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城址にて 1
「行かないで」
突然背後から抱きすくめられ、幸吉は思わず前によろめいた。
堀に転がり落ちなくて良かった、さいしょは正直それしか思い浮かばなかった。
「美和さん」
まだ早鐘のように鳴り響いている胸を目立たないように押さえつつ、幸吉はあえてのんびりと背後のひとに呼びかける。
「ちょっと、手を離してください」
返事はなかった。幸吉は責めた口調にならないよう、少し声を落とす。
「これではふたりで落ちてしまいますよ」
「いっそのこと」
美和は彼の外套に顔を埋めているらしく、くぐもった声で答えた。
「ふたりでこのまま……落ちるのも」
泣いているのだろうか? 幸吉の胸の鼓動は更に早くなる。
しかし、美和はやっと心を落ちつけたのだろうか、背中の重みが急に引いた。
幸吉はさりげなさを装い、自然なていでゆっくりとふり向いた。
古い城あとというのに、そこには単に地面の起伏にあわせて、痩せた松と雑木の林が続くだけだった。
木もれ日がちらちらと美和の髪の上で踊っている。
彼女はそっぽを向いたまま、果てしなく続く木々の向こう、細く続く歩道を眺め入っているふうにもみえた。
かさ、と厚く積もった細い枯葉が足の下で鳴る。馥郁たる針葉樹の香がいっしゅん、鼻孔をかすめる。
「ここには本当に」
美和の声も普段通りに戻っている。
「お城があったのでしょうか、しかも将軍様の。まるでただの丘のようですし、ただの林のようですが」
「この谷になったところが昔、内堀だったのだそうですよ。だからあの向こうに」
幸吉は片手を彼方に差し伸べる。
「天守閣があったのだとか」
美和は彼の伸ばした手先を見ている。どこか茫洋とした目のまま。
「まったく思いつきもしませんね。今のこの荒れ果てた様子からは。でもいつかは」
美和の目がまっすぐ、幸吉を射抜く。
「何もかも明らかになるのでしょうか?」
「だと思います」
幸吉もまっすぐ彼女を見た。たぶんおそらく、初めて。
最初で最後、なのだろうか。
「後の人びとがここを掘り返して、色んなものを掘り出して、当時の様子をくまなく日の下に明らかにしてくれるでしょう。もしかしたら、その頃の天守閣すら見事に再現するかもしれませんね」
―― そう、我々が勝ちさえすれば。
幸吉の声が少し強くなる。
「我々が勝って、我々の正義が全世界に明らかとなって……」
なぜなのか、言葉はいつもよりもすらすらと出た。
それは多分。
「勤勉で実直なるこの国の恩恵で、誰もがみな豊かになり、網の目のように経済が発展し、物資が隅々まで行き渡るようになれば。
その時、象徴のごときこの場に、天守閣は燦然たる光を帯びて、碧空に威風堂々たる姿を再び現すことでしょう」
自らの言葉ではなかったから、なのだろう。
いつも聞かされていた、他からの言葉だから。
言葉の強さに打たれたかのように、美和子は目を伏せる。
彼女の伏せたまつげの奥、黒く潤んだ瞳が、幸吉には今いちばん怖かった。
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