【俺の事情】

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【俺の事情】

「おい、そこのボウズ! 終点だぞ、降りてくれ」 「……いやだ」  俺には家族がいなかった。  家に帰れば、父と母、それに兄がいる。もっと小さい頃は祖父と祖母もいたけれど、その二人はもうこの世にいない。  大和という名前をくれた祖母だけが、唯一家族と呼べる存在だった。その他は、ただの同居人だ。  おはようの挨拶もしない。おかえり、いってらっしゃいと言ってくれるのは使用人だけだった。  当然そんな家に帰りたくなるはずもなく、小学三年生のある日、俺は家出するつもりでバスに乗った。 「おいおい、降りてくれねぇとオジサン困るんだけどなぁ。つーかその制服、紅梅町のお坊ちゃん学校のじゃねーか。なんだ、ボウズの家は金持ちか?」 「知らない。家に、帰りたくないんだ」 「はぁ、困ったな……ボウズ、名前は?」 「……大和」  人に名前を聞かれて「平原大和」と答えると、大抵「ああ、あの会社の」と言われる。それが嫌だった。  俺はあの会社の人間じゃない。「平原大和」なんだ。でも、平原の家抜きで俺を見てくれる人はいなかった。  そのうち、俺は苗字を言わなくなった。ただの「大和」として、普通の家族のように、おかえり、ただいまを言い合える家族が欲しかった。 「おい、大和。お前はなんで家に帰りたくねぇんだ。母ちゃんに怒られたか? 父ちゃんに殴られたか?」 「……その方がよっぽどましだよ。父さんも母さんも、おれに全然興味がないんだ。だったら、産んでくれなきゃよかったのにさ」  両親に怒られた記憶も、殴られた記憶もない。あるのはただ、「勉強しろ」「恥ずかしい行動はするな」「大人しくしていろ」と言われた記憶だけ。  たまにテストで良い点を取っても、徒競走で一位になっても、膝をすりむいて帰ってきても、両親は何も言わなかった。  友達の家のように、運動会に来て応援してくれることも、授業参観に来てくれることもなかった。教師との面談だけは顔を出したけれど、「とりあえず成績が伸びればそれでいい」と言ってろくな話はしていなかった。 「なんだ、そんな悲しいこと言うなよ。お前の母ちゃんは、腹痛めてお前を産んだんだぞ」 「頼んでないよ。いっそ、捨ててくれたらいいのに……一応、将来のためにおれがいるんだって」 「はぁ……こりゃ何言っても駄目だな」  兄の隼人は、この異様な家族を受け入れている。両親や周囲に四六時中「お前は社長になるんだ」と言われ続けて、もはや洗脳されているとしか思えない。  その分、俺はまだましだ。「お前は予備だ」と言われているのだ。予備ならば、まだ逃げ出せる可能性がある。反抗心もある。兄のように、両親の言いなりになるのだけは嫌だった。そんな俺を兄は見下し、俺もまたそんな兄を憐みの目で見ていた。 「……よし。分かった。大和、ここ座れ」 「え?」 「お前がどうしても降りないなら、お望み通り連れまわしてやる。いいか、内緒だぞ。知られたら、オジサンの首が飛ぶからな」  家出するつもりで乗ったバスの運転手は、白髪交じりの「オジサン」だった。無駄に声が大きくて、ずけずけと俺の領域に踏み込んでこられているような気がする。でもそれは、どこか心地よかった。  一番後ろの席にぽつんと座っていた俺を、一番前の運転席の真後ろの席に座らせて、運転手はもう一度運転席に座った。終点まで来てしまったはずだが、どうするつもりなのだろう。 「それでは発車しまぁす。行先は特に決めておりませーん」 「え……」 「家出した大和くんのための、特別バスツアーでございまぁす」  運転手はふざけた口調でそう言うと、車庫に入るはずだったバスを再び走らせる。  驚きながらも、どんどん移り変わっていく窓の外を見て、これから冒険に出るような昂揚感を覚えた。こんな気持ちは、生まれて初めてだった。 「なあ大和、お前の将来の夢はなんだ?」  ハンドルを握りながら、運転手が大声で俺に尋ねた。  将来の夢。学校の宿題でも、将来の夢を絵に描いてきましょう、なんてのがあったけど、俺は何も思い浮かばなかった。  兄のように、社長になりたいわけでもない。むしろ、父のようには絶対になりたくなかった。でも、俺が触れたことのある大人は、父と母ぐらいしかいなかった。 「……分かんない」 「そんなことねぇだろ。あのな、将来の夢っつっても、何もなりたい職業を言えってわけじゃねぇんだ。あるだろ、夢。なんでもいいんだよ、空を飛びたいとか、宇宙に行きたいとか、百万円欲しいとか」  なりたい職業ではなく、夢。  それなら俺にもあった。でもそれは、絶対に叶わない夢だ。 「……家族が、ほしい」 「は?」 「おれ、家族がほしい。ただいまって言ったら、おかえりって返してくれて、遊園地に行ったり、水族館に行ったり、一緒に楽しいことができる、家族がほしい……」  それは紛れもない本心だった。でも、誰かに話すのは初めてだった。  家族にはもちろん言えるわけがない。同級生にこんな話をしたら、きっと変な目で見られる。最悪、平原さんの家は家庭に問題がある、なんて噂話になりかねない。  でも、この偶然出会っただけの運転手になら言えた。俺のささやかで大きな夢を、初めて口にできたのだ。 「なんだ、それなら簡単だ。早く大人になって、良い嫁さん見つけることだな」 「え……?」 「今の家族とは、分かり合えねぇんだろ? だったら無理に分かり合おうとしなくていいさ。世の中全ての家族が仲良く暮らせるなんて、そんなおとぎ話みてぇなことがあるはずねぇからな」 「でも、きっとおれのお嫁さんも父さんが決めるよ。そういう家だから」 「そんなモン知ったこっちゃねえ、って言え! 嫁さんくらい自分で決められなくてどうすんだ」  知ったこっちゃねえ。初めて聞く言葉だった。  でも、妙に耳触りが良くて、つい口に出してみたくなる言葉だ。 「……知ったこっちゃねえ」 「ああ、そうだ! お前が好きになった女と結婚して、新しい家族を作ればいいじゃねぇか。それで子どもも産まれたら最高だな」 「子ども……」 「オジサンも良い嫁さんは見つかったがな、子どもはいねぇんだ。それでも十分幸せだが、子どもが産まれたら、それはそれで幸せだろ。お前が親父さんにしてほしかったこと、お前が子どもにしてやればいいんだ」 「でも、それっておれも楽しいのかな? 幸せになれる?」 「当たり前だろ! お前が今の家に産まれた事実はもう変えられねえが、この先はいくらでも変えられるぞ。大和、お前が変えようと思えばな」  バスが赤信号で停まると、運転手はポケットから煙草を取り出して吸い始めた。「これも内緒な」と言われて、俺はその煙の匂いにむせながら頷いた。  どうあがいても、変えられないものはある。だったら、変えられるものを変えようとすればいいだけだ。  その単純で明快な答えは、幼かった俺の心に深く刻み込まれた。
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