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薄暗い部屋の中で、巨大なキャンバスを前に腕を組んで座っている。
芸術家の眼が粗探しをしている。誰もが息を呑む静寂。張り詰めた気配は、この一人の男から発散されている。
彼は今、何を考えているのだろうか。
私の作品も一区切りついていたので、冷静に彼の絵を眺める余裕があった。
砂糖菓子細工のように繊細に、絶妙なバランスで盛り込まれた構図と配色。絵に疎い(美大生なのに、と言われるかもしれないが、とにかく巨匠の作品に興味がなかったのである)私にも、いい絵だということは分かった。
完璧な肉体を持った女性が、画面の中に横たわっている。十六、七歳くらいの、うら若い乙女だ。
蕩けそうな真っ白な背中を正面に向けて、片手をしどけなく身体の横に投げ出している。肌はいやらしさを感じさせない抑えた金茶。憂いを帯びた額に垂れる翠の毛髪。肩には銀糸のような淡い輝きを放つ白い布をまとっている。
まるで月の世界の人のようだった。現代の見返り美人図。振り返った顔は何とも蠱惑的だ。
幾人もの男を虜にした、地球に堕ちた罪深い月の姫。
そう、これに賛辞を述べるとすれば、
「エロいわ……」
「何だその頭悪い褒め言葉」
と言いつつも、まんざらでもない様子。
作業場が無音で何だか殺風景だったので、私はあの人がどんなに素敵かを話して聞かせた。――悲しいかな。集中している彼には多分聞こえていないだろうが。
ふとした瞬間にあることに気が付いて、私は語りを中断した。
急に黙りこんだので、彼もある意味でびっくりして私を見つめた。
「分かってるわ。あなたはこの絵のモデルの娘が好きなのね」
自分もそうだからか、何故だか分からないけれど、人様の恋には驚くほどよく勘が働いた。
ふいと顔を逸らした、伏せがちの目が恋焦がれるように潤む。その、意外に柔らかそうな睫毛が揺れて、ひたむきな美しさがあった。その唇が陶然として無音のため息を漏らす。
私たちはどちらも、片想いしていた。
秋空の下。ぼんやりとベンチに座って、手の平の中の大切なトンボ玉を眺めている。
ビー玉ぐらいの大きさで、彩度の高い水色。白いガラスを融かしこんで、周りに五つ花のような模様が入っている。
ガラス工房で眺めていると、それが欲しいの? とあの人がその場で財布を出して買ってくれたのだった。
それは決して高価なものではないし、後輩に何かを買ってあげることは、彼にとって何でもないことなのかもしれないけれど。
彼と私が釣り合うとは思っていない。
コンプレックスは沢山あって、声は低いし、おじさん思考だし、冬の日には寒くて生足もさらせない。そんな女子としては終わっている感じのする私だけれど、真剣に恋をしていた。
ああ、ずるい。誰にでも優しすぎる人なのだ。
私は決して特別ではないのかもしれない。
けれど、偶然の巡り合わせであの人が私にくれた、このトンボ玉を大事にしたい。
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