第4章:少女たちは冒険を夢見る

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第4章:少女たちは冒険を夢見る

<1862年4月5日、雨> 確かに、さっきまで私たちは音楽会を鑑賞していたはずだった。それもウィットフィールド侯爵が用意してくれた、高いバルコニー席で。なのに今いるところは…。 「あの、クロさん…どうしてもここに入らなきゃいけないんですか?」 「ええ、どうしても見せたいものがあるんです。」 あくびをしていた私に、「冒険をしてみませんか?」と誘ってきたのが始まりだった。ただ冒険という言葉に惹かれてついてきただけだったが、彼に連れられてきたのは薄気味悪い廃墟だった。 どんな事情でここの住人がこの家に住めなくなったのかはわからないが、ちらっと見るだけでも寒気がするような廃墟だった。錆びた玄関の門と、長い間手入れもされずに好き放題生い茂った草に覆われている庭からはこの世に存在していはいけないものが飛び出してきそうな雰囲気だった。 クロに手を引かれて庭に入っていきながらも、私は感覚を研ぎ澄ました。真っ暗な夜、いつものように虫の鳴く声が聞こえてきたが、それすら怖く感じるほどだった。ぶるぶる震えながらクロの背中を追って進んでいくと、彼がランプを差し出した。 「灯りを持っていた方が怖くないでしょう。レディーに重いものを持たせるのは気がすすまないのですが、持っていてください。」 「あ、ありがとうございます。」 「代わりにあなたの美しい手を握ることを許してくれますか?一人で歩くよりずっと心強いと思いますが。」 又なんてこっぱずかしいことを…私は慌てて頷き、ランプを受け取った。クロはくすっと笑い、何も言わず私の手をぎゅっと握って歩き始めた。結婚相手以外には手も握らせてはいけないと言っていた乳母の言葉が浮かんできたが、それすらすぐに頭の中からかき消されてしまった。恥ずかしかったが、透き通るように白いだけに思えた彼の手は思ったより大きくて、とても温かかった。 結局彼に手を引かれ、廃墟の中にまで入って来てしまった。きしむ床に一歩踏み出す度に、床が抜けて、このままどこかへ落ちてしまいそうな恐怖が襲ってきた。それでもクロは前へ進み続けた。階段を上ろうとした時、彼が一瞬立ち止まって言った。 「この階段はだいぶ古くなっていますから、まず僕が上ってから支えますね。ゆっくり登ってきてください。」 「大丈夫ですか?」 「いくら病弱でも僕だって男です。少なくとも女性を危険な場所に先に行かせたりしません。」 「あ、ちょっと待ってください。」 少しクロを待たせたまま、私は長い廊下をもう一度戻った。幸運にも、台所と思われる場所にまだ水道の蛇口が残っていた。堅い蛇口をひねり水を出し、ポケットに入れておいた紫色のスカーフを取り出した。スカーフをたっぷり濡らし、もう一度階段へ戻る。何事かと待っていたクロに、私はそのスカーフを差し出した。 「これで鼻と口を押さえて行ってください。」 「これは?」 「ここ、埃が多いでしょう。埃が鼻や口から入ればまた喘息の症状が出るのはわかりきっています。濡らした布の細かい目が小さな埃を防いでくれます。だから早くこれで鼻と口を押さえて。」 「さすが未来のナースですね。ありがとう。これでしっかり防ぎます。」 ぎいぎいと、それほど重くもなさそうな彼が上るだけで階段からはひどく危険な音がした。一段上がる度に私はひやひやしていたが、クロは最後までスカーフで顔をしっかりと覆っていた。彼について一段ずつ上っていきながら、私はだんだんとここに入ってきた時に感じた恐怖を忘れ始めていた。そしてその気持ちは、最後まで登りきった4階の古い木製の扉をクロが開いた瞬間、大きな感動に変わった。 「わあ…。」 「どうですか?ここまで登ってきた甲斐があったでしょう?」 扉は4階のバルコニーに繋がっていた。そしてそのバルコニーからは、ロンドン市内を一望することができた。ぎっしりと立ち並ぶアーケードや教会、御者が引く馬車たちと華やかな服を着た紳士淑女たち。夜も更けて、あちこちで灯り始めた光がまるで夜空の星のようにキラキラと光る。まさに宝石みたいな夜景に見入っていると、クロが笑いながら言った。 「ここは昔、私の先代が住んでいた建物だそうです。地形的に高台にあるので、ここに来るとロンドン市内が一望できるんです。」 「こんな光景、生まれて初めて見ました…。家がこんなに小さく見えるなんて、考えたこともありませんでした。夜空に浮かぶ星みたいです。夜景って言葉では聞いたことがありましたけど。」 「綺麗でしょう…でもこの綺麗な光は貧しい人たちが一生懸命生きていくためにあくせく働いている証なのかもしれません。遅くまで翌日の仕事の準備をしないと、生きていくことができないんでしょう。確かにとても綺麗だけど、あの中には僕たちには計り知れない悲しみも隠されているはずです。」 ランプの影のせいなのか、美しい夜景を前にしてもなぜかクロの表情は悲しそうだった。光が揺れる彼の顔を見つめた後、もう一度輝くロンドンの街並みに視線を戻した。この中に悲しみも隠れているってこと…?確かにその通りかもしれない、でも…。 「悲しみが存在しているからこそ、もっと美しく見えるんじゃないでしょうか?」 「え?」
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