三 理

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三 理

 ――恋なんて、自分勝手でいいの。恋より愛が上なんて、誰が決めたの。  耳元で鳴る洋楽は、理には意味などわからない。ハスキーな女性ボーカルは、なぜだか十年も前に聞いた、懐かしい女性の声を思い起こさせた。  ふと顔を上げて目当ての女が建物から出てきたのを確認した。それとわからぬようについていく。コンビニでは、彼女が購入したものと同じ物を買う。  公園のベンチに座ってランチをし始めた彼女の、向かい側のベンチに座る。息を潜めて、じっと見る。女が気がついた瞬間、理は素知らぬふりで、自然に視線を外した。  見られている。彼女の目は、明らかに、男を捕食して生きていく女の、それだった。理を値踏みしている。  思わず笑いそうになった。  普段の理を、彼女は歯牙にもかけないだろう。ぼさぼさの髪の毛で顔を隠し、眼鏡をかけ、ださい服装の大学生など、眼中にないに決まっている。  眼鏡を外して、少し小奇麗な格好をれば、そこそこ遊んでいる若者に擬態することができる。  理は女の動作をまねて、サンドウィッチを口に運んだ。  女は理に興味津々な様子だった。反吐が出そうになるのを隠して、彼女が髪の毛に触れるのを見ると、理も同じようにして、微笑みかけた。  すると女は、ぱっと恥じらうように視線を外したが、その後もこちらを窺ってくる。  ミラーリング効果。合コンテクニックの一つとして用いられる、そういう場面で異性の気を引こうとする人間ならば、誰もが知っている心理学用語だ。勿論、目の前の女は理解している。  理が自分のことを意識している、と、彼女は思っている。確かにその通りではあるが、女が思っているような、好意ではありえない。  結婚を前提に付き合っている男がいるにもかかわらず、自分の好みの男がこうしてアプローチしてくれば、誘うような目つきをする。  理の行動は、彼女の本質を確認するためのものだった。そしてそのテストの結果は、不合格。  昼休みが終わろうとしている。タイミングよく、彼女が着信に気づいてスマートフォンに目線を落としたところで、理は立ち上がり、公園から立ち去った。  自分の愛する兄の傍に、あんな女はいらない。  理は、帰りのバスに揺られながら、とある人物へと、メッセージを送った。 『小野田先生、やっぱり古河さんに、話を聞いてもらっていいですか?』  間髪入れずに、「OK」というスタンプが送られてきて、理は思わず、鼻で笑ってしまった。  兄が古河夏織と付き合い始めた三月の終わり。理は「お義姉(ねえ)さんになる人か」と言って、興味のある素振りで、彼女の周辺事情を探り、また、彼女のSNSを検索し、くまなくチェックした。  その結果浮上した、二人の女に接触することにした。  一人は、文也や夏織と同じく、市役所に勤務している渡辺百合子。この女もまた、兄のことが好きでずっとアプローチしていた。文也と顔を合わせる度に、珍しく愚痴を言っていた対象の女だ。  この百合子もいずれ、排除しなければならない。だが、急務はすでに兄と関係のできあがっている、夏織の方である。  まずは百合子を利用すべく、理は彼女のSNSのアカウントも押さえた。食べ物ばかりで辟易したが、連休中に立ち寄る店のリストがご丁寧にアップされているので、そこで接触する予定だ。  そして今、連絡を取った相手がもう一人。夏織のSNSの相互フォロー者の中から見つけた人間だった。  小野田明美。理の通う大学の、文学部で助手を務めている。工学部情報科学コースに在籍する理とは、元々は接点がない。  夏織がアップした写真の内、複数枚に移り込んでいるのは明美だけだった。理は彼女のことを調べ上げ、彼女が師事している教授が担当している講義に、まずはもぐりこんだ。  少人数のゼミであれば、目立って仕方がなかっただろうが、大教室での講義であったので、教室に入ってしまえば、それでよかった。  講義が終わってから、助手の明美は黒板を消したり、余ったレジュメを回収したりと忙しい。  そこに理が声をかけ、手伝ったところから交流をスタートさせた。  理学部所属だが、興味があって授業を履修した、と講義の感想を述べると、ぱっと彼女は明るい表情を浮かべた。  教授が講義に使っているテキストは、彼女の研究分野でもある。  やる気のない学生が多い中で、門外漢の理が興味を持ってくれたことを、純粋に喜んでいる顔だった。  文学部のカフェテリアやテラス、喫茶店で、理は明美が専門としている『古今和歌集』についての話を何時間にもわたって聞き続けた。  学問第一に生きてきた明美にとっては、自分の研究の話を、退屈せずに聞いてくれる相手は貴重である。明美の目は、理のことを異性として意識していない。  理は、時間をかけて明美の信頼を得てから、相談を持ちかけた。  兄に婚約者ができたが、どんな相手なのかわからなくて不安だ。  打ち明け話をしつつ、市役所勤務に勤務している同僚で、と相手の情報を小出しにしていって、夏織のことだとわかるようにした。 『それ友達』  そう言った明美に対して驚きを露わにしつつ、理は自分の思い通りに会話が進んでいることに、満足していた。  どんな人なんですか、という問いかけに対しては、明美は苦い顔をした。親友だというのに、夏織のことを庇わない。  いや、親友だからこそ、古河夏織の本性を、嫌というほど知っているのだろう。  あからさまに罵ることはなかったが、その口ぶりには、微妙な心境が窺えた。  女の友情など、脆いものだ。  明美は、兄の婚約者に不安と不満を抱く、理の協力者となった。  兄にはすでに、「母の具合がよくない。不安だから、ゴールデンウィークは家に戻ってきてほしい」とメッセージを送ってある。  連休中に夏織とデートはさせない。その隙に、明美には夏織と話をしてほしいと頼んでいた。できるなら、彼女の不安感を煽るような形で。  その成果にも期待しているが、それ以上に、連休中は家に兄がいるのだと思うと、理の胸は高鳴った。  もともと家族三人で暮らしていた離れは、現在、理が一人で住んでいる。文也は折り合いの悪い母のいる母屋ではなく、おそらく離れの、元々彼が使っていた部屋で、寝起きすることになるだろう。  大好きな兄と、一つ屋根の下で二人きりだ。無表情の顔の中で、唇だけがにやにやと緩む。渡辺百合子への接触をしなければならないという憂鬱さも、約一週間、兄と一緒にいられると思えば、少しは慰められる。  連休は、二人で何をしよう。  理の頭の中は、楽しい予定だけが浮かんでいた。
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