一 夏織

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一 夏織

「結婚を前提に、お付き合いしてください」  深々と頭を下げた男のつむじを、夏織はぼんやりと眺めた。あ、二つある。なんて、どうしようもないことに気がつくのは、余裕があるからというよりは、現実味が薄いからだった。  夕暮れのビーチや、おしゃれなレストランでの告白をいいと思う女もいるし、告白なんてどこでどうされてもいいと思う女もいる。  夏織は自分のことを、後者だと思って今まで生きてきたが、実は前者寄りの感性の持ち主だったようだ。  時刻は早朝、七時。土曜日の今日は仕事が休みで、いつもならまだベッドの中でうつらうつらとしている時間帯だ。  ファミリーレストランでモーニングを頼んだ。目の前の男は率先して、ドリンクバーで夏織の分まで飲み物を入れてきてくれる。そして、コーヒーを一口飲んでから、いきなり頭を下げたのである。 「あの、顔を上げてくれないかな」  見知らぬ仲ではないが、そこまで親しくはない。同期だが、今まで一度も同じ部署で働いたことはない。  顔を上げた男の顔を、夏織は改めて観察する。  目を引くような美形でも、また逆に、二度見してしまうような不細工でもない。特徴といえば、眼鏡をかけていることくらいだ。  事実、朝目覚めた瞬間、彼が眼鏡をかけるまで、夏織は自分の隣に寝ていた男が誰なのか、わかっていなかった。  穏やかで、地味な男。  今朝、同じベッドの上で目覚めるまで、浅倉文也(あさくらふみや)は、夏織にとってはただそれだけの存在であった。  今も、眼鏡の奥の目はおどおどと頼りなく泳いでいて、女を引っ張っていく力強さとは無縁だ。  草食男子を食べるのが趣味、という人間にはストライクゾーンなのだろうが、あいにくと、夏織の好みとはかけ離れていた。  だが、タイプとは関係なく、セックスすることは可能だ。ありふれたことだから、自分が彼と寝たことについては驚かないが、一応確認はしておきたい。 「あの。浅倉くん。本当に私たち、その……」  声をひそめての問いかけに、文也は再び、頭をがばりと下げた。額がテーブルに着いてしまっている。  その反応が、すべてを物語っている。夏織は彼に気づかれないように、溜息をついた。落胆ではなく、感嘆の意味合いで。  真面目が服を着て歩いているような文也が、いくら酒に酔った勢いとはいえ、恋人関係にない女と肉体を重ねるなんて、と。 「ごめんなさい。責任は取ります」  うわごとのように呟く文也のつむじを見つめながら、夏織は野菜ジュースを飲みほした。  昨夜、泥酔していたのはおそらく、夏織の方だ。  定年以外でなかなか退職者が出ない役所勤めだが、それでも毎年、誰かは辞めていく。  三月の転居シーズンで、窓口がパンクするほどの繁忙期を迎えていた。なんとか業務を終わらせて、年度末の慰労会と送別会を兼ねた飲み会が行われた。  飲み会の主役は新卒で入ったばかりの、甘えた声で媚びることしかできない女だった。  彼女の指には、大粒のダイヤモンドが輝いていた。顔の横に手の甲を持って行って見せびらかしている彼女を見て、「芸能人気取りかよ」と面白くない気分になった。  それは夏織だけではなく、独身女性職員の総意だったように思う。事実、昨日の送別会で、主役の彼女の周りを取り囲んでいたのは、同期の子たちばかりだった。  彼女の婚約者は、誰もが知る一部上場企業で働いている。東京の本社勤務になるのを契機に、プロポーズされたのだと、惚気(のろけ)られた。  聞くところによると、婚約者は夏織と同い年くらいで、まだ若い。本社に栄転になるということは、将来も期待されている。玉の輿、という奴だ。なるほど、余裕のある態度も理解はできる。が、感情は追いつかない。  羨ましい。妬ましい。東京に行くには、在来線を使って片道二時間近くかけなければならない中途半端な場所で、夏織はずっと暮らしていくのに。  かといって、安定した職を手放して上京するほどの若さも情熱も、夏織にはない。何度もチャンスはあったはずだが、夏織が選び取ったのは、リスクの少ない人生だった。  若い子への羨望と、自分自身への諦め。その二つが複雑に入り混じった感情を抱え込んで、夏織はテーブルの隅で、飲み放題なのをいいことに、浴びるように酒を飲んだ。  普段、そんな無茶な飲み方をすることはないが、ワインとビールと日本酒をちゃんぽんに飲んだ結果が、意識が飛び記憶がなくなるほどの泥酔だった。  そして、次に目を開けて頭がはっきりしたときには、ラブホテルのベッドの上で、裸だった。身体に感じたわずかな違和感に、酔った勢いでセックスしたのだと、すぐに理解した。  まさか相手が、文也だとは思わなかったけれど。  まだ頭を下げている文也に、夏織は再度、顔を上げるように言った。  恐る恐る上げられた顔は、やはり好みではない。けれど、その額にくっきりとついたテーブルの跡を見て、夏織は笑ってしまった。  処女を奪ったわけでもないのに、責任を取るだなんて、変な人。  丁重に断るつもりでいた夏織だったが、思い直した。  一夜の過ちを犯したきっかけになったのは、後輩が自分よりも先に、将来性のある恋人と結婚することになったから。  つまり、夏織は自分でも気づかぬうちに……いや、気づいていながら見ないふりをしていたことだが、「結婚」に、ずいぶんと焦っていたのだ。  もう一度、考える。  中肉中背で、頼りない風貌の文也だが、その分仕事は丁寧で、人当たりもよい。これから順調に、出世していく可能性も高い。  安定した生活。それが夏織の望んでいた人生ではないか。  夏織はそっと、文也の手を握った。思ったよりもゴツゴツとした男っぽい手つきに、少しだけ、この男のことをいいな、と思った。 「わかりました。結婚を前提に、お付き合いしましょう。浅倉くん……ううん、文也くん?」  にっこりと微笑む唇に、色を差していないのが残念だった。今度のデートはしっかりと、化粧をして、ロマンティックなムードのあるレストランでしたいものだ。  そう、夏織は思った。
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