第1話:怪しい紳士

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第1話:怪しい紳士

晴れることの少ないこのロンドンという街の中で、この路地裏は建物の間を横切る洗濯物用ロープのせいでさらに暗かった。一目で古いとわかるみすぼらしい建物と、そこに繋がる錆びた階段には、ゴミの嫌な臭いが漂う。遠くで馬が馬車を引く音を背に、薄暗い光が差し込む大通りからこっちへ近づく人影があった。 人影の正体は小柄な少女だった。光沢のあるサテン生地の青いドレスに白いエプロン、頭には白い帽子。重たそうな真っ黒いカバンを手に、しばらくきょろきょろと辺りを見回すと、少女はさっきのみすぼらしい建物の階段を軽やかに駆け上った。ドアをノックすると、中から老人の声が聞こえた。 「どちら様ですか?」 「スミスおじいさん、シュアラ・クレンバーチェです。」 「ああ、いらっしゃい。お待ちしていましたよ。近頃は雨が降るとあちこち関節が痛んでねぇ…。」 扉を開けるやいなやカビ臭さが鼻を刺激する。びっしりとカビの生えた壁、何日も洗濯していないであろう寝具。カビすら息が詰まって生きていられないであろうその狭い部屋のベッドに、一人の子供が布団をかぶったまま咳をしていた。シュアラと名乗った少女は鞄から体温計を取り出した。 「ロイ、まだ咳がひどいのね。」 「うん、咳が…ごほっごほっ…たくさん出て喉が痛いの。」 ロイ・スミス、十歳。一週間ほど前に腓骨を折っている。なんとか国立病院で手術を受けることができたものの、入院費用が工面できないために無理矢理退院させられたと記録に残っていた。まずは傷跡を消毒するために消毒用セットを取り出すと、ロイの顔に恐怖の表情が浮かんだ。 「大丈夫、消毒するだけだから痛くないよ。」 ホウ酸、過酸化水素水、イソジン…ピンセットで綿をつまみ傷口を拭き取りながら脇に挟んだ体温計を確認すると37度8分という数値が見えた。肺炎だろうか、それとも急いで退院したせいで、手術をしてからろくに休めなかったせいだろうか…。 「スミスさん、ロイは熱がありますね。まだ確かではありませんが、経過を診ないといけません。しっかりと看病してあげてください。病院からの薬はきちんと飲み続けてくださいね。」 処方箋を作成すると,シュアラは階段を降りて行った。びっしりと肩を並べる建物の間を行ったり来たりしながら、シュアラは昼食もとらず、日が暮れるまで家々を訪ねてまわった。咳のひどい人、膝の痛みで身動きが出来ない人など、様々な問題を抱えた人々ばかりで、全ての人を一人一人診てまわるのは骨の折れる仕事だった。 さらにこの街のような貧民街では、健康上の問題があってもお金がないせいで然るべき治療を受けることができず、病状を悪化させてしまうケースが珍しくない。シュアラ一人が奔走したところで、あちこちにいる患者を全て診ることはほとんど不可能に近かった。この状況をなんとかしたいのに…訪問記録をめくりながら次に訪問する家を確認していると、誰かの足跡が聞こえてきた。あ、まただわ…。シュアラは固く腕を組むと、振り返って階段の上に立っている男に話しかけた。 「あなたって、本当に暇人ですね。」 「暇なわけじゃないさ。ただ、可愛い君の顔が見たくてこうして会いに来ているのに、君はちっとも嬉しくなさそうだね。」 階段の上にいた男がぴょんと下に飛び降りてきた。この貧民街にはふさわしくない高級なスーツに身を包み、帽子まで被っているその姿は、まさに誰でも虜にしてしまうほどのインパクトがあった。キラキラ輝く赤髪に、笑うと柔らかく下がる目尻まで、何もかもが完璧。きっとこういう人を「美男子」と世間では呼ぶのだろう…。彼の外見は少女ひとりを口説き落とすのには十分すぎるほどの条件だったが、シュアラは頑として首を振った。 「ミスタークロティアス。あなたがどこの誰なのか存じ上げませんが、こうやって毎日現れて仕事の邪魔をされては困ります。」 その言葉に、男は首をすくめて渋々立ち去る素振りを見せた…が、それも一瞬の錯覚だった。思わぬ瞬間に抱き寄せられ、シュアラはきゃっと声をあげた。 「な、何するんですか!離してください!」 「どうしてわかってくれないのかな。僕たち、正式に『交際』している仲だろう?なのに君はいつも仕事が忙しいって、ろくに会ってもくれないし…。」 「こ、『交際』ですって!?こっちはちゃんと『看護』だって言ったはずです!なに自分勝手なこと言っているんですか?!」 「君は確かに僕の求愛に『イエス』と答えた。だからほら、もっと僕との時間を楽しんだらどうかな?もちろん、恋人として。」 「わ、わ、分かりましたよ!分かったから、いい加減に離してください!」 じたばたと暴れるシュアラの髪をそっと撫でると、クロティアスはシュアラを解放してあげた。真っ紅に染まった彼女の頬に触れながら、彼がまた茶化すように耳元で囁く。 「じゃあね、また会いに来るから。僕のかわいいナースさん。」 まただ…。 はっと我に帰るともうそこに彼の姿はかった。シュアラはもう一度深いため息をついた。 ああ。どうして私っていつもこうなっちゃうんだろう…?確かに、そ、その、「交際」って言葉を使ったのは私だけど、まさかこんなことになるになんて思ってもみなかったもの…。 その男、クロティアス・キエフとのいざこざが始まったのは、今から2週間前のことだった。
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