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「いえ、時間通りですよ。では……行きましょうか」
やや固い表情のまま、伊織さんがにこりとしてみせた。敵陣に乗り込むスパイの緊張だろう。
そう思うと私も喉がカラカラになっていく。
気を付けないとあっという間に熱中症になりそう。
「あの、お水買ってもいいですか」
キオスクを振り返ると、伊織さんが、ちょっと待って、と私を止めた。
「これ、どうぞ」
とショルダーバッグからまだかなり冷たい水のペットボトルを渡してくれた。もちろん、開封されていない。伊織さんは自分の分を取り出し、口をつけた。私の分を事前に買ってくれていたようだ。
「ありがとうございます」
小さなことだけど、優しさにキュンとする。
「暑いですから」
と、伊織さんは短く答え、歩き始めた。賑やかな駅前から少し離れると商店街があり、そのさらに奥へ進むと、マンションと戸建ての家が並ぶ住宅地。空が霞むように青く、ほとんどない日陰を選んで進んでいく。
「誰もいませんね」
陽炎が立つほどに熱いアスファルトの道。
歩いている人影はなく、イベント開催日とはとても思えない。
「この先の信号を左、のようです」
道はゆるやかにカーブしており、進むと伊織さんの言うとおり、信号があった。左折すると一軒の古めかしい家に張られた横断幕が目に飛び込んでくる。
<葬儀場建設、断固反対!!>
黄色地に、黒々と大きな文字。風雨でかなり色褪せているから、長年ここに掲示されてるようだ。
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