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翡翠の海と黄金(きん)の月
起
闇がとぷりと揺れた。さざめく波音と、浮かぶ月の鏡像だけが、その闇を海と知らせてくれる。
浅瀬は魚の下半身ではうまく動けない。成人したであろう男を引きずりながらだと、なおさら。
「……はっ、」
身体が重い。足が砂にずぶずぶと沈むような感覚が気持ち悪い。やはり陸は嫌いだ。
砂浜でも容赦なく引きずったせいか、男は濡れそぼった身体のいたるところに砂を纏わり付かせていた。端正な顔立ちでさえ砂で汚れていて、見惚れるより先に吹き出してしまいそうな有様である。
「……このまま放置してもいいかもね」
女誑しにはいい罰だ。女の敵め。
むしろもっと汚してやろうと思い、せっせと手のひらに砂を掬っては男の髪に塗してやる。顔につけすぎると呼吸しにくくなるから、せめてもの情けだ。熱心に髪の間にもしっかり砂を付着させていると、男が唸った。
起きるのか、と咄嗟に海に逃げ込む。波間から伺うと、眉を顰め魘されているようだが起きる気配はない。人の足に変え、男の側に近寄った。砂で汚れた唇をなぞる。
「水死体は美しくないけれど、陸で殺せばあなたは美しいまま」
最も今はその美しさも台無しだが。
「また逃げられないように、今度会ったら剥製にしてあげる」
何の夢を見ているのか、唸る彼に笑いかけて、「もう逢いに来ないで」と囁いた。
*
最近、民の間で「王子は水難の相が出ている」と噂されていることを知った。言われてみれば確かにそうだ。乗った船が難破すること十三回、船が難破しなくても嵐などで一人だけ海に投げ出されること九回。幸いにも一八年間五体満足で生きているが、つい先日、父王から乗船禁止令が出された。漸くかという感想しか抱けない。むしろ、よく今まで船に乗せてくれたなと思う。既に誰も自分と同じ船に乗ろうとしてくれない。一応死者はいないとはいえ、誰だって難破も嵐も嫌だろうから当然のことだが。
「どちらかといえば、ユールセル殿下は海に好かれすぎよね」
けらけらと笑いながら、婚約者は言った。
「どちらかといえばなんてつけるまでもなく、確実に嫌われている方でしょう」
呪われているでもいい。海の波音も、空に合わせ色を変える様も、陽の煌めきを受ける姿も好きなのだが、一方通行らしい。
「そう? 海は殿下を欲しがっているのかもしれないわよ」
「欲しがっているのなら、何故返すんです? しかも身体中についた砂を落とすのに数時間かかるのですが。髪なんて特にひどい」
「嫉妬よ、嫉妬。殿下の美貌に嫉妬してるの」
「男が美貌と言われても嬉しくありませんよ……」
反論を言い連ねても、婚約者は持論をひき下げない。愉しそうな笑みを浮かべるばかりである。
「それより、式はいつになりそうですか」
「一年はあとね」
「いつになったら港の国は後継者争いが終わるんですか」
「しょうがないじゃない、数年前まで私の夫が継ぐことになっていたんだから」
肩を竦め、お家騒動を冷めた目で語る婚約者は、隣国の姫君だ。貿易を主産業とする国の姫らしく、異国情緒漂うエキゾチックな顔立ちをしている。艶のある黒髪もこの大陸では珍しい。
彼女には兄弟がおらず、本来彼女の夫が次代の夫となる予定であったが、一度目の婚約者は今は亡き鉄の国の王子で、国の崩壊後は行方をくらましている。そこで白羽の矢が立ったのが海の国の王子ユールセルだが、彼にも兄弟はいないため、結局親類から後継者を募ることにしたらしい。
「一体、彼はどこにいるのでしょうか」
「さあ?」
何か知っていそうな意味深長な様子は彼女にはよくあることだ。
「かわいい女の子といちゃいちゃしてるんじゃない?」
「何を言ってるんです?」
彼女はずっと笑ったままで、他には何も教えてくれなかった。
*
あなたは歌がうまいですね、と彼が頭を撫でる。子供扱いしないで、と彼女が怒るけれど、本当は褒められたことに喜んでいた。
月明かりが降り注ぐ海辺には、いつも彼がいる。黄金色の瞳と宵闇に溶ける黒髪。一見すると丁寧な物腰だけれど、彼はどちらかといえば大雑把で短絡的だ。このばか、と彼女は何かあるたび彼に言う。彼は罵倒に笑って、そうですねと首肯する。
「ね、今夜は月が綺麗だよ――あなたの瞳みたいに」
歌ったあと波打ち際で水遊びをしていた彼女は、飽きたのか彼の隣の岩場に座る。彼は何故だか驚いて、それから少しだけ意地悪そうに囁いた。
「知っていますか? ある国の文豪が「あなたを愛している」という異国語をなんと訳したか」
「あなたはこういうときくだらないことしか言わないの、わかってる?」
「月が綺麗ですねと訳したそうですよ」
当然のように彼女のいうことを無視して紡がれた言葉に、彼女は呆れ顔で「それで?」と続きを促す。
「終わりです」
「馬鹿じゃないの?」
「今日の罵倒は変化球ですね」
「変化球もなにもないでしょ」
そんないつも通りのくだらなくて他愛のない話をして――行かなくちゃ、と彼女は言った。
「私、もうここに来れないの」
「何故?」
「結婚するから」
あなたはまだ子どもでしょう、と呟いた彼がどんな顔をしているのか見たくなくて、彼女は俯いたまま身を翻す。
砂浜から道に戻るとき、名を呼ばれた。彼からはそれなりの距離があるはずなのに、不思議とよく聞こえる声で。
「あなたの翡翠の方が、綺麗ですよ」
それ以来彼女は夜の海に行くことをやめた。
承
海が好きだった。それが好きという感情なら、そうだった。
暇さえあれば海を見ていた。海の国と呼ばれる国の王子ならそれは不思議なことではなかったから、この国に生まれてよかったと思ったものだ。
波音は、何故かひどく静かなように感じられた。聞こえるのは確かに音なのに、黒に満ちた世界ではそう思える。
静かな夜だった。
波に足を踏み入れると、得体の知れない黒い塊に飲み込まれるような気がした。そのまま闇に沈み込んで、ユールセルという存在が消えてゆくような錯覚を抱いた。
膝まで海に入って、水の中で歩く感覚と、陸の上で空を切る感覚を比べた。どちらが重いのかもわからないまま、歩み続ける。腰まで、腹まで、胸まで、……首まで浸かって、海が冷たいのか暖かいのかも分からなくなった。視界はもう、黒い空に浮かんだ月と波打つ闇だけだ。
さらに歩みを進めようとすると、腕に柔らかな何かが触れた。驚いて、そちらを向けばそこには翡翠の宝石。
「おんな……?」
柔らかな何かは白い女の手だ。宝石がごとき瞳がじっとこちらを見つめている。まるで晴れた日の透き通る海のような、掬えば透明な水に戻ってしまう儚さに似た。
女は口を開かないまま、ユールセルの手を引いた。暗い闇の中で豪奢なドレスが揺れる。真っ白い純潔を示すそれは、婚姻の時に着るものだった。
砂浜に上がると、月明かりに照らされた女の髪が赤みを帯びた茶色であることに気がついた。ずっと握っていた彼の腕を離し、女が咎めるような翡翠色を瞬く。海に入っていったことを怒られているのだ、と感じた。
「……その、目のやり場に困るので、まずは城に来ませんか」
女の白いドレスが肌に張り付き、くっきりと丸みを帯びた細い線を主張していた。呆れたように嘆息したらしい女に、目を逸らしたまま手を差し出す。冷たい手が、ユールセルのそれに重なった。
*
深夜の街は、全身びしょ濡れの男女二人が歩いていても問題ないほど人気がない。それでも追い立てられるように早足で城への道を歩くが、ふと後ろを振り向けば女が随分と遠い。
「すみません、気がつかずに……! 足が痛いのですか?」
慌てて女のところに戻ると、蹲った女はこれ見よがしに深々と溜息をつく。先程から女には呆れられてばかりだ。何故か女の前では、女性に甘い王子を取り繕うことができないでいる。
差し出された両手に戸惑うも、翡翠が細まるのを見て慌てて女を抱き上げた。膝の裏と肩のあたりに手を入れると、図らずも見下ろした時にちょうど女の体がじっくり眺められる位置になる。柔らかそうな曲線に思わず唾を飲み込むものの、早く行けと言わんばかりに城を指差す白い指に煩悩を追い払い足を進める。もう遅いかも知れないが、そろそろ下降を続ける自分の評価に歯止めをかけたい。ここで色欲に負ける最低男にはなりたくないと強く思う。
城につき、寝ずの番をしている使用人に驚かれながらも、どうにか女の着替えを頼む。寝室で眠っているはずの王子がいつの間にか城を抜け出し自らも水を滴らせ、さらには全身を濡らした女を連れて来たとなれば当然だが、また女かと言う視線は堪えた。今夜は逢瀬しにいった訳ではないのだ。前科が大量にあるとか王子の持病とかそんな囁きが聞こえなくもないが、今回は本当に違う。
正面に座る女の、目が冷たい。
着替えた女を部屋に招いたのだが、これははたから見れば夜伽に来させたと言うことなのではないか。その証拠に、着替えても女は目に毒だ。
「あの、これを……」
椅子にかけていたカーディガンを女に被せ、夜着に透ける肌を隠す。女の目はまだ冷たい。
「温かいお茶とかありますけど……」
テーブルに用意されたティーポットから紅茶をカップに注ぎ、女に差し出す。冷たい視線がびしばしと刺さる。
「…………あー、その、灯りをもっとつけさせましょうか……」
耐えきれずに部屋を出ようとすれば足を踏まれた。女の軽い体重ではさほど痛くないが、おとなしく椅子に戻る。
「別に、そういうことをしようと招いた訳ではなくてですね、普通にね、お話をしたいなと思ったといいますか、全くいやらしい目的ではないんですよ」
せっせと言い訳を連ねるが、女の「この男は何をいっているのか」という顔に全て消えた。女は部屋を見回し、ユールセルに口を閉じたり開けたりを繰り返してみせ、さらに手のひらに何かを書くような仕草を続ける。
「もしかして、声が……?」
こくりと頷く女に、「やっと察したかこのノロマ」という雰囲気を感じ取ったが、きっと気のせいだということにしてユールセルは羽ペンとインク壺に紙を用意した。
『この馬鹿』
いきなり罵倒された。だが自分の行動を振り返れば妥当な言葉である。
『海じゃなくて陸で死ね』
死ねと仰いますか。それほど嫌悪されたのか、と落ち込むが、怪訝そうに彼女が書き連ねた言葉に首を傾げた。
『死にたいんでしょ』
「いえまったく」
『じゃあなんで、あんなに深く海にはいったの』
「海をもっと近くで眺めたかったので」
『この馬鹿』
また罵倒された。どうやら彼女はユールセルが自殺しようと海にはいったのだと勘違いしたらしい。死ぬ気など毛頭ないが、首元まで海に浸かった状態では自殺に間違われるのも無理はない。
「あなたは、なぜあんなところに?」
逆に問うが、彼女は答えない。
「……あなたの名前は?」
彼女は少し悩んで、「シレーヌ」と書いた。
*
「殿下は本当に女が好きよね」
婚約者は開口一番にそう言った。
「その言い方、外聞が悪すぎませんか」
「だって本当のことでしょう? ついに妾を囲ったって評判よ?」
「妾じゃないですし、女好きでもないです」
「なら何だって仰るのかしら」
婚約者は怒ってはいないようだが、いつもより距離が遠い。そして不名誉な噂が流れているようだ。あとで諜報部を締め上げようと決意しつつ、「友人です」と告げる。
「……言い訳にしては下手すぎるわよ」
婚約者からの、不名誉な方面の信用が厚い。
この頃侍女やメイドたちから遠巻きにされると感じていたのは女好きの噂のせいだったのか。
『その前からあなたは要注意人物認定されていたらしいよ』
普段から品行方正な行いを心がける自分が女好きなどおかしいと思っていたのだ。
『品行方正って女の子を口説くことを言ってる?』
「……口説いてないですよ、シレーヌ」
横から紙を見せてくる彼女に反論すれば鼻で笑われた。口説いてはいない。挨拶なだけだ。
『挨拶の方がたち悪いでしょ』
というか、先程からシレーヌに心を読まれている気がする。
『ずっと口に出しているけれど』
「えっ、まさか」
『この馬鹿』
いつもの罵倒に自然と微笑めば、『変態』と書かれた。罵倒が心地よいわけではなく、彼女の可愛い口癖のように思っているだけである。シレーヌ以外の人に言われても微笑めない。だから変態ではないと抗弁すると、翡翠が蔑みの色を乗せてユールセルを見ていた。
「シレーヌの瞳はいつ見ても綺麗な海の色ですね」
思わず出た褒め言葉に、『罵倒されても褒めるなんて変態』と返され、何をどうしても変態認定される事実に悲しくなった。因果応報や自業自得という言葉が頭を過らなくもないが、悲哀が増すので何も気づかなかったことにする。
「そうだ。シレーヌ、馬は好きですか?」
瞳を瞬く彼女に、「きみは歩くのがあまり好きではないようなので、馬で少し遠出しませんか」と誘う。
「我が国の観光名所をご案内しましょう」
彼女は興味なさそうなそぶりを見せながらも、『仕方ないから一緒に行ってあげる』と承諾してくれた。
*
髪を引かれる感触がした。
「またきみたちですか」
飽きたシレーヌによって遠乗りが早々に終わった後のことである。ふらふらと城の裏手にある森へと吸い込まれて行ったユールセルが潮の香りとは違う新鮮な空気を楽しんでいると、きゃらきゃらという笑い声がしたのだ。
――やどりぎ、やどりぎ
――潮の匂い、魚の香り
――海に入ってばっかりじゃかれちゃうよ
「いえ、俺は植物ではないので」
相変わらず彼を植物扱いする小さなものたち――背から羽が生えキラキラと鱗粉を振りまく、手のひらほどの大きさの性別不詳の人型の生き物。妖精と呼ばれるものの類だ。
これでもユールセルはれっきとした人間なのだが、妖精たちはいつも彼をやどりぎと呼ぶ。名を教えても訂正を求めてもきゃらきゃら笑ってやどりぎと。齢が十を数える頃には諦めた。
――泡の匂いがする
「あわ?」
妖精たちは答えない。彼らは人間とは根本的に異なるモノだ。ユールセルの疑問など気にも留めない。
――解剖かな?
――剥製かな?
――やどりぎの開きかな?
――瓶詰めが一番かわいいよ
どれにしても自分は死んでいる気がする。
「できれば生きていたいのですが?」
――だってやどりぎが悪いよ
一体、何のことを言っているのだろう。悪いことに心当たりがないといえば嘘になるが、解剖や剥製にされるほど悪いことをしていただろうか。
妖精たちはきゃらきゃらと笑って、やどりぎと、彼を呼ぶ。
転
「準備が整ったわ」
恒例の婚約者との顔合わせにて、彼女が微笑みながら告げた言葉にユールセルはひどく驚いた。
「あれ、この前は一年ほど先と言っていませんでした?」
「だって、後継者争いの間に未来の夫が妾を囲い出したんだもの。はやく輿入れして私の地位を固めなきゃいけないでしょう?」
「彼女は妾ではないと、」
「海の国の王子ともあろうものが、周囲の噂くらいかき消せないわけないでしょうに」
わざと放置していたのね、と言われて仕舞えば、彼は無言で微笑みをつくるだけだ。
「国際情勢も鉄の国のことがあって不安定だもの、早く婚姻するに越したことはないわ」
もともとこの婚姻は、同盟の強化に端を発している。鉄の国崩壊にとある大国が関わっていることは公然の秘密だ。鉄の国の王子が大国に亡命したという噂すらある。こちらにまで大国の魔の手が及んでは堪らない。そして協力して大国を退けようと、小国同士で同盟を組むことにしたのだ。
海の国と港の国は、その名から分かる通り海に面しており、特に港の国は外大陸との貿易で栄えている。大国の騎士、つまり不思議なちからを使う人外たちの弱点である『科学』を外大陸から輸入し対抗しようと両国は考えたのだ。鉄の国は、その『科学』を自分たちで再現したために同盟に加わることになっていた。
結局、同盟は不完全なままだが。
「ねえ、旦那サマ?」
部屋を出て、あそこと婚約者が指差す先には翡翠の瞳の彼女。腕に絡みつく婚約者は微笑んだ。
「彼女にも教えてあげましょう? 妾ではないのなら、ここにいるのは不自然なことだものね。新婚夫婦に遠慮して出て行くのが筋よね」
「たとえ、泡になっちゃうとしても」とちいさく付け加えた婚約者の言葉の意味がわからず、ユールセルは言われるがままに婚約者と腕を組んでシレーヌの前に立った。
婚約者が子供に言い聞かせるような態度で、優しく言う。
「私たち、結婚するの」
何故だか彼は、シレーヌの静かな表情が気にくわなかった。
*
夜の静寂は嫌いではなかった――本当は波音と、静けさに寄り添う密やかな会話があるのが良い。けれど、昼間の、無神経に降り注ぐ陽射しよりかは夜の凍りついた暗さが好きだ。
暗闇ばかりの城の中を、勝手知ったると言わんばかりに練り歩く。窓の少ない通路は月も星も姿を見せず、ますます宵闇が忍び寄っている。足を止めたのは、一際絢爛なつくりをした扉の前。
音も立てずに扉が開いた。
部屋の中も家具のふやけた輪郭がぼんやり見えるだけの闇の懐。四角い月明かりが闇を彩る。息遣いでさえ押し留めねばならないような息苦しい夜。
きっとここからは、海は見えないのだろう。
天蓋の紗をめくって、四、五人は眠れそうな巨大な寝台に乗る。心地よい肌触りのシーツが膝を滑った。まるで守られているように皺一つない寝台の中心で眠るそのひとをどうしようもなく傷つけたいと思った。その首の柔らかいところにこの手を這わせ締め付けて、きっちり着込んだ夜着の下の心臓を抉り出して。肌に蝋を塗って、内臓を綿に変えて、髪を絹糸に、肉をビーズにしよう。
手を伸ばす。綺麗だった瞳は閉じている。ああ、瞳の代わりに琥珀を埋め込むのもいい。虚ろに輝く瞳はきっと綺麗だ。
握り込んだそれを振り下ろした。
――そうして美しいあなたを、私のものにしたい。
「……シレーヌ?」
ぐるりと天地がひっくり返った。押さえつけられた腕が痛む。握ったナイフは奪われ首に突きつけられた。
やっぱりあなたは私のものにはなってくれない、分かり切ったことを再確認して、彼女はわらった。
襲ってきたのがてっきり暗殺者かなにかと思っていたユールセルは困惑しきって、「帰り道にでも迷いましたか」と頓珍漢なことを宣う。
「何言ってるの、この馬鹿」
流暢に紡がれたそれは、確かに言葉である。余りにも声らしくない、美しいそれに心が戦慄き脳髄が痺れた。彼は目を見張って浅く息を吐く。自我が壊れそうだ。
「いまのはあなたの声ですか、シレーヌ」
「もちろん」
二度めながらも慣れることはなかった。浅く息を吐いて吸ってを繰り返し平常心を保っていなければ、自らの持つ全てを差し出し奴隷に成り下がってしまいたくなる魔性の声。
彼女が暗闇の中でもわかるほど顔を顰めるまで、手に異常な力が籠もっているのがわからなかった。もう一度あの声が聞きたいのに、思考が働かず適切な接続詞が選べない。
シレーヌ、と侵されきった脳で一先ず名を呼べば、彼女は口の端を上げる。
「メロウよ……私の名は、メロウ・シレーヌ。人魚のはじまり」
翡翠色が細まって、美しい音でその名を彼女が告げたとき、彼の中にあったのは納得だった。その名はこの国では余りにも有名であった。人魚姫とあだ名されるその人は、ユールセルにとって直接的な血縁ではないものの遠い祖先にあたる。数百年前の悲劇の王女。幸せな花嫁になるはずが、悪魔によって呪われ下半身を魚に変えられた姫君。それは、この国に伝わる御伽噺でもある。
メロウ・シレーヌ。人魚の起源。彼女の声は魅惑を刷り込む。魅了と感動を振りまく歌は、彼女の後に生まれた人魚たちにも受け継がれたという。だが、起源たる彼女が一番美しいと聞いていた。とうに亡いと考えられていたが、生きていたのか。
人魚は、悪魔よりも妖精よりも他のどの人外よりも先に滅亡した。したと、確認されていた。人魚の涙は真珠になり、その血は不老不死を齎すという噂が彼女らを狩ったのだ。そうでなくとも――人魚を創った悪魔の執着故か――人魚はすべて見目麗しい女性の形をし、魂を震わせる歌声を持つため、愛玩用や観賞用に狩られることが多々あったが。
メロウが彼の頬を指先で撫でた。翡翠色はユールセルの見間違いでなければ寂しそうないろだった。
「私の名前さえあなたは忘れてしまった」
そういえばと、彼は今までの日々を思い返す。……彼女は一度たりとも彼の名を呼んだことがない。
「人魚にまつわる御伽噺を話してあげる」
それは、数百年前の――彼女がまだ人であった頃の話だ。
*
メロウは海の国の王女であった。当時、海の国はさる大国から独立して百年と少しが経っていた。同じように独立したり、さる大国の消滅に伴い新天地で新たな国を起こす人々など、様々な国が乱立した時代である。海の国はその中でも力を持った方ではあったが、所詮は小国群と大国からはひとまとめに見なされる国の一つでしかない。ちょうどその頃は悪魔などの人外たちの存在が浸透して来ていたこともあり、恐るべき人外たちが住まう楽園が建国されたことに危機感を持つ小国は少なくなかった。その策として、現代のユールセルの婚約と同じく、同盟のための人質交換ならぬ政略結婚が行われたのだ。
海の国では王女は継承権を持たない、政略結婚の駒であった。利用することの罪滅ぼしにか幼少期は比較的自由に過ごしていたが、結婚は避けられない。メロウに拒否権はなく、内陸の国に彼女は嫁いでいった。そこまではよくある政略結婚だったのだ。
結婚式や国民への披露パレードも終わり、純白のドレスから夜着に着替えようとする時間の隙間。
「そこに、あなたが来た」
メロウは嫁いだ国に海がないことに嘆息し、思わず恨み言を漏らした。
『魚になれたらいいのに……こんな結婚もない、自由に生きていける魚に』
彼はそれを聞いていた。悪魔に願いを与えてしまったのだ。幼少期から交流を持っていた彼が来ることは予測可能なことだったのに、彼女は油断していた。
「あなたは嬉しそうな笑顔で、『それなら魚になればいいじゃないですか』と私を魚に変えた」
「私が魚の姿では歌えないと言うと、あなたは『なら上半身は人間にすればいいでしょう』とまた魔法をかけた」
「こんな姿じゃ砂浜を歩けないと言えば、短時間だけど人間の姿に戻れるようにした」
そうして、最初の人魚が創られた。人の上半身と魚の下半身を持った歪な生き物が。
当然そんなことになっては婚家にいられないと、上機嫌な彼に連れられ、故郷に面する海辺に住み着いた。彼もその近くに住まうことにしたようで毎日のように彼女を訪ねて来た。会うたびぶつける文句を斜め上の形で叶え、彼女の歌を愛でる。
そのささやかながら愛おしい日々は、たった一ヶ月で幕を閉じる。
「帰ってこなかったの」
『ちょっと野暮用ができたので、二、三日出かけますね』
そう軽々しく告げ、訝しむ彼女に詳しいことは内緒ですとはぐらかし、そして彼はどれだけ待っても彼女のもとに現れなかった。
「あなたは本当にひどいひと。私に永遠の命を与えておきながら、自分はあっさり殺されちゃうなんて」
ずっと後に、妖精が教えてくれた話だ。彼は、悲劇の花嫁――メロウをさらった悪魔を討伐するための軍隊に自分の命を差し出したらしい。彼なら、人間の軍勢程度簡単に蹴散らせるはずなのに。悪魔はそういうモノだ。そもそも、基本的には肉体を持たない精神だけの存在なのだから、彼が死のうと思わなければメロウのもとに帰って来れただろう。
しかもその後に、とメロウは乾いた笑いをこぼした。その笑みとは裏腹に、翡翠から雫が流れ落ちる。
「あなたは海の国の王族として生まれ変わった。何十回生まれ変わっても、必ず」
ユールセルはやっと理解した。それが自分なのだろうと。
「あなたは私のことを覚えていなかった。ずっと、私以外の誰かの隣にいた」
――それなのに、あなたは私に会いに来る。
今のあなたは二十二回だったと言われ、その数字に心当たりがあったユールセルは自然と頰を引きつらせた。ユールセルの乗る船が難破したり嵐に遭って海に一人だけ落ちたりしたのは、二十二回。あれはただの不運ではなかったのだろう。ユールセルの魂に刻まれた彼の執着がそうさせたのか。
思考の海に沈みかけた彼の耳に、「もういや」とちいさな彼女の泣き声が届く。
「終わらせて……」
永遠の命。それは人魚に限らず、人外たちすべてに共通する特性だ。
けれども、自らでは死ねないというだけで、寿命がないというだけで……人外を殺せないわけではないのだ。
――ああ、そうなのですね。
きっと彼女は、死にたいのだ。そう理解したユールセルは今の状況を鑑みて蒼褪め、すぐさま彼女の上から飛びのこうとした。あるいは手に持ったそれだけでも放り出そうとした。
だが、遅い。ずっと彼は、彼女の瞳を見ていたのだから。
「あなたは本当に不器用で、自分勝手で……だから、私のことはどうでもよくなったんでしょ」
妖しげに輝く翡翠から目が離せない。ユールセルは、ナイフを持つ自らの手が自分の意思に逆らい、彼女へ振り下ろされるのを知覚した。待ってくれだとか、なにかそういう悲鳴のようなものが彼の口から飛び出しても、彼女は微笑んで刃を待つ。
――どうでもよくなったのなら、きっと俺は貴女に城に来てくれとは言いませんでしたし、海にすら行こうとは思わなかったでしょう。
結
「……ユール?」
脂汗を滴らせ、思考が痛みに支配されながら、彼は、名前は生まれ変わっても共通点を持つものなのだろうかと益体も無いことを考えた。
咄嗟に出たのは左手であった。ナイフを持つ右手は侵食されていたが、左手を動かすのまでは止められていないようだ。結果的に見れば、彼は自らの左手にナイフを食い込ませている。刃を受け止めるように手を出してしまったものだから、真ん中でぱっくり肉が裂けている。それほど深くまで切り裂いてはいないが相当な量の血が流れていて、あまりの痛みに意識が遠のきそうになるほどだった。彼女には色々と言いたいことがあるものの、痛みに耐えるため歯をくいしばっている為にそれも叶いそうに無い。
「え……なにこれ」
きょとんとしたメロウが首から胸元にまで垂れた彼の血を指先で掬った。箱入りの人魚姫は事態が掴めていない。どうにかしなければと頭の隅で思うが、如何にもこうにも痛すぎる。最早痛むのかよく分からなくなって来るが、いや、やはり痛い。
困惑を孕んだ沈黙が部屋に降りるが、間をおかず扉を開く音が鈍く響いた。
「あら、凄惨な浮気現場ね」
突入して来たのはユールセルの婚約者であった。これが本当の修羅場よねと笑い、連れていた侍女や騎士にいくつか指示をする。持ってこられた椅子にユールセルが座らされ手当てを受け、寝台の上で侍女に血を拭われるメロウは次第に冷静さを取り戻した。声を出そうとして――自らの声の特異性に唇を噛みしめる。
「はい、人魚姫さま」
そう言ってユールセルの婚約者が差し出して来たのは紙とインクをつけた羽ペンだ。彼女が使った呼称に胡乱げな目を向けてしまうものの、曖昧な微笑みを返され結局メロウはユールセルに文字を見せた。
『なんで庇ったの』
手当てを受け脂汗を拭き取られ、軽減した痛みに幾分か冷静さが戻って来たユールセルは、「どうでもよくないからですね」と疲れた顔で呟く。駆けつけた医者によれば彼の傷は深くなく、流血は多かったが無論命に別状はないとのことであった。それでもこの短時間で精神的に途轍もなく疲労した様子の彼にこれ以上聞くのが憚られ、ペンを置くメロウだが、彼の婚約者は違った。侍女たちに目配せをし、部外者を追い払ってから、
「話は大体聞いていたけど、つまり、これは昔のあなたの不始末ってことでしょう?」
盗み聞きしてたのかよ、という言葉をありありと顔に浮かべるメロウに比べ、ユールセルは予想の範囲内であるとばかりに首肯する。
「……そうですね、どうやら俺は今も昔も執着の強い男のようです」
「そのくせ、自分はふらふらどっかに行ったと……最低ね」
「返す言葉もありませんよ」
そこで、ぐい、とメロウが婚約者の袖を引っ張った。見せた言葉は、『あまり彼を責めないで』。
「あのねえ、人魚姫さま? もっとこの男に怒りなさいよ」
『目の前で死んで見せようとしただけで充分でしょ』
なるほど、と婚約者は得心する。そういえば、この部屋は先ほどまで一見無理心中みたいな様相を見せていたのである。実際は自殺を見せつけるという行動であったが、これも並の人間なら充分に心的外傷を負うだろう。しかもたっぷり過去の行いを責めた後で、操って殺させるというサービスつきである……充分どころかやりすぎの域かもしれない。
それじゃあ、と婚約者がメロウとユールセルを交互に見た。
「あなたたち、いつここを出て行くの?」
メロウは目を瞬かせ、驚愕と疑問を混ぜたような顔をしたが、ユールセルは「明晩にでも」と答える。
『待って、どういうこと?』
「どうって、だって王族は人魚と結婚なんてできないもの。外大陸にでも行って、人魚ってことを隠して過ごすくらいじゃないかしら?」
「けっ、こん?」
思わず声を出してしまったメロウは慌てて口を塞いだが、ユールセルはぐったりしていて人魚の声に惹かれるどころではないようで、婚約者の方は素早く耳栓をしていた。用意の良さとあまりの早業に唖然とする人魚をおいて、人間二人はさくさくと話を進めた。
「荷造りは終えているの?」
「当然です。あなたが焚きつけた日から何日経っていると?」
「数日経っているくせに、人魚姫さまには何にも話さなかった情けない男が何をいうのかしら」
「びっくりさせようと思いまして」
「あなたって本当に馬鹿よね」
『ちょっと待って』
紙いっぱいに書かれた文字を二人の間で掲げると、彼は優しく「どうしました?」と訪ねた。
『なんであなたと私が結婚することになってるの? ユールは婚約者がいるのに』
婚約者が半眼で答える。「私、恋人がいる男と結婚するって耐えられないの」
『恋人じゃないけど』
ユールセルがぬけぬけと言った。「対外的には妾……恋人ですが」
「しかし、全く……一番目も二番目も、私の婚約者たちは人外が好きねえ、嫌になっちゃう」と言いつつ清々しい顔の彼女の一番目の婚約者――鉄の国の王子は自らの国で家畜として飼われていた人外たちを逃がしたがゆえに行方を眩ませている。人魚を愛した当の二番目たるユールセルが控えめに謝った。
「申し訳ありません……ヴァルヴァル」
「私その呼び方をする人とは仲良くなれないの」
婚約者は食い気味にあだ名を否定した。彼女の本名はリセルヴァルアと言うのだが、幼い頃の鉄の王子はリセルヴァルヴァと聞き間違えてしまい、さらにユールセルがそれを助長したためこの幼馴染たちの間では彼女はヴァルヴァルと呼ばれていた。彼女自身はこの微妙に言いにくい呼び方を嫌っており、成長するにつれ公の場ではリセルヴァルアと呼ばざるを得なくなった男二人はここぞと言う時にヴァルヴァルと呼ぶ遊びを覚えた。因みに、バルバルと呼ぶと一層機嫌が悪くなる。
「人魚姫さま、今からでも遅くないわ。こんな馬鹿じゃなくてもっといい男探しなさい」
『生憎と、男の趣味は悪くて』
「斬新かつ高度な罵倒方法ですね、二人とも」
結局、とメロウが話を纏める。
『私とユールは明日の夜に城を出て、外大陸に高跳びするってこと?』
「駆け落ちと言ってください」
「後のことは私に任せて頂戴。馬鹿の噂の後始末もやっておくわ」
ついに呼び名を馬鹿に変えた幼馴染に曖昧に微笑みつつ、ユールセルはメロウの手を取った。
「長い間待たせてしまいましたが、漸くあなたと一緒になれる」
メロウがじっと繋がれた手を見ていた。
*
「メロウ」
彼が言った。
月明かりの下、ぱしゃりと魚の尾で波を叩いた彼女が砂浜に座る彼を見つめる。小首を傾げた人魚は足を人のものに変え、水を滴らせながら彼に近寄り、耳元で「どうしたの?」と囁いた。
「あなたは……本当に、死んでしまいたかったのではないですか」
ゆっくりと翡翠色が瞬く。
麗しい人魚の顔には、「今更こいつは何を言っている?」と書かれていた。彼女は相変わらず顔で語る。それは声が出せないからこそだと思っていたが、一緒に暮らすようになり、元々の素直な性質故だと気付いた。
「その、あなたは、俺のことを……」
「ね、月が綺麗だよ」
もごもごとちいさな声で核心に迫ろうとした彼を遮り、彼女が微笑う。
「昔のあなたの瞳はね、あの月のように綺麗な黄金色だったんだよ」
勿論今のそれも好きだけれど――と続け、いたずらっぽく問いかける。
「月が綺麗という言葉に、何処かの誰かが、なんて想いを秘めたか知ってる?」
突然訳のわからない話を始めた彼女に彼は困惑しながら、「いえ、何でしょうか」と答えた。それにすこし寂しげな色を笑みに含ませながら、彼女は言う。
「あなたを愛しています」
「……それは」
それが、誰かの言葉を代弁したものではなく、彼女自身の想いを吐き出したものならばどれだけ良かったか。
彼女が自分を好いてくれていると思った。だからあれほど強引に駆け落ちを決め……けれど、それは自惚れなのではないかと疑っている。
「ところで、あなたは私に何か言うことがあるんじゃないかな」
彼はゴクリと唾を飲んだ。怒っている--彼女は彼にひどく怒っている。ここで正解の言葉を告げないと一週間ほど波間に消えていきそうな雰囲気であった。
有り体に言って破局の危機である。
彼女を疑ったことを勘付かれたのではないか。そう思えて仕方がない彼は、そのままの気持ちをこぼす。
「メロウは、俺のことを嫌っていますか」
恐る恐る吐き出した言葉に彼女は「……へえ」とだけ言った。その響きが異様に冷たく、彼は自分が正解を導き出さなかったことを悟った。
見れば、翡翠を細め据わらせた彼女は深々と溜息をつき、呟く。この馬鹿、と。
慣れきった罵倒に、まだ見放されていないらしいと少しの安堵を感じるとそれを見とった彼女に睨まれる。
「ほんと、自覚してなかったんだ……あのね、私があなたを嫌うなんてことありえないから」
そもそも人魚姫とは、執着してきた男を拒否できず絆されてしまった女が、結果として男に捨てられた話だ。嫌いならば、生まれ変わるたびに数十回ほど海に無意識に身投げする男をせっせと助けるものか。それも数年で終わる話ではない。百年単位で繰り返してきたのだ。
そこまで尽くした上で終わりにしようとした女を引き止め、嫌いかと問われることの馬鹿馬鹿しさと言ったら。
「この馬鹿」
自然と罵ってしまうのも仕方のないことであるまいか。
説明されれば、確かにと彼は頷く。そこまで考えが及んでいなかったが、そういえば今の生でも彼女には二十回ほど無意識の身投げから救ってもらっているのだ。どう足掻いても迷惑をかける男だなと彼は落ち込んだ。
「私の気持ちよりも、あなたはどうなの?」
「それは勿論」
「ちゃんと言って」
「愛してます、あなたが他の男と結婚することになったら攫いに行くくらいには」
過去の彼が実際にやったことである。
「しかし、俺の気持ちなどあなたはもう十分承知しているでしょう……メロウ?」
彼女は頬を紅潮させ、恥ずかしげに翡翠を潤ませていた。常ならぬ様子に驚愕しながら頰が緩む彼だが、潤んだ瞳で睨みつけられ慌てて顔を引き締める。
「私、一度も愛してるとか、好きって類の言葉を聞いた覚えがない」
「え? いえ、そんなまさか……」
まさか。記憶を探る。過去世の記憶は蘇っていないが、最低でも現世でその類の言葉は告げたはずである。駆け落ちを決行するくらいなのだから――。
「……」
「ないでしょ」
なかった。
両手で顔を覆い、自分の不甲斐なさに彼は消え去りたいと心底思った。
「ほんと、馬鹿」
「ごめんなさい」
穴があったら入りたい気分であったが、彼女が顔を覆う手を外す。
「で、言うことは?」
彼女の満足げに綻ぶ唇に口付け、赤面するメロウに正解を答える。
「愛しています、メロウ。俺と結婚してください」
「喜んで、ユールセル」
*
むかし、むかし。
暗い海で王子さまは足の代わりに魚の尾を持つお姫さまに出会いました。海で溺れた王子さまはお姫さまに助けられ、美しい翡翠の瞳に恋をします。
けれども朝がくれば、王子さまは婚約者と結婚しなければなりません。
王子さまに捨てられたお姫さまは酷く悲しんで、泡になって海に消えてしまいます。
そのことに気づいた王子さまは、海の底へとお姫さまを追いかけ、そうして戻って来ませんでした。
これは、ある国に伝わる悲劇のお話です。
……いいえ、本当は、王子さまはお姫さまと一緒に海の向こうの大陸へ逃げたのです。
手をつないで、愛を語り合いながら。
これは、一人だけが知る、幸せな恋のお話です。
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