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賭け
その週の水曜。僕は今週出走のカナリアビューティの追い切りを終えた後、トレセンのスタンドで束の間の休息を取っていた。
どこで仕掛けを間違ったんだろうか?
あのときどうすれば勝てたんだろうか?
僕は3センチ差でスルリと手元をすり抜けていったあの日のゴール板を思い出しながらぼんやりとそんなことを考えていた。そのとき、首筋にひんやりとしたものが当たった。
振り返るとそこには、マダカネキンメダルの調教師・大河原先生の姿があった。手にはペットボトルのお茶が2本持たれている。僕は軽く会釈をすると、キャップを開けて喉に一口流し込んだ。
「この間の天皇賞は悔しかったな……」
先生は僕の隣に腰掛けると、そうつぶやいた。
「ええ。そうですね。もうひとふんばりだったんですが……すみません」
僕は先生の悔しそうな顔から目をそらしつつ、そうつぶやく。
「いや、勝負は時の運。だから気に病む必要はないさ。だがこのまま終わるわけにはいかないよな……」
先生は思い詰めたような声でそう語る。いくらマダカネキンメダルが競馬界を賑わす存在だといっても、1勝馬は1勝馬。最も格下である未勝利戦を勝っただけの馬にすぎないのだ。
「実はな……君に頼みがある」
突如、大河原先生が僕の方を向いた。
「何でしょう?」
「来月の安田記念、君に乗ってほしいんだ」
「えっ?次は安田記念に出るんですか?」
僕が驚いて訊き返すと、先生は黙って頷いた。安田記念は1600mのレースで、天皇賞・春は3200mのレース。距離は半分だ。今まで実績を積んできた中・長距離路線から短距離寄りであるマイル戦へと舵を切るのはかなり大きな決断だっただろうと思う。
「前々から出してみたいなとは思ってたんだよ。でもなかなか馬主さんが首を縦に振ってくれなくてね。ほら、やっぱり競馬の花形は中長距離だからな。でもこのままで終わらせるわけには……と説得したら、オーケーしてくれたよ」
「そうですか……でも、勝てるんでしょうか?」
僕はそう先生に問いかける。すると先生は首を横に振った。
「勝てるのか?じゃない。勝つんだよ」
先生の目が鋭くなり、さらに僕に問いかけた。
「僕たちは別に負けても痛くもかゆくもない。収入が減るか、ネット上や新聞上で叩かれるくらいだ。でも、馬はどうだ?彼らは勝たなければ穏やかな余生は送れないんだぞ?」
僕は言葉を失った。先生の言うことはもっともだ。種牡馬や肌馬(母馬)として残れるサラブレッドは一握り。その他にも誘導馬や乗馬になるなどの進路も残されてはいるが、そのルートにすんなり乗れる馬ばかりではない。進路が決まらない馬に穏やかな余生が残されているとは考えづらい。
「なぁ、これを見てくれ」
先生は懐から何通かの封筒を取り出した。
「私の……いや、マダカネキンメダルのところに届いた手紙だよ。これはほんの一部だ。あと200通くらいは来てる」
僕は先生に促されるまま、手紙に目を通す。
「競馬場で初めて見ました。とても可愛い馬ですね。また応援させてもらいます」
「この間の天皇賞、惜しかったですね。でも次は勝てると信じてます!」
「惜敗を何度繰り返しても挑み続けるマダカネキンメダルの姿にいつも勇気づけられています」
「いつか絶対金メダルをとってくださいね!」
「マダカネキンメダルはもう亡くなった父馬、ゴールドウィナーの最後の希望の星ですもんね。父の血を絶やさぬよう応援しています」
ライトファンからの手紙にコアなファンからの手紙。どの手紙にも便箋いっぱいに激励の言葉が記されていた。手紙を持つ僕の手が震える。
「これだけのファンに支えられ、愛されてるんだ。もう負けるわけにはいかないだろう。走れる時間ももう限られているしな」
先生が僕の肩をポンと叩く。
「頼んだぞ!」
先生の言葉に、僕は深く頷いた。
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