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母はエレベーターホール正面のガラス製レリーフに向かって立っていた。後れ毛を気にしているらしい。喪服は母のややふっくらしてきた体形にぴったり合うように着つけられていた。和装には寸胴体形が似合う、というが、母はいま、ちょうどその理想形なのだろう。どこかどっしりしていて、きれいだが迫力がある。
「お世話になります」
伊織さんには殊勝に頭を下げた。まあ、わからなくもない。どの世代の女性だって、伊織さんのような美形を観たら、嬉しくなるはずだもの。
「こちらこそ宜しくお願い致します」
「納棺はどのくらいかかるのかしら?」
「だいたい目安は1時間ほどです」
「けっこうかかるのね」
「ええ」
あえて、何故時間がかかるのか、について、伊織さんは述べなかった。母も突っ込みはしない。
通された湯灌室は奥半分が一段高くなった畳敷き、手前半分は椅子席、というつくりになっていた。畳には白い布団が敷かれ、浴衣姿の万里江叔母が、瞳を閉じて横たわっていた。軽く閉じられた唇が青ざめていて、思わず目をそらしたくなる。胸元に組合わさった手の指が、ただそれだけで痛々しい。
その傍らに納棺士さんらしき、白い看護服のような服を着た男性と女性がひとりずつ、正座をして待っていた。
父が、ああ、と深いため息をつく。私は改めてショックを受けていた。平静を装っていた朔太郎も、そしてあまり感情を見せなかった母も、声にならない声をあげ、目に涙を浮かべた。
納棺士さんが、私たちを椅子に座るよう促した。名前を名乗り、説明を始める。
「湯灌とは、古来この世の穢れを遺族の手によって洗い流し、清い体でお浄土へ旅立つために行われてきました……」
簡単なフレーズも頭に入ってこない。目の前の光景に思考が追いつかないのだ。器用に肌を見せぬように浴衣を脱がされた万里江ちゃんが風呂桶の中に横たえられていく。気が付くといつのまにか、母から柄杓を渡され、
「左手でかけるんだって」
と囁かれていた。恐る恐る前に出て、お湯をかけてあげる。ガーゼ越しに見える豊かな体の曲線は、まだひどく健康そうに思える。何かの方法があれば、魂がここに返ってくるのでは、などと思ってしまう。けれど、青ざめた叔母の顔は、柄杓のお湯を掛けられても、冷たく強張ったままだ。
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