二 百合子

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 家に帰るなり、百合子はいつもよりも重い身体を、ベッドに投げ出した。  こういうとき、実家であれば、母が階下から「どうしたの?」と叫んでいただろう。  が、現在百合子は、遅まきながら一人暮らしを始めていた。勿論、文也が送りオオカミになってくれるのを、期待してのことだ。  いつ彼が来てもいいように、掃除もちゃんとしていたし、お茶菓子や酒も、切らさないように準備していた。  お気に入りのワンピースが皺になってしまうと、頭の片隅ではわかっている。それでも、嗚咽が漏れるのを止められなかった。  今日の勤務は、忙しいながらも、比較的穏やかだった。役所で市民と直接接する戸籍係の担当職員だから、日に一度は変なクレームを入れてくる老人がいるのだが、昼休みまでそんな気配は一ミリもなかった。  そして食堂では、大好きなラーメンとチャーハンのセットを頼む。背脂のたっぷり浮いた豚骨系のスープも好きだが、食堂の昔ながらの中華麺といった風情の鶏ガラスープもたまらない。  百合子は後輩の、古河夏織の向かいの席に座った。同僚がたくさんいる中で、ひとつだけぽっかりと開いた席が、たまたまそこだった。  夏織は百合子に話しかけられて、喉に何かを詰まらせたような表情を浮かべたが、嫌だとは言わなかった。  嫌いなタイプの女だ。  自分の主張をその場ではせずに、後から周りの男が「古河さんが困ってるじゃないか」としゃしゃり出てくる。そうやって生きてきた女だ。  清楚を装い、男に粛々と従う素振りを見せて、その実、相手を支配する女。百合子の目に、夏織はそう見える。  この手の女を見ると、百合子は自分の中に悪い物が溜まっていくような気がしてしまう。腹の内に何を隠しているのかわからない。嫌い、というよりも、怖い、という方が正しいかもしれない。  相手もまた、百合子とはなるべく関わらないようにしている節がある。  それでも、向かいに座ってしまったからには仕方がない。同僚相手に喧嘩を売るほど馬鹿ではないし、子供でもないので、百合子は当たり障りのない話題を振った。  それなのに、夏織ときたら「そうですね」「はぁ」などという、気のない相槌しか打たないのである。まったく腹が立つ。  それから新卒で今年入ってきたばかりの後輩もやってきて、百合子はほっとした。派手でやる気があるのかないのかよくわからない子だが、空気を読まずに話を盛り上げることに関しては、他の追随を許さない。  案の定、二人でいるときよりも賑やかな雰囲気になり、その場にあった険悪さはどこかへ消え去った。  だが、爆弾は唐突に落とされた。あまりの衝撃に記憶を失ってしまいたかったのだが、そうはいかなかった。  付き合っている。夏織と、文也が。キスを、していた。観覧車に乗るための列の中で。  新人が、隣県で夏織と文也を見かけたのだという。付き合ってるんですね、という彼女の興味津々な追及に、夏織は答えずに、席を立った。  どういうことよ、と掴みかからなかったのは、単純に動けなかったせいだ。  午後は労働にならなかった。百合子は夏織に尋ねることもできず、失敗を重ねた。課長に叱責された途端に、泣きたい気分になったが、ぐっと我慢した。  泣いて構ってもらおうなんて、そんな醜い女にはなりたくない。  具合が悪くて、と訴えると、すんなり早退が許可された。使い物にならない人間がいても無意味だと判断されたのか、それとも本当に顔色が悪かったせいなのか、百合子にはわからなかった。  日の高いうちに帰宅して、ベッドに寝転がって一人で泣く。失恋が確定してしまった。あんなにいい雰囲気で、デートに誘っても断らなかったのに。  ひとしきり悲しんだ後には、怒りや憎しみが湧いてくる。そうしなければ、心が溺れ死んでしまう。  その感情を、百合子は文也ではなくて、夏織に向けた。彼は純粋で、女性とあまり付き合ったことのない男だった。ウブな性質の文也を、あの女が騙すのはたやすいことだろう。 「許さない」  がば、と勢いよく起き上がり、百合子は空腹に気がついた。どれほど泣いていたのか、日が傾いている。  ぐしゃぐしゃの顔はティッシュで拭った。まずは化粧を落とすことと、楽な服に着替えること。それからコンビニに、食べ物を買いに行こう。  腹が減ってはなんとやら。夏織対策を考えるのには、糖分が足りない。  百合子はコンビニのカップデザートを思い浮かべながら、舌なめずりをした。
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