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「それじゃ、今日はここまで! 明日はこの続きからやるので、予習しておくように」
やたらと日当たりのいいこの教室は、冬はいいけれど夏は地獄だ。
この学校にはエアコンなんて気の利いたものは設置されていなくて、気休め程度の扇風機が置かれている。しかし、そんなものでこの猛暑を凌げるわけもなく、生徒たちは先生の話を熱心に聞きながらも手でうちわを作って扇いでいる。そうしたところで、やっぱり熱いのは変わらないのだが。
そんな暑さにも耐え、ようやく太陽が傾いて陽射しが弱まってきた頃に土曜日の夏期講習が終わった。
ノートや教科書を鞄にしまって、教室を後にする。
七海はもうテニス部を引退したけれど、文系の私と違って理系のコースを選択しているから、夏期講習ではタイミングが合わないと会うこともない。今日も七海とは帰る時間が合わなかったので、私は一人でバス停へと向かった。
バス停に着くと、同じく夏期講習を終えた生徒たちが大勢いた。今日は特等席に座れないかもな、と思いながらバスを待つ。受験生らしく英語の単語帳を開いて待っていると、時間通りにバスがやってきた。
単語帳をしまって、いつものようにまず運転席を見る。その瞬間、暑さも忘れて胸が高鳴った。
運転席に座っているのは、平原さんだ。
内心うきうきしながらバスに乗ったが、今日はやっぱり混んでいて特等席には先客がいた。特等席どころか、後方の席もすべて埋まってしまっている。
仕方なく、吊り革に掴まって立って乗る。他にも何人か立っている人がいるし、今日はタイミング悪くちょうど混んでいるバスに乗ってしまったようだ。でも、平原さんのバスに乗れたことの方が嬉しかったから、私はにやける顔を押さえながら窓の外を見て、時々バックミラー越しに見える平原さんに視線を送った。にこっと微笑んでくれたから、彼も私に気付いたみたいだ。
長時間集中して疲れていたけれど、私はそれだけですっかり上機嫌になっていた。
早く平原さんとちゃんとデートしたいな、と考えながら、もう一度鞄から単語帳を取り出して眺めることにする。
しかし、異変はすぐに起きた。
バスの車内は混みあっているから、隣や後ろに立っている人と多少体がぶつかりあうこともあるだろう。しかし、さっきからやけに後ろの人との接触が多い気がする。
ちょっと不気味だけど、偶然バッグやリュックが当たっているだけかもしれない。そう思ってしばらく耐えていたのだが、スカート越しでも分かるくらいはっきりと手のひらでお尻を触られる感覚がして、肌が粟立った。
これは痴漢だ。たぶん。
普段は滅多に電車に乗らないし、毎日乗っているこのバスも混んでいることは滅多にないから、まさか自分が痴漢に遭うだなんて想像したこともなかった。
勘違いであればよかったのに、私が何も抵抗できないのをいいことに手の動きは止まらない。
ていうか、痴漢って本当にお尻触るんだ。こんなもの触っても何にもならないのに。
恐怖と嫌悪感で、まともに思考できなくなる。痴漢に遭ったらどうしたらいいかなんて、教わったこともないし考えたこともない。
どうしよう。大声で叫べばいいのかな。
でも、このバスには同じ高校の生徒たちが大勢乗っている。下手に騒いで目立ちたくない。それに万が一私の勘違いだったら、自意識過剰な女だと思われてしまう。
そうだ、私みたいに目つきが悪くて背が高いだけの女が、痴漢に狙われるわけがない。きっとこれは何かの間違いだ。
そう思いたいのに、お尻に感じる手の感覚だけはやっぱり本物で、気持ち悪くて吐きそうになる。
赤信号でバスが止まる。ふと、助けを求めるように前方のバックミラーを見たら、帽子を被った平原さんと目が合った気がした。
助けて。
でも、知られたくない。見られたくない。
どうすればいいか分からない。助けてほしい。
泣きそうになりながら、ただ強く吊り革を握ることしかできない。
すると、お尻を撫でるだけだった手のひらが突然スカートの中に入り込んできた。
「ひ、ぃっ……!」
全身に鳥肌が立つ。
さすがにこれは大声を出そうと思って口を開いたのに、引きつったような声しか出せない。怖い。
スカート越しでも気持ち悪かったのに、下着越しに撫でられるのは気絶しそうなくらい気持ち悪い。声を上げたいのに、喉が塞がってしまったみたいに呼吸も満足にできなくなる。
平原さん、平原さん、平原さん。
心の中でひたすら彼に助けを求める。目に溜まった涙が、堪えきれなくなって流れた。
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