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連休最終日の昼間に、文也はマンションへと帰っていった。行かないでよ、と言うことはさすがの理もできず、ただ微笑んで、見送った。
夜になってから、理は購入してあったヘアスプレーで髪の色を変え、別人に見えるようにセットした。眼鏡を外してコンタクトにすれば、そこにいるのは無口で根暗な理系大学生ではなく、その辺でよく遊んでいそうな、軽い青年だった。
スマートフォンで渡辺百合子のSNSをリアルタイムで監視しながら、彼女が今日行く予定だと書きこんでいた店に向かった。
店から一人で出てきた百合子を尾行して、バーに入ったところを見届けた。近くのコンビニから様子を窺い、出てくる気配のないことを確認してから、理も入店した。
やけ酒をしている彼女を制止して、泣きながらくだをまく女を、心にもない言葉で慰めた。
握りしめた彼女の手はぶくぶくと脂肪だらけで、同じ人間の手とは思えなかったし、頬に自分の指が沈んでいくのを目の当たりにして、理は驚愕した。
だが、そんな内心はおくびにも出さず、理はサトルと名乗り、女の話を黙って聞いてやる好青年を演じ切った。
理は百合子の行動を煽り、暴走させるようなことを言って、その日はすぐに立ち去った。。週末にはまた、この店に来ることを約束した。
帰宅してから、理は念入りに手を洗い、ヘアスプレーで染色した髪の毛の色を落とした。
風呂上がりに眼鏡をかけると、元の冴えない大学生に戻った。
すん、と鼻を鳴らして理は自分の身体にしみついた匂いを嗅ぎ、不快感に眉根を寄せた。女の香水の臭いと、肥満した女から移った脂と汗の臭い。一度のシャワーでは、落ちていないように錯覚する。
べたべた触られた、手の脂がまだ皮膚に残っている気がして、理は机に何度もなすりつけた。
おそらく、この調子で文也にも触っていたのだろう。温厚な文也が、彼女のことを苦々しく思うのもわかる。
兄に好意を寄せる女は、みんな彼に、不愉快な思いをさせる。あんな女たちと付き合っても、文也のためにならない。
夏織も、文也も、そしてあの少女も。
――お兄ちゃんの名前なんて言うの? 文也? じゃあフミくんね。ねぇ、これ、フミくんに渡しておいてよ。
宣言どおりに自分勝手に振る舞った彼女は、小学生の理に、調理実習で作ったクッキーを預けた。
自分で渡せば、と冷たく言い放った理の額を、彼女はぴんと指で弾いた。あまりの痛みに涙目になっている子供に対して、彼女はえらそうに腕を組んで、諭すように言った。
――あのねぇ。あんたの兄ちゃんみたいな真面目くんに、いつもみたいなアプローチしたら、引かれて終わりでしょ? あたしは使えるもんは使う主義なの!
使えるもん扱いをされた理の額は、彼女と別れ、帰宅してもまだ痛かった。
あの頃はまだ、理の苗字は浅倉ではなく、東京でマンション暮らしをしていた。かの女子高生もまた、同じマンションに住んでいて、近所の良識的な主婦からは、鼻つまみ者にされていた。
短いスカートを履いて、マンションにはほぼ日替わりで、別の車が送り迎えをしに来る。彼女の母も長いこと水商売をしていて、娘のことはほとんど放置していた。
母親は口を酸っぱくして、「あんな娘に近づくんじゃないよ」と理にも、文也にも言っていた。特に、同い年の文也に対しては、あんなのに付きまとわれたら恥だ、と言い続けていた。
兄は、学校も違うし接点もないし、そもそも自分のような真面目だけが取り柄の高校生は、彼女の趣味ではないだろう、と笑っていた。
だが、現実、彼女は文也を見かけ、なぜか好きになったという。それが本気だったのか、それとも興味本位で近づいただけなのか。理には今も、わからない。
もう、答えを得ることはできない。
彼女はもはや、この世にはいないからだ。
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