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妙な空気を作って気まずくなるのが一番イヤだ。私は軽い咳払いをして頷く。
「はい、そうしましょう。上から回りますか?」
そこへ、すうっと影が差し、コツリ、と靴音が鳴った。反射的に身を縮めたのとほぼ同時に、背後から声がかかる。
「あっれー? 見たことがある顔だなあ」
伊織さんの目が大きく見開かれていく。入り口に到着したばかりでバレてしまうなんて。
でもちょっと待って。
落ち着いて考えるとどこかで聞いたことのある声だ。チラシで顔を隠しながら、そっとうしろを振り向くと。
「紫藤さん!」
生花担当の美人スタッフ、紫藤さんがブラウンのタンクトップに黒の七分丈パンツ姿で立っていた。普段はポニーテールにしている豊かな髪は、ゆるく編み込みにしている。胸元には、ターコイズのネックレス。
手元には、不織布製の特大バッグを持っている。コートなどを買った時にお店がくれるものだ。すでに中身が入っているようだけど、野菜でも買ったのだろうか?
紫藤さんは、目を丸くして口元を手で覆う。
「やだ永ちゃんってば、輪花ちゃんを誘ったんだ。そういえばこの前、式場で話してたもんね」
「そうですが、何か?」
伊織さんは、紫藤さんと長い付き合いらしく、彼女には不機嫌そうな顔を見せる。
「清水くんじゃなくて?」
「清水は今日、当直です」
「権藤さんでもなくて?」
「権藤さんは神保町で古地図関連の会合です」
「じゃあ、仕方なーく、輪花ちゃんを選んだの?」
紫藤さんは食い下がる。
「どうして、西宮さんを選んだ理由をあなたに説明しなきゃいけないんですか」
伊織さんのイライラした顔を、彼女は明らかに面白がっている。自動ドアが開き、入ってきた男性が、あ、いたいた、と紫藤さんを手招きした。その彼を紫藤さんが逆に引っ張ってくる。
「輪花ちゃん、紹介するね。志月くんです。うちの旦那様」
紫藤さんより少し背の高い、よく日に焼けた男性だ。おでこが狭くて、二重の瞳が大きく真面目そう。ペアルックなのか、カーキのTシャツに黒のハーフパンツを履いている。襟元には洒落たサングラス。
「どうも、妻がお世話になってます。永汰くんとは、結婚式以来だね」
「お久しぶりです。ご近所、でしたっけ? まさかいらしているとは」
「ゆりが、自転車で行けるからって言うので」
と志月さんは頭を掻いた。
「野菜も安いし、これも処分できるしね」
と紫藤さんはショッピングバッグを軽く持ち上げた。
「あ、これ野菜じゃないんですか?」
と私が尋ねると、
「違うの。いま断捨離中でね。これ、ゲーセンで昔取ったんだけど、捨てるに捨てられなくて」
と袋を広げた。
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