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グランドの端に着いて、ようやく二人は止まった。
はあ、はあ、とお互い息を切らせ、芝生に寝転んだ。
「速いな……どうしたんだ。それに……三島天狗と。こっちに来てから、その呼び名のこと、誰にも話してなかったのに」弥彦が尋ねる。
「思い出したんだ。俺、大学で、陸上やってたんだ」
えっ、と弥彦は上半身を捻り、賢斗を見た。
「弥彦のことも、思い出した」
「僕を、知ってるのか……?」
「天狗倶楽部の三島弥彦。日本初の、百メートル走オリンピック選手。そうだろ?信じられないかもしれないけど、俺は、百年後からタイムスリップしてきたんだ」
「タイム…スリップ?タイムトラベルのことか?そんなの、小説の中でしか……」
「でも、俺は弥彦のことを知ってた。それに、これから話すことを聞いてくれたら、きっと信じてくれると思う」
賢斗は、ぽつぽつと、語り始めた。
それは、祖父の部屋に飾ってあった一枚の写真から始まる。
「じいちゃん、こんな写真、前に来た時飾ってたっけ?」
「ああ、それか。賢斗がこの家に来たのは久しぶりだったなぁ。それは北京オリンピックの後から飾ってるんだよ」
理由を尋ねると、祖父のベンはこう教えてくれた。
「私のグランパ(祖父の意)がね、百年前のストックホルムオリンピックに出場したんだ。短距離、百メートル走。グランパが走った時、一緒に走った選手の中に日本人選手がいたんだ。彼は三島弥彦といってね。日本人で初めてオリンピックに出場したのはたった二人の選手だったんだが、そのうちの一人だったのさ」
「当時は、日本人、いや、アジア人は体が小さかった。三島さんも他の選手たちより頭一つ小さかった。でも、一生懸命に走る三島さんの姿にグランパは感銘を受けてね。選手控え室で声をかけたらしいんだ。
『君の走りは素晴らしかった』と。
その時、三島さんは言ったそうだよ。
『いえ。日本人に、短距離は無理なようです。百年、早い』
とね」
ベンは写真を手に取ると、写っている人物を指差した。
「これがグランパ。こっちが子供の頃の私。そして、右にいるのが三島さんだ。一度だけ、家族で日本に行った時に撮ったものだ。北京オリンピックで、日本人が四百メートルリレーでメダルを取っただろう。ぜひ、三島さんに教えてあげたくてね。久々に写真を引っ張り出してきたんだよ」
賢斗はそこまで話したところで、弥彦を見た。
「『三島さん、あなたの言う通り、百年後、日本人は確かに短距離走で世界に通用するレベルになりましたよ』って、じいちゃん、嬉しそうに写真に話しかけてたよ」
弥彦は仰向けになって空を見つめている。その目には、僅かに涙が浮かんでいた。
「百年後、日本人は、短距離でメダルを取れるのか?本当か?」弥彦は声を震わせた。
「ああ。リレーだから、一人の力じゃないけれど。でも、日本人が力を合わせて、メダルを取ったんだ。俺に言わせればそっちの方がすごいし、感動的だ。弥彦が踏み出した第一歩を、百年間バトンを繋ぎ続けて、ちゃんと結果を作ったんだ」
弥彦は口をぎゅっと結んで、答えない。
「それにどうでもいいけど、俺、ハーフだと思ったらクオーターだった。西洋人の血はじいちゃんの分だけ。あとは日本人だ。そんな俺が、オリンピック選手でもなんでもない俺くらいのやつが、大正時代の日本最速の男・三島弥彦と互角のスピードで走れるんだぜ。百年後の日本人、捨てたもんじゃないだろ?」
弥彦はがばっと起き上がった。
賢斗も、つられて体を起こす。
「ありがとう。もしかしたら、賢斗は、それを僕に伝えるために、来てくれたのかもしれないな」弥彦は、未だ目に涙を浮かべながら言った。
「ああ。俺も、そんな気がする」
二人はがしっと互いの手を握った。まるで腕相撲でも始めるかのように、しっかりと。
すると、段々と、賢斗の手が色を失ってきた。
手だけではない。肩も、胸も、顔も、足も、実体を無くし、透明になっていく。
「賢斗!」
弥彦は化け物でも見たような顔をしたが、賢斗は微笑んだ。
「お別れだ。やっぱり、弥彦にこの話をするために、それに、弥彦と一緒に走るために、きっとひいひいじいちゃんが俺を飛ばしたんだろうよ」
弥彦はくしゃっとした笑顔を見せ、頷いた。
「ありがとう」
賢斗もにこりと微笑み、こくりと首を振った。声は、もう出なかった。
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