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「あなたの絵、ホテルに飾られるんだって?」
世話係認定されてから、数日経ったある日のことだった。
東京のどこかの一流ホテルが彼の絵を買い取ったのだという。例のかぐや姫だ。オーナーが惚れこんだそうだ。
これって実はすごいことなんじゃないだろうか。というわけで、こうしてお祝いを言いに来たのだった。
彼は少し放心したかのように見える。
「絵に買い手がつくのは、自分の心臓を秤に載せられているみたいだ。不思議な気持ちだ。自分の価値を値段に変える」
「そういうときはこう言えばいいのよ、『嬉しい』って」
日生くんはなるほど、というように私を見た。
あまり嬉しそうじゃない風に言うけれど。
私も絵を描く人間だから分かる。嬉しくないわけがない。そう言っているのだって本当は照れ隠しの言い訳なのだ。
「ところで、何て題名にしたの?」まだ聞いていなかった。
「『月光女』」
「やばい、腹筋割れそう」
私はお腹を抱えてしばらく笑った。堅物な彼にしてはいかしたジョークだと思ったのである。しかし彼はにこりともせず、突然笑い出した私がどうにも不可解である様子だった。
その壊滅的なネーミングセンスに引いたのは言うまでもない。
彼は覚えていないかもしれないけれど、以前、こんな話をしてくれたことがある。私はそれを個人的に『空き缶の話』と呼んで記憶している。
あの人がつれないので、大量のお酒を日生くんの家に持ち込んで愚痴ろうと思っていた。どうせ一人では何もできないのだ。暇だろう、と勝手に決めつける。
至極迷惑そうな顔をして、彼は私を迎えた。
誤算だったのは、彼がちょっと呑んだだけで酔いつぶれてしまったことだ。
「ちょっと、潰れるの早すぎじゃない!」
抗議じみた私の声が虚しく反響。
彼は寝かせてくれ、といった表情で私を見る。
目は眠そうで、熱っぽく潤んでいる。呂律も回っていない。いけないことをしているような、ちょっと危ない気持ちになりかける。
そんな中で彼がこんなことを話したのは、普段ならそんなことを言い出しもしないだろうから、酔った勢いだったのだろう。
机の上に、私が空けた様々なお酒の空き缶が並んでいる。それら一つひとつを指差しながら、
「俺は人間の見分けがつかないんだ。この空き缶みたいに。その大きさは分かるけれど、個性を識別できない。というか人間に興味ない。お前だって区別がつかないだろう?」
「何言ってるの日生くん。それはビール、それはハイボールよぅ。見分けつくじゃない」
翌日怒られると覚悟していったものの、肝心の本人が何も覚えていないと言うのだから、吹き出してしまった。
――彼がいなくなってしまった今だから、正直に白状するけれど、私はそれからたびたび日生くんを酔いつぶした。そして私は彼自身が思っているよりも沢山のことを知っていたのだ。
泥のように酔わせる。
今や、彼は開かれた水門と同じだった。訊かれたことは何でも話してしまう。
彼の好きな人について色々と問い質した。気になったからだ。
――あの目。
彼の才能を崇拝のレベルで信じている。
それに加えて、日生央真という画家は私が育てる、と言わんばかりの気概に満ちていた。自分の美に対する圧倒的な自負を感じる。だからその男の前で、どんなポーズだってしてみせる。
その女の正体を、私は知りたかった。
「どのくらい好きなの」
「結婚したい」
顔を赤らめて彼は言った。
しかし、どうしても訊けなかった質問がある。
別にどうこうするというわけでもないのだが、その女の名前を訊き出そうとすると、急に彼の目に理性が戻り、教えてくれることはなかったのだった。
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