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四 明美
初老の女性が、棺に縋りついて号泣している。その様子から、死者のことを心から愛していたのだということが伝わってきた。
追従するように響くすすり泣きは、死者を悼むというよりは、場の雰囲気に流されたもののように感じた。
女の隣には、若い男がいる。彼は女の長男であり、最後に残された家族だった。彼が母親の背中に手を添えて慰めようとすると、彼女は猛烈な勢いで、それを振り払った。
「あんたのせいでしょ!? この疫病神!」
興奮しすぎた母親は、慌てた斎場のスタッフに支えられ、外へと連れ出された。
浅倉文也は参列者たちに一礼をして、母の振る舞いを詫びた。その目には、涙はなかった。そういえば、先日の葬儀の際も、号泣する明美をよそに、彼は呆然としていたが、泣いてはいなかった。
葬儀が終わったところで、頃合いを見計らい、明美は文也に声をかけた。
「浅倉さん」
文也には、喪服がとても似合っていた。引っ越しの手伝いのときに見た私服よりも、彼の憂いを帯びた優しい顔立ちには、しっくりくる。
着慣れているのかもしれない。そんな恐ろしい想像が、明美の頭をよぎる。
文也は明美の顔を認めると、一瞬誰だっけ、というような表情を浮かべていた。だが、すぐに記憶の片隅にあった、婚約者の親友というデータを思い出して、微笑みを浮かべた。
「ああ……小野田さん、でしたっけ」
その節はどうも。会釈をした文也だが、その表情はあまりにも自然だった。旧知の人間に出会ったときの、柔らかい顔だ。
婚約者に続いて、身内が死んだというのに。
文也は明美との再会に目を細め、それから首を傾げた。
「小野田さんは、どうしてここに?」
文也は明美と彼の関係を知らない様子だ。この世を去る前に、彼はすべての痕跡を消したのであろう。
「大学で助手をしています。弟さんとは、それが縁で」
四月の最初の講義のときに、彼は前方の席に座っていた。理工学部の学生なのに、文学部の学生たちよりも真面目に講義を聞き、一般人にはつまらない、明美の研究についての話も、興味のある様子で聞いてくれた。
それが全部、演技だったのだということに途中から気づいていたが、明美は見て見ぬふりをしていた。
「ああ、そうなんですか」
文也の態度は社交辞令を多分に含んでいて、特に明美には興味がない。そしてそれが、浅倉文也という男の本質のような気がして、ぞっとした。
「あなたは」
意を決して明美は口を開く。一度言葉を切ったのは、緊張で喉が渇いたせいだった。
「あなたは、弟さんが……理くんがしていたことを、全部知っていたんですか?」
夏の午後、夏織は死んだ。腹に子を宿した状態で、元恋人の長谷川彰に刺し殺された。きっかけを作ってしまったのは、明美でもある。懺悔しても、しきれないほどだ。
理が明美に近づいてきたのは、兄の婚約者となった女のことを調べるためだった。
もともと夏織と明美とは、まったく違う人種だ。学部やサークル、語学選択などの共通項がなければ、積極的に友人になろうとは思わなかっただろう。
思えば、話しかけてきたのも夏織の方だった。気が合ったというわけではなくて、無理矢理に向こうが明美に合わせてきた。
その笑顔に騙されてきたが、夏織に合コンに誘われて、参加するにつれて、彼女の魂胆が、鈍い明美にもわかり始めた。
所詮明美は、夏織の引き立て役に選ばれたに過ぎない。ずっと隣にいて、明美の些細な失敗を笑い話にして、面白みのない勉強バカという印象を植えつけ、自分を優位に立たせる。
研究第一で、特に異性に興味のない明美ではあるが、何度も続けばストレスになる。
それでも明美がだらだらと夏織と友人を続けていたのは、内心でそんなことでしか自分を保つことのできない彼女を憐れみ、自分の方が上だと確認するためでもあったのかもしれない。
性格の悪い者同士の結びつきでしかなかったが、明美は夏織の死を願ったことなど、一度もなかった。それだけは、断言ができる。
理に夏織の情報を漏らし、彼の頼みを断り切れずに、手紙を郵便受けに入れたのも、ただただ、鬱憤を晴らすためだけだった。
理もまた、同じだと思っていた。気に入らない兄の婚約者に、嫌がらせをしてやろうとして、明美を利用したのだと、夏織が死んでしまうまで信じていた。
だが、理にはもっと明確に、夏織を傷つけてやろうという意図があった。正しく言い換えるならば、それは殺意だった。
見据える文也の顔には、涙の痕跡はひとつもなかった。その事実が、明美にひとつの疑いをもたらす。
「……全部、知っていますよ。勿論。弟の考えていたことなんて、手に取るようにわかります」
穏やかな微笑みすら湛えているのに、明美の目には、文也は無表情に見えた。感情がそこに載らなければ、ないことと同じなのだということを知り、背筋が凍る。
「どうして? あなたは……夏織のことを愛していたんじゃないの?」
震える声での詰問にも、文也は動じなかった。
「愛してますよ。今も。いいえ、生きているときよりも、今の方が」
小野田さん、と彼は明美の名前を呼び、近づいてくる。一歩一歩と後ずさる。
この人は、怖い人だ。夏織に対して、彰だけはやめておけと言い続けた明美だったが、この男は別のベクトルで、やめておいた方がいい男だったのだと痛感する。
一瞬でも、夏織には勿体ないくらいの好青年だと思った自分の頭を殴りたい。
「人は、他の動物たちと違って、生きている限りは裏切る生き物だと思うんです。小野田さんは、どう思われますか?」
「浅倉、さん……」
夏に夏織が死に、冬には渡辺百合子という女が服毒自殺した。面識はなかったが、夏織の愚痴のメインは彼女の話題だったので、新聞で彼女の死を知ったときには、驚いた。
そしてその数か月後、理が首を吊って死んだ。一人で暮らしていた離れの、元々は文也が使っていた部屋で、ゆらゆらと揺れているところを母親が発見した。
浅倉文也の周りには、死が多すぎた。この一年間で、彼に好意を寄せていた人間が三人も死ぬなんて、どう考えてもおかしい。
明美の前にいる男は、すべての鍵を握り、笑っている。
「僕は今、とても満たされているんです。確かに、もう二度と夏織さんや理が、僕に話しかけてくれることはない。でも彼らはその分、僕を裏切ることもないんです」
これを幸せと言わずして、何を幸せだといいましょうか。
「みんなのことを、愛しています。死んでからは、より一層。永久に彼ら彼女らは、僕のことを愛してくれているんですから」
楽しそうな口調で告げる文也の足元に、明美は数多の死者が潜んでいるような錯覚をした。そしてその中には、夏織や理も。
震える明美の肩を、文也は優しく親しげに、二回叩いて囁いた。
「あなたは僕のことを、別に好きでもなんでもないでしょう? だから、怯えることなんてひとつもありませんよ。そう、ひとつも」
動けずにいる明美に一礼して、文也は去っていく。悲壮感の欠片もない背中を、明美は呆然と見送るしかなかった。
あの男の周りには、死が絶えない。きっとこれからも、彼は愛を確固たるものにするために、死を振りまいていくのだろう。
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