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ログ:001
「4月1日、天候晴れ、気温マイナス30℃。地吹雪が激しい。機器が破損する可能性が高く屋外での試料採取は中止。西海調査隊は予定通り出発した」
僕はそこで言葉を切り、残すべき情報があるかをもう一度確認する。
ツルマ先輩達のチームが遠征に出たこと以外は、取り立てて何もないだった。
ラボの片隅に目を走らせて巨大な円筒形の水槽を見る。
電極を取り付けた五匹のイワシが気だるそうにぐるぐる泳いでいた。
「水槽内に異状なし。ログは以上。隊員番号184、アユム=キトウザン」
ログ撮影用の機器を脇に片付けているとラボの扉がノックされた。
「はーい」
返事をして時間を稼ぎつつ、タコ足配線がのたくるラックの下にカメラを押し込む。
いそいそと駆け寄って扉を開けると、外には僕が心待ちにしていた人が立っていた。
「はじめまして。カミイイダです」
はきはきとお辞儀をした彼女は、髪をピンクに染めている。
お辞儀と共にふわりと柔らかく揺れる髪。
第一派遣隊ではこんな髪型が流行ってるのかな。
可愛い、と僕は素直に思った。
ピンクも良く似合ってる。
「ようこそ。僕が第二派遣隊の留守番、キトウザンです」
手を差し出す。
「これからよろしく。下っ端君」
しっとりとして細っこい手が、僕の薬品焼けした手に重なった。
何かすでに初対面で下に置かれたような気がしなくもないけど、まあいっか。
これから先輩が帰ってくるまで三日間は彼女とふたりきりである。
西海調査からただ一人外された僕だが、これなら出だしとしては悪くなさそうだ。
「カミイイダさん、ラボ内禁煙です」
「ちえ」
カミイイダさんは悪戯が見つかった子供のように、白衣の胸ポケットにタバコの箱を戻した。
今どき珍しい電子じゃないタバコ。
軍隊気質なのかもしれない。
経歴書を見る限りカミイイダさんは第一派遣隊のメンバーで、氷雪原での軍事行動に関するスペシャリストだということだった。
このαイーニー星ではその能力を発揮する機会に恵まれず、流れ流れて端っこの万年人手不足の第二派遣隊に押し込まれた、ということらしい。
「これ片付けたら、もっかい説明してよ。仕事の内容が頭に入ってこない」
「いいですよ」
僕はキッチンペーパーの上に並べたビーカーから、ひとつひとつ丁寧に水を拭き取った。
「ホロじゃなくて、君の言葉でね」
繊細な実験道具をミリ単位で美しく並べて、戸棚に鍵をする。
ログ撮影用カメラのおおざっぱな扱いとは対照的だ。
何故なら僕は実験者で記録を取る側であり、記録を取られる側ではないから。
黒い天板の実験机を挟んでカミイイダさんと向かい合う。
アーモンド色の瞳が僕をじっと見た。
「緊張しなさんな、下っ端君」
くくく、と喉を鳴らすようにカミイイダさんが笑う。
見透かされたようで恥ずかしい。
女の人と会うのは一年ぶりなのだ。
僕はカミイイダさんを直視しないように、ラボのあちこちに視線をさ迷わせながら話し始める。
「αイーニーは氷の星ですが、海の下には生命がいました」
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