませんでした、と正直に俺は言って、礼を述べようとした時
「なら良かった」
アオヤマさんの、妙に静かな声にいっしゅん何か不思議な響きをおぼえ、俺はすぐにふり向くのをためらった。
一拍おいてそっと姿をうかがった時、その横顔は遠く、尾根からはるか下に見える駐車場近辺とその先にかすむ市街地の方を見やっていて、表情までは伺い知れなかった。
せっかくなのでご自宅まで送りますよ、と、俺はアオヤマさんの家まで車を走らせた。
さすが元社長宅。住宅地から少し隔たった田舎だとは言え、立派な門構えと広い庭の一部がのぞいていた。
何か礼をしたい、と言われたらなんと断ろう、そう考えたのは杞憂だった。彼はにっこりと
「本当に助かったよ、やれやれ」
そう言って車から降りた。しかしドアを閉めてから
「小泉社長には僕から伝えておくから、本当にありがとう」
そう深く頭を下げた様子に、俺はつい
「こちらこそありがとうございました」
と一礼して、では、と車を出した。
すっかりうす暗くなった門の脇で、アオヤマさんがずっと手を振って見送ってくれるのがミラー越しに見えた。
俺は結局そこから三キロほど離れた営業所に戻った。
「キクちゃん、直帰だったんじゃ?」
残業する気満々の係長がうれしそうな目を上げたが、
「連休前に報告書を上げとこっかなー、って」
そう言うと、「らしくねー」と野次られた。
だから近くの隠れ名所のことも係長には教えてやらないことにした。
小泉社長には以前から頭が上がらなかった。納入機器がトラブル続きで社員一同から白い目で見られながら対応に四苦八苦している間も、社長だけはおおらかに笑って
「まあ、失敗なんて誰にでもあっから、気にしなくていいって」
そう肩を叩いてくれた。その後にもまさかの追加注文もいただいた。
「キクチくんがそう言うなら、ボクは信じてるから」
そう言って、すぐに判をくれたのだ。
五、六年前くらいにはかなり経営が苦しかったらしいのだが、苦労人らしい、人情味の篤いところがどうにも憎めなかった。だから社長の友人にも、何かと便宜をはかるのは当然のことだろう、と俺も腹をくくっていた。
それに、去り際にアオヤマさんが言ってくれた
「社長には僕から伝えておくから」
の言葉もイミシンだ。
いつになく軽やかに報告書を仕上げ(アッシーに使われたのは伏せておいた)、デスクに貼りついている数人に、じゃ、お先にー、と軽く手を振って、俺はさっさと家に帰った。いつものバイパスも順調な流れだった。
最初のコメントを投稿しよう!