第1話:怪しい紳士

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〈1826年3月15日、また天気は曇り〉 またお父様と喧嘩した。あんまりにも腹が立つからドレスなんか全部脱ぎ捨てて、馬車から飛び降りてしまおうかと思った。けど、お父様が何かにつけて、亡くなったお母様のことを持ち出してくるから結局我慢した。何が何でもいい家に嫁がなくてはならない、そればっかり何万回聞かされてきただろう。ぶつぶつ言いながらパーティー会場に到着すると、スーツに身を包んだ男が待ち構えていた。 「ウィットフィールド侯爵、本日はお招きいただきありがとうございます。今夜は娘を連れてまいりました。ファビオラ、侯爵に挨拶を。」 「ファビオラと申します。」 「おお、なんと美しいお嬢さんなのでしょう。」 「まだまだ未熟な娘ですが、是非侯爵に可愛がっていただければと思います。」 16歳になってから、いよいよ社交界デビューをする時が来たと、耳にタコが出来るほど聞かされてきた。乳母もあまりにも浮かれているせいで、行きたくないなんてとても言い出せなかった。きっとたくさんの紳士達がダンスに誘ってくるだろうという言葉の荷が重たくて、ビクビクしながらお父様の腕をがっちりと握って会場の中へ入った。 華やかなシャンデリアが垂れ下がった会場はキラキラするもので溢れていた。あちこちから集まってきて、しきりに何かを話し合っている人たちを見ていると、その輪の中にどうやって入っていけばいいのか分からず途方に暮れた。結局私はトイレに行くという、最もらしい言い訳をつけてバルコニーへ逃げ出した。 キラキラした室内とは打って変わって、外は静寂に包まれていた。さすが侯爵家の邸宅とあってバルコニーは広く、隠れるにはうってつけの場所だった。お父様も色々な人に会うのに忙しくて、ここまでは探しに来ないはず。バルコニーの手すりに寄りかかって遠くを眺めていると、窮屈な自分の置かれた状況に絶望してまた深いため息が出た。 「どこか具合が悪いんですか?」 声が聞こえてくる方を向くと、そこには一人の男が立っていた。ここの雰囲気にふさわしいスーツに身を包んだ男は、蝶ネクタイの代わりに私の好きな紫色のスカーフを首に巻いていた。しばらくぽかんとしていると、彼は恥ずかしそうに話を続けた。 「すみません。こんなところに一人でいるから、どうしても気になってしまって…。」 「あなたこそどうしてここに?中へ入らないのですか?」 「こういう華やかな場所は苦手なんです。今日も無理やり連れてこられただけで…。トイレに行くふりをして逃げてきたんです。」 トイレって、私と同じじゃない。自然と笑いがこみ上げてきて、口に手を添えながらくすくすと笑った。彼も横で私のことを見ながら笑う。この瞬間、二人の間に流れていたなんとなく気まずい空気が、少しだけ和らいだような気がした。 紫色のスカーフの紳士は背が高く、柔らかな赤褐色の髪の美男子で、暗闇の中にキラリと光る緑色の瞳がまるで庭園にそびえ立つ立派な木のようだった。木の紳士はしばらく笑うと、私に尋ねた。 「こういう場所は苦手ですか?」 「……。」 社交界という場所はどうしてこうも骨の折れる場所なんだろう。作り笑いをしなくちゃならないし、きつい姿勢でぎこちないステップを踏まないといけない。どうしてここでは、本来人間関係の中にあるべき真実のようなものが全く感じられないのだろうか。 「私にはやりたい仕事があるんです。」 「仕事?」 「はい。こんなところで人形みたいに作り笑いをして、丁度いい人と結婚するんじゃなくて、私は私のやりたい仕事をしたいんです。女の子がこんな考えを持つことだけでも十分素晴らしいことだと思っているのに、お父様は頭ごなしに否定しかしない。お父様には申し訳ないけれど、時々家を飛び出したくなるんです。」 「なるほど。お嬢さんがそこまでしてしたいのは一体どんなお仕事なのか聞いてもいいかな。」 今まで一人だって私の意見を認めてくれる人はいなかったけれど、この人に言えない理由もなかった。私は腕を組んだまま威勢よく言った。 「ロンドンにあるナイチンゲール看護学校に行きたいんです。そこで勉強してナースになります。」 「ナース…?」 「病気の人のそばに寄り添うナースになりたいんです。あなたのような貴族みたいに、ただ湯水のようにお金を使って生きていくんじゃなくてね。」 普段溜まっていた鬱憤のせいできつい言い方になってしまったが、男は気を悪くした様子もなく、にっこりと笑った。こういう話を持ち出すと、すぐに怒り出すお父様とはあまりにも正反対の反応が意外だった。当然この男も貴族だから、こんなことを言えば気を悪くするだろうと思ったのに。 「貴族であるあなたが、そんな考えを持っているなんて、本当に素晴らしいことです。ナースか…未来の『ランプの貴婦人』に出会えて光栄です。」 『ランプの貴婦人』だなんて…。恥ずかしいやら申し訳ないやらで何度か咳払いをしてごまかしていると、彼は首に巻いていたスカーフを私の手に握らせた。ぽかんとしていると、彼は手を強く握ってこう言った。 「あなたみたいに真っ直ぐな瞳をしている人は、誰より素敵なナースになれると思います。これは応援の印です。」 「え、ちょ、ちょっと…。」 「では、またご縁があればどこかでお会いしましょう。未来のナースさん。」 風に揺れる木のように彼は、音もなくパーティー会場の中に戻っていった。私はスカーフを手にしたままひとりぽつんと取り残された。肌寒い風が吹くバルコニーでお父様が探しに来るまで、ただ彼が消えていった方向を見つめるばかりだった。
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