三 理

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 兄の「おやすみ」の声で眠り、「起きて。遅刻するよ……おはよう」と起こされる日々が、小学生当時の理の幸せだった。文也の優しい声をいつまでも聞いていたくて、わざとぐずぐずと起き出したものだった。  あの頃はまだ、自分が兄に抱く気持ちを、兄弟愛であると信じていた。言い聞かせていた、という方が正しいかもしれない。  血が繋がった相手に、それ以外の、またそれ以上の好意を抱くのは間違ったことだ。  世間一般に押しつけられた倫理観に、理は当時、囚われていた。  理のその考えを突き崩したのは、例の派手な女子高生だった。  彼女は評判通りのいわゆるビッチという奴で、そのとき聞いた話の半分も、奥手な性質の理は理解していなかった。  だが、恋愛はお手の物だと自負する彼女との対話を通じて、理は文也へと向ける悶々とした感情が、恋であることを認め、肯定し、そして増幅させていく結果になった。  彼女は複数の男と付き合っていた。肉体関係を持っていた。その中には、彼女の親友の恋人も含まれていた。  ――そんなことして、いいの? みんな、お姉さんのせいで困るんじゃないの?  やめた方がいいんじゃないの、というお節介な気持ち半分、純粋な疑問半分で、理は下着が見えそうになっている少女から、視線を逸らして尋ねた。  彼女は豊満な胸を張って、声高らかに宣言をする。  ――好きになったらねえ、奪いたくなるのよ。全部。あたし以外の女に、目を向けられないようにしてやりたい。そのためだったらあたし、なんだってするのよ。  フミくんへ、と兄に向けた手紙がついたクッキーを見ながら、彼女の言葉を繰り返し、胸の中で呟いた。  好きになった相手の視界には、自分さえいればいい。情熱的な恋は、愛とは違って、相手の幸せを願って身を引くなんて考えられない。  たとえ、相手が誰であろうとも、好きになってしまったら、止められない。  たまたま理にとって、心を揺さぶられる相手は正真正銘の兄であった。ただそれだけなのだ。  ――僕は、文也兄さんのことが、好きだ。  唇にそっと載せると、気持ちに名前がついて、現実味を帯びてくる。  好き、好き、好き……大好き。  兄さんに近づく相手は全員、許さない。結ばれなくても、文也を愛しているのは自分だけでいい。  少女は理に恋の自覚を促し、新たな世界を見せてくれたという点では、恩人だ。が、それとこれとは話が違う。  文也の隣を我が物顔で歩こうというのだから、彼女は敵だ。存在自体が悪だ。  理は幼い頭で必死に考えていた。いつしか空は、夕焼けに変わっていた。  その日、一番に帰ってきたのは、珍しく父であった。鍵を忘れた理に対して、「バカだな」と笑った。  理は咄嗟に、持っていたクッキーの包みを渡した。  ――なんだこれ?  ――ここでさっきまで一緒に喋ってた、××さんちのお姉さんが、お父さんに、って。  父親の名前は、文浩(ふみひろ)……フミくん。  三十歳以上年下の娘から、「くん」付けでなれなれしく呼ばれたことに、父は拒絶を示すのではないか。  そう思って理は、ドキドキと成り行きを見守った。  手紙に熱心に目を通していた父は、「ふぅん。そっか」と言ったが、彼女に興味を持ったことは明らかだ。  手紙にはメールアドレスが書いてあったようだが、母は父の浮気に神経質になっており、メールや電話で連絡を取るのは無理だった。  そのため、父は理を使った。一回につき五百円の小遣いで、父と女子高生との間の連絡係をすることになった。理にとっては、好都合だった。  翌日、同じ時間帯に外にいると、彼女がやってきて、「クッキーどうだったって?」とにやにやしながら聞いてきた。  ――おいしかったって。  勿論文也は一口も食べていないが、主語は勝手に、彼女が解釈してくれる。少女は喜んだ。理が父から預かってきたメモを渡すと、更に飛び跳ねて嬉しがった。  理は伝書鳩だった。本物の伝書鳩と違うのは、二人の手紙のやり取りを覗き見することができ、ただ一人、真実を知っているところだ。  女子高生は、父の返事を文也からのものだと思って、返事をした。フミくん、というあだ名が理にとっては功を奏し、彼女にとっては運の尽きであった。  いよいよ「会いたい」と父が手紙で切り出した。母にばれないように、待ち合わせ場所と時間を指定していた。  きっちりと手紙を折り直した。少女からのものは複雑な形に折られていたので、不器用な理は、悪戦苦闘したが、どうにか元に戻すことができた。  父も彼女も、理が手紙を盗み見していることを、疑ってすらいなかった。  母は夜勤で病院。文也には、「友達の家で晩ごはんをごちそうになることになった」と嘘をついて、理は先回りして、二人の待ち合わせ場所に向かった。  先に来たのは女子高生の方で、鏡で念入りに髪型やメイクをチェックしていた。そこに父が、声をかけた。  人気のない場所だった。少女は父に肩を叩かれ、嬉しそうに微笑んで振り返った後に、悲鳴を上げた。  当然だ。同じ男子高校生の文也を想定していたにも関わらず、親しげな様子で話しかけてきたのが、中年男性だったのだから。  痴漢に遭ったときのように叫ぶ彼女の口を、父は塞いだ。父からすれば、甘いやり取りを何度も交わした間柄だから、拒絶される意味がわからない。  目の前で修羅場が繰り広げられているのを、理は妙な興奮をもって、見つめていた。  きっかけは、なんだっただろう。確か、少女が父に、ひどい言葉を浴びせかけたことだったような気がする。  普段は白い父の顔が、酒を飲んだときよりも赤くなり、ところどころ黒くも見える。あっ、と思った瞬間、父は少女のか細い首を、締め上げていた。  ――お前が。お前がお前がお前が! 誘ったんだろうが……  呻き声とともに吐き出される呪いの言葉を、理の語彙では把握しきれなかった。だから覚えていないが、少女に負けず劣らず、父も彼女を侮辱する言葉を使っていたいう印象だけ残っている。  苦しそうな表情を浮かべていた少女だったが、ボキ、という硬い音がしてから、すっかり大人しくなった。  死んだ。死んでしまった。父が、殺した。  理は呆然と、殺人者と死体を観察した。  首を絞めればいつかは死ぬことはわかっていたが、息ができなくなるよりも先に、首の骨が折れても人は死ぬのだということを、初めて知った。  父も呆然としていたが、理が意を決して姿を現すと、青い顔をこちらに向け、口をパクパクさせた。  ――殺したの?  高い子供の声で、理はできるだけ、無邪気に聞こえるように言った。父の身体は崩れ落ち、ああああああ、と言葉にならない声だけを発する。  ――僕もお母さんもお兄ちゃんも、殺人犯の家族になるの?   ――やだなぁ。殺人犯のお父さんなんて、いらない。  しつこく何度も言い続けると、父は放心して、すっくと立ちあがった。少女の死体をずるずると引きずると、ここまで乗ってきた車に乗り込む。  理が見た、父の最後の姿であった。  その後警察の捜査で、車はあの有名な、富士の樹海の近辺に放置されていたのが発見されたという。  同じマンションに住む男と女子高生が、同時期に失踪した。世間の目は、理たち家族に冷たかった。  母はそそくさと実家に逃げ帰り、弁護士を通して父不在のまま籍を抜き、理たちは浅倉を名乗るようになり、転校した。三学期という、中途半端な転校生になった。  文也に言い寄る女子高生といっしょに、文也を愛してやまない父親を消すことができたことは、理にとっては自信になった。  やはり、文也を愛し、彼のことを想い続けられるのは自分しかいない。  その後も理は、文也に恋人ができそうになる度に、秘密裏に邪魔をし続けた。文也が東京の大学に進学してしまったため、理がとったのは、インターネットを駆使する方法であた。  母は理に甘く、早いうちから携帯電話やパソコンを買い与えていた。SNSの隆盛は、理にとって、歓迎すべき事態であった。  そうやって文也のことを守り続けていたのに、酔った勢いの過ちというだけで、婚約者になろうとしている夏織のことが、心底憎い。  理が直接、その死に触れたのは最初だけだ。だが、炎上させた相手が自殺したこともあるらしいと、風の噂で聞いていた。  夏織にも、そのくらいの繊細さがあればいいのに、と理はうそぶいた。
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