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「母さーん、なんか電話鳴ってない?」
洗面所で髪をセットしていた弟、朔太郎がぼーっとした声で叫ぶ。
母に睨まれたのか父が電話を取る。社員さんが何かの確認でかけてきたのだろう。
神経質な性格の弟は、鼻水だらけの姉には近づくのも嫌らしく、私を見るなり、
「社長令嬢の顔じゃねえな」
と罵ってきた。
「うるっさい」
よろよろとリビングのテーブルに近づくと、私が午前中に寄り分けた万里江ちゃんの写真と年賀状が広がったままになっていた。葬儀屋さんに頼んで机を借りて、式場に飾りたいと思っていたのだ。
今年の年賀状は少しだけ不思議な内容で、いつも茶目っ気に溢れていた叔母らしさがよく現れている。
『あけましておめでとう
今年は、季節をひとつ飛び越えていこうと思います。
春になったら一緒にお花見をしましょう。
みなさんにとってもよい一年になりますように』
季節をひとつ飛び越える。
これを書いた昨年末。彼女は自分が死ぬことなんてまったく想像もしなかったのだろう。
肺炎をこじらせて、40代半ばでこの世を去るなんて。
巡ってきた春を飛び越すどころか、彼女は迎えることすらできなかったのだ。
そんなことを考えると、また涙があふれてくる。
納棺式の時間まであと2時間。
何もしなくてもあっという間にすぎていく。そして何をしたらいいのか、思いつかない。
「お花……」
棺に入れる花を買ってこようか。でも、万里江ちゃんが好きな花は、夏の花が多い。アジサイ、百合、ヒマワリ。もちろん今の季節の桜も好きだったけれど。
またため息をついてハガキに目を落とした。ボールペンで書かれた文字は、本人に似て、儚げに細い。
美容室へ向かう母と別れて、一足先に父と私、それから朔太郎は車で葬儀場へ向かった。都内でも下町の雰囲気が残る江東区。叔母の家から近い場所を父は選んだ。
叔母が住んでいたのは現代美術館があるエリアの古民家だ。小さいけれど庭もある、かわいい家だった。今日はその家に寄らず、まっすぐ式場のある建物へと車は進む。
駐車場入り口で小柄な警備員が車を誘導してくれる。
車から荷物を降ろして建物の前に視線を向けると、いつの間にか、すらりと長身の男性スタッフがこちらへ向かって背筋を伸ばして立っていた。
病院から叔母を搬送したスタッフとは違う。
父を見ると、
「伊織さん」
とほっとしたように彼へ呼びかけた。
「西宮様。お疲れ様でございます」
顔と名前がお互いわかっているところから、きっと彼が打ち合わせの担当者だったのだろう。
「よろしくお願い致します」
「こちらこそ宜しくお願い致します。まずは式場とお控室へご案内致します」
どうぞ、とエレベーターのボタンを白手袋をはめた手で押してくれる。
「お先に、故人様のご家族とおっしゃる方が一名様ご到着されております。式場にお通ししております」
エレベーターの中で伊織さんが言うと、私たち全員が顔を見合わせた。万里江ちゃんは独身だったので、身内は私たちだけのはず。母が私たちを追い抜くはずもない。
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