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澄んだ声が 聴こえる
歌ってる
ダウンタウンを 黒のヴェールで覆う
やさしい夜の向こうから
歌っているのは誰だろう
この歌は レクイエム
誰かのための 祈りの歌
カイが目を覚ますと
宙ぶらりんになった ロールカーテンの下から
やわらかな陽ざしが射していた。
部屋の天井で、4枚羽のファンが
いつもと同じリズムで回っている。
「あ~~・・ またやっちゃったかぁ・・ 」
くしゃくしゃになった、
ニホン人にしては栗色の前髪を 指でかき上げて
アイボリーのソファからゆっくりと起き上る。
昨晩は遅くまでアトリエで パステル画に没頭していた。
ちょっとソファでコーヒーブレイクのつもりが
いつの間にか朝・・
いや、もう昼なのかも。
一人暮らしのカイは、描きたいときに絵を描き、
食べたい時に食べ 寝たい時に寝ていて、
つまりは、何十時間も 飲まず食わずで描こうと
何日も寝コケていようと自由なのだ。
気づけば アトリエの床に転がって朝を迎えることも少ない。
NYのダウンタウンにある、イーストヴィレッジの7丁目に住んで2年。
日本語で説明するなら 彼は、プータローもしくはニートである。
母方の叔母が マンハッタンのミッドタウンに住んでいて、
この部屋は彼女の持ち物だ。
彼はこの部屋の家賃代わりに、月に一度
自分の作品を彼女にプレゼントする。
というのは名目で、元気なカオを見せに行くことになっている。
この物価の高いNYで家賃の心配がナイなんて、かなりの幸運。
そして生活費は、子どもの頃からの稼ぎの貯金と、
ストリートアートでのチップが少々だ。
ロールスクリーンのカーテンを上げ、窓から空気を入れてみる。
今日から12月。
晴れた空にキンと冷たい空気が張りつめて、肌を刺すこのカンジ。
東京では味わえない この緊張感にも似た温度がイイ。
セブンス・ストリートの街路樹の枝が 陽ざしを宿して光っている。
カイの耳の奥で、さっき見た夢の中の誰かの声が
残り香のように 小さく響いてる。
あの透明な歌声は誰だろう。
オトコの声だったか、女性のものだったかも定かでないが、
少し掠れたハスキーボイスに、光の粒がきらきらと
碧にもレモンにも 桜色にもプラチナにも輝く 独特の響き。
「どっかで聴いた歌だったかな・・ ?」
思い出そうとしても思い出せない。
メロディーも歌詞も忘れてしまった。
そもそも夢の中の歌に歌詞はついていただろうか。
でも、あの音は確かに知っている。
――体の細胞が覚えてる・・ 、みたいなカンジかな・・。
ねぼけたアタマのまま冷蔵庫を開けると、
ミネラルウォーターにジュース、ワイン、チーズのかけら、
そして普段は使わない調味料が居座っているだけ。
仕方なく、Tropicana のオレンジジュースを
コップに注いで飲み干すと、
ひとかけら残っていたチーズをかじってシャワーを浴びた。
熱めのシャワーが、気持ちよく眠気を洗い流してゆく。
バスルームの壁に貼られた、
藍色だけで模様が手描きされている 白いアンティークタイルが
カイのお気に入りだ。
大きなタオルで髪を拭きながら クローゼットを開く。
Vネックの薄いカシミアのセーターに袖を通し、それから髪を乾かした。
先週フリマで買った 春用の麻のコートをはおる。
桜の枝で染められたという その薄いピンクベージュの生地に
一目ボレして買ってしまったこのコートの、
その季節にはまだ及ばないが
なんだか今日はそんなキブンなのだ。
そしてもう1枚コバルトブルーのロングコートを重ねて
カイは玄関を出た。
アパートメントの階段を上がって、
真上の部屋である403号室の カギを開ける。
ココは女優である友人のローズの部屋だが、
今彼女は旅公演の巡業中で、
カイは彼女が飼っている
2匹の黒猫のエサやりを仰せつかっているのだ。
「モーニン、 キティちゃん達。 ゴメンよ遅くなっちゃって」
テーブルに置いてあるキャットフードを パラパラと皿に入れてやり、
水を変える。
バスルームにセットしてある猫用のトイレを キレイにしてやって、
エサよりもじゃれついてくる猫たちと、オモチャでしばし戯れる。
「いいなあ 黒猫・・。 ボクも欲しいなぁ~」
が、空腹には勝てなかった。
やや後ろ髪をひかれつつ、
今度は自分のブランチのために外に出る。
アヴェニューBにほど近いカイの家から、アヴェニューCへ。
風が、カイの髪を踊らせながら通り過ぎてゆく。
空が広い。
冬ならではのアイスブルーがいっぱいに広がる、ダウンタウンの空。
――ああ、いい色だ ・・・ !
カイは元々、
アートスクールの留学生としてNYに来た。
日本にいた時の彼には、
子供のころから 歌舞伎役者という肩書がついていた。
が、双子の妹を事故で亡くしたことがきっかけで
心のバランスを崩し、
舞台に立つことが できなくなってしまったのだ。
そんな彼を見かねた母親が、
妹のいるマンハッタンに 彼を送り込んだ。
最初はほぼスクールへも行かず、
家にこもって 絵ばかり描いていたカイだったが、
ひょんなことから 路上や路地裏の壁に
チョーク画を描きはじめた。
そのうちカイの描く天使のチョーク画は
ダウンタウンで知られるようになり、
街中を捜せば、もう天使画が100体はあるという。
カイ自身、ちゃんと数えたことはないが、
どこかのヒマな記者が数えて、
NYのフリーペーパーに紹介されたことがあるのだ。
アヴェニューCを曲がると、通り沿いにいくつかカフェがある。
この辺りの住人に向けた 小さな店ばかりで
春になれば、通り沿いのテラス席は
気持ちのいいオープンカフェになる。
ああ、春が待ち遠しい。
「ハイ ハニー」
通り過ぎようとするカイに、
アパートメントの1階にあるその店の
ガラス窓の向こうから、
クチパクで声をかけてきたのは カトリーナだ。
白く輝いて見える銀髪に、お花のヘアピンをつけた、
いつも可愛らしい老女である。
今日のブランチはココで決まりだ。
「モーニン カトリーナ。」
「モーニンですって? もうお昼よ、ハンサムさん。」
窓越しにそそぐ やわらかな陽ざしのなかで、
わざと目を丸くするカトリーナ。
「ああ、ステキな薄紫だね。よく似合ってるよ」
彼女の耳たぶに揺れている アメジストのピアスのことである。
こんなちょっとした誉め言葉のやり取りは、
彼女から学んだ グッドコミュニケーションのワザだ。
頬と頬でキスをして、彼女の向かいの席につく。
この老婦人にとってカイは孫のようなモノなのだ。
カイの注文は
薄くスライスされたチーズとサーモンを挟んだオニオンベーグルと、
たっぷりのクリームチーズを塗りたくったブルーベリーベーグル。
この店ではいつも同じ。
ユダヤ系移民のマスターが経営するこの店のベーグルは、
他より固めのモチモチ感がクセになる絶品だ。
そして、分厚いオフホワイトのマグカップに
なみなみと注いである熱いコーヒー。
NY中のカフェで使われている、ポピュラーなマグである。
「こんな時間に起きてきたのでは、昨夜は絵に没頭してたのね?
夕食もろくにとってないのでしょう?」
カトリーナが自分の皿の上にあったスコーンに
真っ白な生クリームとジャムをこれでもかと塗りたくり
カイの皿の上に乗せる。
「若者はたくさん食べなきゃいかんぞ!」
隣のテーブルに座っているミスター・ラウンドグラス
――ジョン・レノンのような丸メガネをしているので
そう呼ばれている―― が、
ニュースペーパーの端っこから顔をのぞかせて、ウインクをする。
まるで親族の子どものように扱ってくる、カフェ常連の老人達。
初めて会ったその日にも、
カトリーナは今日のように声をかけてきた。
うつむきながら通りを歩く、心ここにあらずのカイに
カフェのテラス席から、
「ハイ ハニー?」と、長年寄り添っている親族のように。
ニューヨークは不可思議な街なのだ。
プライバシーの境界線をガッシリ引き、
人のことなど全くの無関心かと思えば、
通りすがりに 人懐こい笑顔を投げかけてくる人もいる。
カイも、どれだけ救われたことだろう。
ユダヤ、イタリア、オリエンタル、ヒスパニック、
インド、中東、欧米、
ざっと数えただけでも
こんなに沢山の民族が、それぞれの宗教や思想、
主義主張の中で暮らす街なのに、
見えない網目が どこかとどこかを繋いでいて、
誰かが誰かを助けている。
日本でいう“縁”というものが、なぜか色濃く感じられる街なのだ。
この街に来た時には 決して穏やかではなかったであろう時代を
生き抜いたからこその、
今は穏やかな老人たちと過ごす
たわいないおしゃべりの時間が
カイには大切な 安らぎのひと時だった。
カトリーナの上品な声が
まるで絵本でも読んでいるように語る、
もうすぐやってくるクリスマスの事、
毎年ニュージャージーに住んでいる
息子夫婦の家に招待されること、
4人の子どもと孫が9人、ひ孫が3人いること、
もうすぐ生まれてくる次のひ孫のために
ケープを編んでいること。
初めて聞く話、何度となく聞いている話。
カイの目の前で、一目一目編み上げられてゆく
オフホワイトのケープ。
ゆったりと流れていく、なんでもない時間の中で
ときどきカイの胸に、かすかな痛みと共に、こんな言葉が浮かぶ。
――いいのかな ボクだけこんなに幸せで・・・
そんな時はひとつ息を吐いて、視線を窓の向こうの空に移す。
そして口角を7ミリ上げてみる。
――大丈夫。 ちゃんと、ボクは生きてるよ ・・!
それは、2年前に天に旅立った妹へのメッセージだ。
過去は変わらない。 変えることは不可能だ。
でも、“今”なら変えられる。
悲しみにのまれたまま、モノトーンの世界に暮らすのか
ひとつひとつ色を加え、世界を彩り豊かにしていくのか。
カトリーナ、ミスター・ラウンドグラス、
ショウゴ、ジェシー、BJ
ここで出逢った彼等が
白黒の世界にいたカイに ひとつひとつ色を加えてくれたのだ。
「あらあら また間違えちゃったわね・・・」
そういって毛糸をほどくカトリーナの
皺だらけの手が優しく語る。
人は、何度でもやり直せるのだ、と。
だから・・。
―― ボクは生きるよ、ヒナ。
ここで見つけた美しい色の数々を、キミからも見えるように
街中に描きながら。
「ところで、私の頼んだ絵はもう描けたかしら?」
「ああ、昨日、途中までで寝ちゃったんだ~。
もうちょっと時間をくれるかな?」
「もちろんよ カイの絵は大好きだもの
待つのも楽しみだわ」
「ありがとう 今日はもう行くよ」
2杯目のコーヒーを飲み終え、カイが立ち上がる。
「楽しみにしてるわね」
そのやわらかな声に、カイも
ミスター・ラウンドグラス譲りの ウインクで応える。
イーストヴィレッジに吹く
12月の風が こんなに頬を冷たくしても、
彼女たちと逢ったあとは、いつも胸が暖ったかい。
街のショーウインドーはもうクリスマスだ。
――あ、そうか・・。 みんなにプレゼントを買わなくちゃ!
去年のクリスマスはショウゴの店で過ごした。
ショウゴというのは、13丁目にある多国籍料理を出す
レストランバーの店長だ。
ホリデーシーズンには毎年、
スタッフや常連客に 手作りケーキをふるまい、
メモ帳や靴下なんぞの、ささやかなプレゼントを
全員に用意してくれるような
みんなのおっかさん代わりとも言えるオネエである。
去年はショウゴご自慢のターキーの丸焼きを食べすぎて、
次の日みんなで胃薬をのんだっけ。
アンティークショップや雑貨屋を見るために、
8丁目のセントマークスプレイスに向かう。
セント・マークスプレイスの通り入る角の路上に、
カイの描いた天使画があった。
人の実物大くらいのサイズがあるこの天使は、
カイの作品の中でも力作だ。
3人の若い女性観光客が立ち止まり、
きゃいきゃい騒ぎながら
天使が一緒に入り込むように記念撮影している。
天にいる妹のために描いた天使が
道行く人を楽しませているなんて。
そんな風景がまた、カイの心にひとつ
明るい色を加えてくれる。
カイは彼女たちの傍らを 素知らぬカオで通り過ぎた。
心の中で「Thank you!」と つぶやきながら。
行きつけの、古着・雑貨店を覗き、
ジェシーのブラウンヘアによく合いそうな飾りピンと、
日本びいきのキースが喜びそうな
「一番」と刺繍してあるリストバンドを購入した。
――ショウゴさんには、何がいいかな?
彼には、ちょっと特別なモノを贈りたい。
グリニッチヴィレッジの小路にある
レース編み専門店の前を通ったとき、
いつだったか、ショーウインドーに飾られた
シルクの手編みドレスを見たショウゴが、
眼をハートにしていたコトを思い出した。
――ココはどうだろう・・?
店に入ってみたものの、セーターも帽子も女物ばかりで、
ガタイのいいショウゴには合わないものばかりだ。
そもそも、レースやお花が大好きでも
ショウゴは女装家ではナイ。
私服もいたってシンプルなTシャツにジーンズが常である。
ベテランを伺わせる年配の白人女性店員が笑顔で、
カイのところにやってきた。
「ハァイ」
「男性が付けられるものはあるかな?」
「うちは全部手作りなのよ
だからなんでもオーダーできるわ!」と
彼女の手が自慢げに 店の奥のアトリエを示す。
「へえ~。 どうしようかな
プレゼントを考えてるんだ。
男性だけど、心は乙女なんだよ」
店員はお任せ下さいと胸を張り、
いくつかアイデアを聞かせてくれた。
ノートにさらさらとセーターやスカーフの図案を書いていく。
アイデアが形になって行くのを見るのは
ワクワクする出来事だ。
あまり大がかりでない方が、
ショウゴも気を遣わなくていいだろう。
けっきょく、カイは蝶ネクタイをオーダーした。
シルクのレース編みの蝶タイなんて、
きっとショウゴさん喜ぶだろうな。
一週間後の出来上がりを待つことにして、
カイはうきうきと店を出た。
いつのまにか辺りは夕暮れだ。
薄手のコートでは、2枚羽織っていても
さすがに寒くなってきた。
あ、イケナイ、洗濯物がたまってたっけ。
配水管が整備されていないニューヨークのアパートメントでは
洗濯機をおく設備などなく、
カイもまたご多分に漏れず25セント硬貨を握りしめ、
コインランドリーに通う身だ。
部屋に戻って、たまった洗濯物を大きな袋に詰め、
今度はツイードの冬用ロングコートをはおって外に出た。
2ブロック先のコインランドリーに入ると、
先に来ていた客が 洗濯物を畳むためのテーブルの上で
タロットカードを広げている。
自分の洗濯物が 仕上がるまでのヒマつぶしらしい。
「あれっ・・? ローズ?」
長いソバージュの髪をアップにしているので分からなかったが、
振り向いたそのカオは、
確かにカイの部屋の上に住んでいる、
巡業に出ているハズの女優その人だった。
「あら、カイ! サンタクロースかと思ったわ!
ただいま。 子猫ちゃんたちがお世話になったわね」
彼女はそう言って、大きな袋を抱えたままのカイにハグをする。
「いつ帰って来たんだい?」
「今日の昼よ。 見てよ~~この洗濯物の量っ!」
ローズはうんざりした顔で、
回っている2台の大型洗濯機を指差した。
カイも微笑みで応えつつ、洗濯物を隣のマシンに放り込む。
「どうだった?ツアー公演は」
「アメリカ中をずっとバス移動なのよぉ?!
お尻が痛いったら。
もうちょっとギャラが高けりゃいいのにさ!」
ぶつくさいいながらも、
彼女の疲れたカオの下に溢れている充実感。
こういうローズを見るとカイは嬉しくなり、
そしてちょっと切なくなるのだ。
ローズは子どもも家族も国も捨て、
ブロードウエイ女優になるため、1人この街にやって来た。
一方でカイは梨園の家に生まれながら
運命づけられた舞台を自ら降りて、ココに来た。
そしてただただ 路上にチョークで絵を描き続けている。
ウエイトレスとして食いブチを稼ぎ、
日々オーディションで振り落とされながらも、
舞台にしがみつき続ける彼女に、
カイはなんだか後ろめたさを感じてしまうのだ。
それぞれが選んだ道であり、
そんな想いは、ム意味なのだと知りながら。
「カイも占ってあげるわ! カードを混ぜて?」
このローズと言う女は、
生まれ育ったイングランドのお国柄なのか
占いだのハーブだのが大好きで、
ちょっとミステリアスな女である。
カイの部屋に香っている樹木系のアロマも
彼女からもらったものだった。
「ここからカードを引いてちょうだい」
カイの選んだカードを手際よく並べて
暫く見つめ、ローズはうなった。
「“運命の輪”だわ・・!」
「運命の輪?」
「そう! もうすぐアナタの運命を変えるような
何かがやって来るのよ~?!」
彼女は芝居っけたっぷりに、胡散臭い占い師を気取った。
「アハハッ いい兆しかな?」
「思いがけない収入とか・・運命的な出逢いとかね!」
「ふぅん・・ 出逢い?」
その後も、ローズは過去や未来について
色んなことを言っていたが
カイは気持ちよく忘れてしまった。
洗濯を終え、乾燥機を開けると
お日様に温められたような
ランドリー洗剤のニオイがむあっと広がった。
うん、乾き具合もいいカンジ。
ローズとダベりながら服をたたんで店を出た頃には、
晴れ渡っていた空は すっかり雲に覆われていた。
雪でも降り出しそうな空気の匂い。
雪が振るといい。
街をすべて真白く覆う雪は、
何もかもをリセットし、ゼロに戻してくれるから。
そうだ 空の続きを描こう。
花を抱えた天使を加えて、
カトリーナへのクリスマスプレゼントに間に合うように。
思ったとたんに、1分でも惜しくなる。
「ローズ、ボクちょっと先に行くよ」
「あらあら、またスイッチが入っちゃったのね!
どうぞどうぞ、若者よ!」
アパートメントの階段を一段飛ばしで上るカイは、
もう夢うつつだ。
大切な人の喜ぶカオが好きだ
ささやかなモノでいい
美しい物を紡いでいたい
雪も 星も 海も 虹も
この世界の美しさを 美しいと
生きているこの体ごと カンジていたい
悲しみや不安を数えたら キリがないから
もし 明日天使が迎えに来て
世界を旅立つコトになったとしても
悔いなんか残さないように
心の羅針盤の針を 合わせよう
明るい方に 楽しい方に 美しい方に 輝く方に
カイの意識はたちまち
スケッチブックの中に吸い込まれていった。
電話の音で、ハッとする。
音の間隔が長い、アメリカのベルのリズムにも
もう慣れた。
ベッドサイドのテーブルまで歩き、
取った受話器の向こうからは、聞きなれた声がした。
「今夜は何してるの、カイ?
これから5丁目に ジャズを聴きに行きたいのだけど、
いっしょにどうかと思って・・」
ショウゴの店の従業員で、友人のジェシーだった。
「今、何時? え、もう11時・・?」
「ふふっ・・ また作品にのめり込んでたのね?
夕飯は済んでるの?」
「ああ・・そう言えば、
なんだかお腹がすいているような気もするな・・」
「出てこない? 今夜はフライデーナイトよ!」
「ああ・・金曜日なんだね・・今日は」
いつもの事ながら、浮世離れしたカイの返事にジェシーが笑った。
「BJの演奏を聴きながらクラブハウスサンドをどう?」
「うん、いいね! 今、家かい?迎えに行くよ」
「大丈夫よ、店は家から近いし。
カウンターで待ち合わせましょう?」
「OK じゃあ30分後に!」
受話器を置いて、伸びをする。
ずっと同じ姿勢のままだった 肩や首を回しながら、
冷蔵庫を開け、カイはミネラルウォーターを飲んだ。
キッチンカウンターの上に
無造作に置いてあった白い皮ひもを取り、
食器棚のガラスを 鏡代わりにして髪を結わく。
ひもの先端についている、ターコイズのビーズが青く揺れた。
ソファの背もたれに脱ぎっぱなしになっていた、
ツイードのコートに袖を通し、ブーツを履く。
「ん・・?」
ふと、何かを感じて振り返った。
アトリエにあるアンティークの
小さなテーブルの上に活けてある、
一輪の白いバラが少しだけ笑った。
・・ように見えたのだ。
なぜだか、カイはヒナが
――天にいる妹が――
そこに居たような気がして、
白いバラに極上の微笑みを返した。
「行ってくるね」
玄関を出て 古びた電球に照らされた階段を下りる。
そしてカイは、セブンスストリートの街灯が照らす、
ダウンタウンのフライデーナイトの中に
これから起きる運命の輪の中に 溶けて行った。
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