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そこはまるで水の中のような浮遊感を感じさせる、暗闇の世界だった。
重力に従って沈むわけでもなく、かといって上昇するわけでもなく、ただただその場でふわふわと留まるのみ。
視界が真っ暗なことも相まって上を向いているのか、下を向いているのか、目の前に何があるのかさえも見当がつかない。
『⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯い』
ふと、誰かの声が僅かに聞こえた。一瞬空耳かと思うほどの小さい声がどの方向からも聞こえてくる。
『…………くい』
徐々に小さかった声は大きく聞こえ始める。しかし誰の声か検討もつかない。聞いたことがあるようでない、何かが引っかかるような声が頭の中で巡り続ける。
『…にくい』
ついにはっきりと聞こえた。怨嗟の籠った低声が四方八方から何度も何度も繰り返される。しかし声の主は今だ分からない。何度頭の中で記憶を辿っても、当てはまるのは誰一人としていない。
無数に繰り返される悪意の言葉たちに、自身の手は小刻みに震え、心音が自分でも分かるほどに高鳴り、身体中から汗が出ていくのが手に取るように知り得てしまう。
地面に着地できない、不安を覚えさせる浮遊感。
自身の手すら見えない、視界を閉ざす暗闇。
繰り返される憎しみの声。
この空間に存在するすべての事象が、彼女に恐怖を植え付ける。
「誰……なの?」
その恐怖を払うように、震えた言葉を発する。
だが彼女の問いかけに答える者はおらず、次第に周りの声たちは違う言葉を発するようになっていく。
『憎い』『殺したい』『何で私が』『殺す』『あいつが悪い』『呪ってやる』『どうして私だけ』『人なんてどうせ』『全部吹き飛べ』『事故にあえばいいのに』『死んでしまえ』『腹が立つ』『どこかへ逃げたい』『破壊してやる』『嫌だ』『もう見たくない』『死ね』『あいつは悪だ』『私は悪くないのに』『消えて』『行きたくない』『地獄に落ちろ』『全て殺す』
「ひっ⋯⋯⋯⋯!!」
ありとあらゆる嫌悪、憎悪、怨嗟、呪い、激怒、悲嘆、慟哭。
負の感情とよべるもの全てが、彼女にぶつけられていく。
いくら頭を振ろうと、いくら強く耳を塞げど、間を縫うように言葉は彼女にたどり着き、脳内へ侵入する。
やがて手足に何かが纏わりつくように感じ始める。
蛇のように、されど生物の躍動を感じない、体の表面を這うその何かは、ゆっくりとゆっくりと皮膚を縛り、逃げないように拘束する。
「い、いや⋯⋯⋯!」
(これは夢だ。これは夢だ。目を覚ませば大丈夫、大丈夫)
いくら心の中で言い聞かせても、今自身の身体に起きている事は拭えない。むしろ恐怖は増していき、言葉たちは大きく、拘束はさらに強まり侵食する。
「い、いやだ⋯⋯死にたくない⋯⋯⋯!」
まだ口は動いた。だから必死で叫ぶ。この言いようもできない恐怖から逃れるために。
「いやあああああぁぁああ―――――!!」
叫ぶ。ひたすらに叫ぶ。喉が壊れようと、かれようと構わない。身体は既に動かず、正体不明の何かは頬まで迫っている。
だからこそ叫ぶ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァアアアアアアアア――――――!!!!!!」
必死に叫ぶ。
獣が吠えるかように叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫ぶ。
叫んで。
そして――
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