二 百合子

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 窓から差し込む光のまばゆさに、目を開けた。でも、そうなるのが嫌で、寝る前には必ず、カーテンを閉めるようにしていることを、百合子はふと思い出した。  昨夜は忘れたっけ。そもそも開けた記憶がないから、閉めっぱなしだったはず。  ゆっくりと起き上がると、美味しそうな匂いがした。ベーコンの脂の匂いと、バターの匂い。  一人暮らしの部屋では、絶対にしない匂いだった。寝ぼけているのかと思ったが、起き上がって、恐る恐るベッドから出ると、愛しい男の背中があった。  少し曲がった男の背中に、百合子はこれが夢ではないのだと実感する。感極まりながら、「サトルくん!」と声をあげた。  振り返った彼の表情は、眩しくてよく見えない。でも雰囲気で、微笑んでいるのがわかった。  百合子が勢いのまま抱きつこうとすると、「まずは座って? ご飯食べよう?」といなされる。 「コーヒー淹れるね」  淹れる、といってもこの部屋にはコーヒーメーカーもなく、インスタントの粉を溶かすだけだ。ポットのスイッチを入れて、彼は百合子の向かいに腰を下ろす。 「どうしたの? 朝からこんなごちそう……」  高そうなソーセージに、ふわふわのスクランブルエッグ。クロワッサンもほんのりと温められている。 「お祝いだよ」 「お祝い?」 「そう。俺が、大事な人を守ることができた、お祝い」  大事な人? 私? と、百合子は途端に舞い上がる。もしかして、プロポーズ?  期待に胸を高鳴らせ、サトルを見つめていると、彼の妙な出で立ちに気がついた。  朝起きたばかりなのに、ニット帽を深く被り、髪の毛はすっぽりと隠れている。手袋をしたままで、沸騰したポットの湯をマグカップに入れているのは、おかしい。  さらに奇妙なことに、食事は百合子の分しか用意されていない。サトルの元には、コーヒーカップひとつすら置いていなかった。  スプーンでコーヒーをかき混ぜているサトルに、そのことを尋ねると、彼はただ、微笑んでコーヒーを差し出した。 「すぐに出かけなきゃならないからね」 「そんなぁ」  甘えた声で拗ねてみせるが、サトルは居残ってはくれないようだった。ふてくされて、用意してくれた朝食を、ガツガツと貪る。 「百合子さんが、食後のコーヒーを飲むところまで、見届けてから帰るよ」  用意された物を食べつくして、百合子はマグカップを受け取った。手を組んで顎を載せた状態で、サトルは百合子をじっと見つめる。  その目が、早く飲みなよ、と促している。  カップで指先を温めながら、百合子はコーヒーに口をつけるのを、躊躇した。今日のサトルは、やっぱりどこかおかしい気がした。 「どうしたの?」 「え、あ……ううん。なんでもないわ」  カップの中身に目を落とす。ミルクが入って、まろやかになったコーヒーは、ほとんどカフェオレだ。 「早く飲まないと、冷めちゃうよ」 「そう、ね」  ゆっくりと、百合子はコーヒーに口をつけた。苦い。いや、コーヒーだから苦いのは当たり前なのだが、それとは違う、明らかに、まずい。  一口飲んで、吐き出そうとしたが、それは叶わなかった。手袋に覆われたサトルの手が、マグカップを押さえつけ、百合子に無理矢理コーヒーを飲ませる。  ゲホゲホと咳をするのは、コーヒーが気道に入ってむせたせいではない。もっと、奥。食道が、胃が、全部、焼ける。咳とともに、赤黒い血がカップの中に広がっていく。  どさり、と床に音を立てて倒れ込みそうになるが、咄嗟にサトルが腕を出し、庇った。音を立てないように、床に横たえられる。  コポコポと血を吐きながら、百合子は「どうして……」と息も絶え絶えに、サトルに問いかける。  どうして私が殺されるの。愛している男に、愛してくれた男に。  サトルは哂う。見下ろしてくる目は、冷たいものだった。 「どうして? 当たり前でしょ? 俺の大事な人に近づくんだから」  サトルの大事な人とは、誰だろうか。少なくとも、自分ではないということを思い知らされて、百合子は絶望する。  百合子が近づいた人間。それは、たった一人。  まさか。 「兄さんに近づく奴は全員、許さないよ」  ぞっとする声音で、でも彼は楽しそうに、歌うように語る。 「百合子さんはね、自殺したんだよ」  意識が薄れていく。せめて、この血を彼の身体のどこかに付けることができたなら、一矢報いることができるのに。  必死に手を伸ばすが、サトルと名乗った男は、ひらりとかわす。  百合子の手が、力を失って、床に落ちる。吐き出した血を避けて、男は机の上に、小さな何かを置く。 「これが何か、知りたい?」  ぴくぴくと痙攣するだけになった百合子に、彼は楽しそうに語りかける。 「これはね、古河夏織に送った手紙の、データ。遺書をパソコンで用意するのは怪しいけど、これがあれば、警察や百合子さんの同僚が、勝手にストーリーを作ってくれると思わない? ……もう、聞こえないか」  百合子が最期に聞いたのは、男の忍び笑いだった。
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