1.あなたのいた季節

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「あら、お客様」  黒いパンツスーツを着て、ダークチェリーの口紅の派手めな化粧。だが、すらりと背が高く、皺こそあるが目鼻立ちがはっきりしている。明るいベージュに染まった髪。ふんわりと前髪は巻かれ、後ろは短めのボブショート。若い頃はさぞや美人だったろうと思わせる風貌だ。 「すみません、非常口を確認しないと気がすまなくて」 「いえ、こちらこそ失礼いたしました」  にっこり、と笑うと艶やかさが増す。それ以上の口を挟ませないオーラも放たれていて、私はつい非常口を閉めた。  ああ、びっくりした。  どうやら式場のスタッフさんのバックヤードに足を踏み入れたらしい。勤め先の薬局も、ビルの外階段に喫煙所が追いやられている。どこも似たようなものなのだろう。扉が開いていたのは、おそらくオートロックで中からしか開かない仕様なのだ。タバコを吸う人が締め出されないように、段ボールを挟んで使っているのだろう。  扉はすぐに開くようだったので、安心して控室に戻る。途中で、ちらりと「お清め場」という札の出ている部屋をのぞく。  式場の様子が映るモニターが天井の一角から釣り下がっており、小日向さんはそれをぼんやり眺めていた。といっても、すでに式場の支度はほぼ済んでおり、モニターのなかには誰もいないし、動きはない。恐らく、彼の目のなかに映っているもののほとんどが意味をなしていないのだろう。 「小日向さん」  声をかけると身体のなかで何かが弾けたように、びくん、と肩が動き、ぱっと振り向いた。 「……ああ、輪花さん」  私だとわかると、ふにゃふにゃと崩れるような笑みを見せる。 「すみません、驚かせましたか」 「ああ、こちらこそ、ごめん。声が万里江に似てたんで。やっぱ血がつながっているからかな。まだ、地下に行かなくていいんですか」  地下で納棺をすることを知っているらしい。 「ええ、もうすぐ呼ばれると思います。あ、小日向さん、お荷物、どうされますか?」  通路をふさぐように、馬鹿でかいスーツケースが置かれている。大きなテディベアがふたつくらい平気で入ってしまいそうなサイズ。 「ああ……、家にも寄らず来てしまったからなあ。ここ、クロークはないみたいだし」 「ご自宅に一度もどられますか?」 「いえ。お恥ずかしながら、もう動けなくて。万里江のいない家を思っただけでも……今夜もできれば、ここに泊まりたいくらいですが、それはさすがにご迷惑だと思うので、式が終わったら帰ります」 「じゃあ、親族控室に置かれては? 鍵をかけちゃいますけど、お帰りのときまで使わないものは置いておけますよ」 「ああ……ここじゃ確かに通路をふさいで邪魔かもしれませんね。では、お父様にご迷惑でないか、聞いていただけますか」  わかりました、と私は控室へ戻り、父に、 「ねー、小日向さんのスーツケース、ここに置いてもいいかな?」  と聞いてみる。 「ああ、そうだな。持ってきてさしあげなさい」  と、父。最初から断るはずがなかったのだけど、あとから考えると、このときの判断が、この通夜に大騒動をもたらすことになったのだ。  が、当然まだ誰もそんなことは予想だにしていない。  私はお清め場にとって返し、小日向さんと一緒にスーツケースを和室へ運んだ。スーツケースは押入れと反対の壁に押し付けるように置かれたが、それでも存在感がある。 「あ、使う物は出しておかないと、ですね」  小日向さんはスーツケースをがばりと開いた。そうすると、畳まるまる一畳分くらいだろうか。きれいにパッキングされ、バンドで留められた荷物のなかから、いくつかの品物を取り出し、小ぶりのワンショルダーポーチに納めた。  そこへ、伊織さんが和室の扉をコンコン、とノックした。
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