10と30と60

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10と30と60

 心も湿らす梅雨が明けた。この暑さなら、買ったばかりのルームウェアをそろそろ着ちゃっても良いかも。朝食を済ませたあたしは、クローゼットから目当てのものを引き出した。最高にイカしてる、ライムグリーンのソレを。パジャマを脱ぎ、半袖のワンピースを頭から被れば、一足早く心が夏の色になった。気分が良い。とても良い。今なら面倒な事も片付けられそうだった。  大学に入ってもうじき三ヵ月になる。それはつまり、高校を卒業して四カ月経ったという事だ。あのクソったれた奴らとも、場所とも別れて。そこまで嫌な思い出ばかりって訳でも無いし、まだ連絡を取ってる友達も居るけど、戻りたいかって聞かれても答えはノー、絶対にお断りだ。特に、あの女の顔をもう一度見るのだけは、死んでも御免蒙る。真面目だけが取り柄だって全身に書いてあるような、その癖いい子ちゃんでも無い、いつだって上から目線のお堅い性悪ちゃん。「それって良くないと思うよ」、「もっとちゃんとしないと駄目だよ」。何故かあたしだけに強く当たって、クラスで問題が起これば必ず最初にこっちを見たし、成績で負ければ「カンニングは止めた方がいいよ」なんてあらぬ疑いを掛けてきた。ああ、思い出すだけで腹が立つ。あたしが何をしたって言うのだ。  いけない。今日は気分が良い日なのだ。色々片付けちゃえる日だ。さっきそう感じたんだから、この気持ちを枯らしたくない。あたしは梯子を登ってロフトに上がると、この四ヵ月間ずっと開かなかった卒業アルバムに手を伸ばし、少しだけ迷ってから、「えい」と叫んで本棚から抜き取った。中身の写真やら文集はまあ、配られた当日に教室で読んだし、特にダメージも何も無い。問題は最後の一ページ、たった一人からの寄せ書きだった。  「こういうものは、クラス全員の分を書くべきじゃないかな」、まるで常識みたいな顔してあの女は言った。そして頼んでもいないのにあたしのアルバムを抱え込むと、自分の分も、と押し付けてきた。何の感慨もプラスの感情も無いあたしは、『ありがとう』も『元気でね』も書きたくなくて、『卒業おめでとう』とだけ書いて、直接返したくもなかったから適当な男子に回して教室を後にした。そうそう、あたしの分のアルバムは、後で友達が回収してきてくれたっけ。あの場に居たくなさすぎて、話したくなさすぎて、アルバムを取り返す事も忘れていたのだ。  という事で、これからあたしが『片付ける』のは、これだ。読まずに閉ざしてきた、忌々しい寄せ書きを読む。そして『終わらせる』のだ。高校時代の思い出として完結させて、彼女との全てを彼方に追いやる。大学で出来た新しい友達と新しい思い出を作って、クソったれな記憶を塗り替えるのだ。  本当は読みたくないんだけど、見て見ぬふりというか、読まずに放置していると、現在進行形みたいな気がしてどうにも落ち着かず、あたしは三月からずっと『高校の卒業生』のまま、きちんと『大学生』になれていなかったような、そんな感じだった。だから今日、ここで区切りをつける。だって気分が良いのだから。  あたしは卒業アルバムをひっくり返し、裏表紙からゆっくりと開く。殆ど真っ白な最後のページの左端に、細かくびっしりと縦長に書かれた唯一の塊を見つけ、思わず目を瞑ってしまった。名前こそ無かったが、あの神経質そうな字は間違いなく彼女のものだった。  口直しにと他のページを見やれば、一転して明るく華やかで、中身を読まなくてもハッピーなメッセージだって伝わってくるものばっかり。黒い油性ペン一本でだって、ハートや花や星を足せば充分可愛くなるし、何より書き手の雰囲気が感じられるから、全然味気無くないし、見ていてとても楽しい。けれど、あの女の書いた文はどうだ? 一瞬見ただけでもつまんないのが良く分かった。というか、『嫌悪』って単語が見えた気がする。いや、あんたがあたしを嫌ってたのは知ってたけれども、それをわざわざ書いたのか? ほんと、最悪! やっぱりあたし、あんたの事が大嫌いだわ。  深呼吸。もういいじゃん、二度と会う事も無いんだし。とっとと読んで、話のタネにでもしてやろう。そう自分に言い聞かせ、あたしは覚悟を決めてページを捲ると、彼女のメッセージを読み始めた。 『Aさんへ。  三年間同じクラスで過ごしてきたけど、私とあなたは最後まで上手くいきませんでしたね。あなたは校則も破るし、煩いし、私とは正反対の人だったから。  私は、あなたに対して嫌悪感を抱いていました。割合で表すと、60%くらいです。後は、『きっと将来は苦労するだろうな』と憐れんでいました。これは30%くらいでしょうか。あなたは笑い声が大きいし、スカートは短すぎてスパッツが見えていたし、冬になると可笑しな柄のタイツを履くし、授業中は寝ているし、成績は単元によって波が酷いし、昼食は菓子パンばかりだし、納得できない時にはしつこく食い下がるし、不平不満をはっきりと言うし。存在そのものが喧しくて、一部の生徒や先生からも、煙たがられていましたね。私のように、大人しくしていれば良かったのに。  私は、あなたが嫌いだった。あなたに向けた気持ちの内、90%、嫌いだった。それは三年間であなたにきちんと伝わっていたと思う。けれど、どうせもう会う事も無いのだから、残りの10%も、一応、教えておきますね。  私、あなたの事が羨ましかった。  ほんの少しだけ。  さようなら、程々にお元気で』  アルバムを開いたまま、あたしは大の字になって寝転んだ。それから、起動したばかりのエアコンみたいな弱弱しい風を、口から長く、長く、吐いた。  あんた、本当に嫌な奴だよ。  こんな事、最後の最後の、ほんとに最後に。  飛行機が空を切る音がした。天窓の方に目を向けたけど、擦り硝子にボカされて、機体を見つけることは出来ない。  窓枠に切り取られた四角い青を眺めてるうちに、キンとした音は過ぎ去ってゆき、やがて何も聞こえなくなった。
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