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「あ~~~~、ようやく終わった……」
追われるように仕事をし続け、上司からの追加仕事にうんざりしながらも取り組み、それが終わる頃には、外は真っ暗だった。窓から見える街の夜景は宝石箱の様に美しく輝いている。
もっとも、そのように純粋な気持ちで見ていたのは最初の一年だけであり、今となっては窓は大雑把な時間帯を把握するだけのものと、彼女の中で認識していた。
「結局、今日も追加残業か……。あの上司、私にだけ追加で仕事渡してきやがって。呪ってやろうか……」
椅子に深く座り込み、彼女は自分の所以外電気が落ちた部署を見渡す。既に他の社員は残業を終了しており、辺りには警備員すらいない。天井の電灯のみが彼女を寂しく照らしている。
今、この場所には彼女一人しかいない、正真正銘のひとりぼっちだ。
「⋯⋯⋯⋯さて、追加の仕事も終わったし、またお酒買って飲みながら帰ろうかな⋯⋯」
そう言って重い腰を上げながら、忘れ物がないようにデスクを確認する。
デスクを探っているうちに見つけたのは、長年使いこんできた時計とスマホ、そして今朝見つけた手鏡だった。
「⋯⋯⋯」
まだ真新しい手鏡を手に取ると、不意に自分の顔が見たくなった。どんな顔が映っているのか、普段なら気にしないのに、何故だか自分の顔が見たくなってしまった。
「わ―……酷い顔」
鏡に映ったのは案の定、酷い顔である。
大きく目の下にできた隈はいつも通りで、肌に艶はなく、文字通り疲れ切った顔つき。髪もボサボサでろくに手入れされていないのがよく分かる。
これもいつも通りのことだ。1日仕事が終われば大抵このような顔になっていた。
その顔が突然、笑みを浮かべた。
「―――え?」
彼女は慌てて自分の顔に手を触れ、表情を確かめる。
手に触れた感触、そして自分の感覚で分かる通り、自分は笑みなど浮かべていない。
だが、何度見ても鏡の自分は笑みを浮かべていた。異常なまでに口角を上げた、おぞましい笑顔で、じっとこちらを見続けている。
「な、なんで⋯⋯?」
『なんでも何も、これがあなたの顔でしょう?』
「!?」
目の前の鏡、そこにいる自分であり自分ではない何かが口を動かす。それと同時に声が聞こえる。
優しく柔らかい口調。その声を聞き、彼女は思い出す。
あの悪夢で聞いた、あらゆる悪意が籠ったその声を。
いくら負の感情が籠っていない優しい声であろうと、いくら柔らかい口調であろうと、一度覚えさせられた恐怖は拭えない。
それを理解した瞬間、彼女の脳裏に蘇るのは夢の時の感覚。視覚を暗闇で遮られ、聴覚にはあらゆる負の感情を訴えられ、触覚で正体不明の何かに全身を縛られた、思い出すだけで身体が震える恐怖の数々。
彼女の心をえぐるように、なおも声は聞こえ続ける。
『自分だけが理不尽な目に遭う、地獄のようなこの世界が憎くて、上っ面だけの平等を謳うこの国が可笑しくて、いつも他者の尻拭いを自分にさせるこの会社を壊したくてたまらない。だからあなたはこんな表情をしている。そうでしょう?』
「ち、ちが――」
『偽らなくていいのよ?この世界にはあなたしかいないのだから』
「え?」
そう言われて周囲を見ると、そこは会社の仕事場ではなかった。
目の前に広がるのは大小様々な鏡。それらが四方八方に配置され、覆うように存在し、全ての鏡が彼女を映し出す、鏡のみ構成された世界。
そこの中心に、彼女はいつの間にか立っていた。
どこを見ても自分、自分、自分しかいない異様な光景に、彼女の動悸は激しくなり、身体から血の気が引いていき真っ青になっていく。
「な、に⋯、ここ⋯⋯?」
『ここは鏡の世界。あなたの心の奥深くにある本当の自分を映す、素敵な空間よ』
彼女は反射的に声が聞こえた方向を見る。
そこには、さっき手鏡で見た自分の笑顔を貼り付け、顔以外は靄がかかって見えない、自分と同じくらいの身長をした誰かがいた。
「あな、たは誰、なん、ですか⋯⋯?」
震え声で問いかける彼女に、その誰かはまた優しく柔らかな口調で返した。
『何言っているの?自分は、あなたよ』
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