一 夏織

15/15
30人が本棚に入れています
本棚に追加
/44ページ
 昼休みの時間を狙い、夏織は元職場であるところの、市役所へと向かった。ソファには必要な書類を待つ市民の多くが、スマートフォンを片手に座っている。誰も、夏織を見咎めることはない。 「あれぇ? 古河さんじゃないですかぁ」  甘えた声は、相変わらずだった。後輩は首を傾げて、「何か用事ですかぁ?」と言ったきり、押し黙った。怯えたような表情で、彼女は夏織を見つめ、ぱっと視線を逸らした。 「……百合子さんは?」 「えっ? え、ああ……えっと、私と入れ違いに、食堂に行きました、ケド……あの……古河さん? どうしたんですか?」  夏織は「そう」とだけ一言告げて、彼女に背を向けた。重い身体を引きずって、ぬるぬると夏織は食堂へと向かった。  カチ、カチ、カチ。ポケットの中の物がしっかり使用可能かどうかを確認しながら階段を上る。  五階で働いている文也とは、出くわさなかった。幸運だった。見つけられてしまったら、すべて暴露してしまうかもしれなかった。それほどまでに、夏織は追い詰められていた。  食堂は、そこそこ混みあっている。ゆっくりと辺りを見渡せば、すぐに百合子は見つかる。今日も体型に見合った食欲を発揮している様子で、彼女の辞書には夏バテという言葉はないらしい。  夏織はゆっくりと、近づいていった。餌を貪るのに夢中な豚は、気づかない。百合子の周りの職員たちの方が先に気がついて、ざわつき始める。  誰も夏織に声をかけることはない。百合子の背後に立ったときには、そこだけ奇妙な空間ができているほどだった。  夏織は百合子の、丸々とした背を叩いた。肉が厚すぎて、反応が鈍いのか、一瞬遅れて百合子は振り返り、ぎょっとした表情を浮かべる。  夏織はそんな彼女を、上から見下ろし、睨みつけた。腹を抱え、撫でる。 「この子は私と、文也の赤ちゃんよ……他の男の子供なんかじゃないわ……私は、幸せになるの。愛される妻、可愛い子供の母親として!」  徐々に静まって行った室内に、低い声はよく響いた。 「な、なに言ってんのよ」 「ごまかしたって無駄よ! あんたでしょ、いやがらせの手紙を送りつけてきてんの!」  夏織の糾弾に、それでも百合子は「知らない、私じゃない!」と叫んだ。 「しらばっくれないで!」  金切り声をあげて、夏織はポケットに隠し持っていた物を取り出し、振り下ろす。  百合子は呆然としていた。自分の身に何が起きたのかわからぬ彼女の頬を、二度目の衝撃が襲う。  そこでようやく百合子は、夏織の持ち込んだ大振りなカッターナイフによって切りつけられたことを知り、つんざくような悲鳴をあげた。  もっと深く傷つけるはずだったのに。夏織は舌打ちし、来たときとは裏腹に、足早に食堂を後にする。  人は思いもよらぬ事態に遭遇すると、沈黙してしまうものだということを、夏織は初めて知った。目の前で刃傷沙汰が起きたというのに、誰も夏織を制止しようとしなかったし、百合子に駆け寄る人間もいなかった。  もうこれで、百合子が生活を脅かすことはないだろう。夏織は晴れ晴れとした気持ちで、庁舎を堂々と退出した。  カッターをどうしようか。ポケットの中で、カチカチと刃を出し入れしながら考える。  引っ越し後の段ボールの解体のためだけに購入したものだ。使う機会も少ないだろうし、百合子の汚い血がついた物なんて、使う気にもならない。  夏織はごくごく自然な動作で、ポケットからカッターを取り出し、何度も訪れたことのあるコンビニ前のゴミ箱に投げ捨てた。  日差しは強く、収まりつつあった悪阻がぶり返しそうだ。早く家に帰って、シャワーでも浴びてゆっくりと休みたい。夕方には起きて、美味しい料理を作って、疲れた文也を出迎えるのだ。 「ふふ。パパもきっと、喜んでくれるよね……?」  にっこりと微笑んで、夏織は腹部を撫でた。何の反応もないが、この間の検診でも、順調だと言われた。そのときは複雑な気持ちであったが、今は素直に嬉しいことだと感じられる。  百合子の口さえ封じてしまえば、この子の父親は、文也で確定だ。文也と付き合いながら、彰とセックスしていた事実は、さすがに明美にも話していない。彼女は夏織が、とっくに彰に見切りをつけていると思っている。  踊るように夏織は歩き、商店街を歩いているときには、「こんにちは」と機嫌よく、店員たちと挨拶を交わす。  凶行に及んだとは思えないほど、夏織は普通に買い物をして、帰路を辿る。今日の夕飯は、ごちそうだ。  マンションに着き、オートロックを解除しようとしたとき、背後から、「夏織」と名前を呼ばれた。  はい? と振り向いて、夏織は硬直した。そしてすぐに、荷物を投げ出して、逃げた。さっきまではあんなに軽い足取りだったのに、今は腹の中の子供が重くて、思うように動けない。  どうして。どうしてここにいるの? 「夏織、夏織!」  名前を呼びながら追いかけてくるのは、彰だった。久しぶりに会った男の目は、ギラギラと欲望と憎悪に輝いて、異様だった。 「! いや! 離して!」  男の体力と足の速さに、妊婦の夏織が敵うはずもない。手首を掴まれて、夏織は振りほどこうともがく。爪が食い込み、小さく悲鳴を上げた。  彰は夏織の腹に触れた。その瞬間、本能でわかった。 「なぁ夏織。お前、妊娠してんだってな?」  囁かれてぞっとする。気づいてしまった。このお腹の子は……。 「俺の子供なんだろ?」 「違うわ!」  違う。違ってくれなきゃ困る。しかし、撫でられた腹の子が、文也のときにはほとんど何にも言わないのに、彰に撫でられた途端、動いた。父の手を感じた、歓喜の気持ちを表すように。 「離してよ! 私は、幸せになるの! この子と、文也と!」  そのためには、彰は邪魔だ。  夏織はカッターナイフを捨ててきたことを、後悔した。この男も刺さなければだめだ。百合子よりも深く。  殺さなければ、夏織の平穏な未来はない。 「……俺を、捨てるのか?」  ぽそりと彰は言った。手首を掴む力が緩み、夏織は彼の手から逃れることに成功する。 「捨てる? ええ、捨ててやるわよ! あんたみたいなゴミ男、今までどうして、何度も拾ってきたんだろう! 早く消えて! もう二度と、私の前に現れないでよ!」  ヒステリックに叫び、その場を離れるべく、夏織は彰に背を向けた。  そのときだった。  どすん、と体当たりをされた。最後まで女に縋りつく、情けない男。そう思った。でも、違った。  鈍い痛みが腰に走る。え、と声を上げると、遅れて何かが体内から引き抜かれるような感触。今までの人生で、そんな経験など一度もしたことがないのに、はっきりと、そうされたことがわかる。  夏織は悲鳴を上げることもできずに、そのまま転がった。仰向けにされて、絶望の中で、男の顔を見上げる。  彼は泣いていた。ぐちゃぐちゃの顔で、 「俺にはお前しかいないんだよ、夏織ぃ……」  そう言いながら、夏織の腹を何度も突き刺す。 「俺の子、俺の子だ……はは、俺の子……」  大きなナイフが振り下ろされる。夏織が使ったカッターナイフとは違い、その辺で簡単に入手できるものではない。  おそらく彰は、最初からこうする可能性もあると思って、やってきたのだ。夏織を無理矢理、流産させるために。  ひゅう、と夏織の喉から空気が漏れた。夏織ごと、彰は子供を殺す。嫌だ。苦しい。死にたくない。  視界の端で、人々が騒然としている。その中に、文也の姿があった。  あき、ら。  夏織は手を伸ばした。ぴん、と指先に力を込めたが、すぐにだらりと弛緩し、地面に落ちた。  最期に呼んだのは、文也の名前ではなかった。  救急車とパトカーのサイレンが、夏の空気を震わせている。
/44ページ

最初のコメントを投稿しよう!