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「⋯⋯⋯⋯⋯じ、ぶん?」
『ええ、そうよ。あなたは自分。自分はあなた。同じ存在よ。ほら、単純なことでしょう?』
目の前の何かは、先ほどのいびつな笑顔のまま、優しく柔らかい口調でそう言った。
だがどう見ても瓜二つとは言い難かった。
身体の大部分は靄のようなもので覆われて見ることはできない。
声も口調も普段の自分とは全く違う。
普段ならばしない表情を、目の前にいる何かはしている。
ゆっくりと落ち着いて思考すれば否定材料はあった。それを怯えながらも口に出そうとした時、
『あら、完全に映ってないわね。これで、どうかしら……?』
その何かがくるりと一回転すると、身体の大部分を覆っていた靄は晴れ、その下があらわになる。
下に隠れていたのは、何の変哲もないスーツだった。
自分の着てるスーツと寸分違わず、ということを除けば。
「!?」
彼女は驚きで声が出なかった。
何かが着てるスーツは、全て自分の物と同じだった。
アイロンをかけていない為にしわが目立つところも、使い込んできた証の色褪せ具合も、少し前にコーヒーをこぼしてできた染みも、何もかも。
まるで鏡合わせかのように、目の前に自分の顔をした何かは立っている。
さらに⋯⋯
「うん、これでいいわ。これで完全に一緒ね」
「う、そ?そ、その声⋯⋯じ、自分と同じ……」
聞こえきた声、それは普段聞く自分の声と全く一緒だった。口調は違っても、長年聞き慣れた自分の声は間違えようもない。
次々と起こる奇妙な出来事に、これは仕事のし過ぎで見た幻覚なのではないかと思い始める。むしろそうであって欲しかった。
(大丈夫、大丈夫、大丈夫⋯⋯。これも夢だから⋯⋯。目が覚めたら仕事場で横になっていて、そしたらまた仕事をして、終わったら家に帰って、そのまま寝て、今までとじように起きて、そしてまた――)
「そんな無限ループ、本当のあなたは望んでいないでしょう?」
逃避するように巡らした彼女の思考は、目の前の何かの言葉によって絶ち切られ、別の思考へと誘われていく。
ー本当のあなた?望んでいない?
その二つの言葉が彼女の脳内で反芻されていき、やがて疑問へと変わる。
本当の自分とはなんだ、自分の望みはなんだ、と自分に向けた問いかけを繰り返すが、いくら自問をしても答えは出ない。
「それもそうよね。その答えはあなたの心の奥深くにあるものだから、分からないのも無理ないわ」
だから、と目の前の何かは手を大きく振り出した。
するとその動きに呼応して周囲の鏡に様々な映像が映る。
「思い出させてあげる」
それらは、自分が今まで見てきた景色そのものだった。
起床してため息をつきながら家を出る景色も、既に満員になっている電車へ乗車する景色も、パソコンに向かって、積まれた紙の束を横目に仕事をする景色も、 その全てが一人称で、自分が見慣れた景色そのものだった。
その映像と同時に、声が聞こえてくる。聞き慣れた、自分の声が。
「仕事行きたくない」「このまま消えていきたい」「徹夜なんてもう嫌だ」「誰も知らないところへ逃げたい」「ぶつかってきたあいつが悪いのになんで」「無性に腹が立つ」「末代まで呪ってやろうか」「全ての人間を殺してやりたい」「人なんてどうせ自分のことばかりしか考えない」「あんな上司死ねばいいのに」「通勤途中で事故れ」「あいつこそ全ての元凶だ」「病気で苦しみながら死んでしまえ」「この会社全て吹き飛べばいいのに」「何か壊してストレス発散したいなあ」「いつか必ず殺す」「なんで自分だけが押し付けられるの?」「ちゃんと仕事していて悪くないのに」「もう誰の顔も見たくない」「周りの人も手伝ってくれてもいいのに手伝わない憎い」「どうして自分だけ残業長いの」「あいつらも死ね」「人類みんな地獄に落ちろ」
「あ、あ⋯⋯」
どれもこれも自分の声だった。あの悪夢の時と同じように負の感情と呼べる全てが詰まった本音たちが、今度は自分の声として繰り返される。
それらを受けて思い出す。自分の抱えていた本心を。
ー出勤なんて憂鬱だ。本当は仕事なんて行きたくない。休ませて欲しい。
晴れやかな気持ちで家を出た、なんてまるっきり嘘っぱちだった。
ー毎日電車に乗るの嫌だ。隣の人なんてどこかで事故って死んでしまえ。むしろ自分が殺してやろうか。
なんてことない振りをしていて、その実、周りの人間なんていなくなればいいのにと心の底から思っていた。
ー謝罪だけ?今日の仕事手伝うとかそういうのないの?自分はあなたの分やったのに。他の人も同じ。自分にだけやらせて楽してる。憎い。こんな人間ばかりの会社なんて消えてしまえばいいのに。
平然としていながら、心の中ではいつも周りへの殺意で満ちていた。
自分だけの映像と聞こえてくる真っ黒な声が、今まで奥底に眠っていた記憶、本心、感情を呼び覚まし、今の自分を縛る理性を侵していく。
「思い出したかしら?あなたの本当の自分を」
彼女はなんとか聞こえてきた何かの声を否定しようとする。
だが――
「⋯⋯ち、がう⋯⋯⋯⋯」
「違う?どこが違うの?これは本当のあなた。心の奥深くにある、正真正銘のあなたよ。理解しているでしょう?」
「⋯⋯ち、が、う⋯⋯」
「いいのよ、隠さなくても。いつもは建前で隠していることも、ここでは正直に言っていいのよ」
「⋯⋯ち、ちが⋯⋯」
「本音を隠して生きていく人生は辛かったわね。でも、もう大丈夫よ。あなたは素直に生きていいのよ。誰にも縛られずに、自分の心の思うままに行動していいのよ」
いくら何かの言葉を否定しようと言葉を紡いでも、先が続かなかった。
紡ごうとした言葉の全てが偽りであるが故に。
「さあ、言ってみて?あなたの心の奥にある、本当の自分の声を」
いつの間にか周囲の映像と声は止まり、何かの声だけが空間に響き、彼女の心を揺さぶる。
――――これは言ってしまってはいけない。言えば、止まらない。
「じぶん⋯⋯」
――――――いつも隠して生きてきた。だから今回も隠さなきゃ。
「本音⋯⋯」
――――――――かくさなきゃ。かくさなきゃ。かくさなきゃ。
「本当の自分⋯⋯」
―――――――――――――ああ、むねがいたい。くるしい。つらい。
「自分自分自分自分自分自分自分自身自分自分自分自分自分自分自分⋯⋯」
――――――――――――――――――――――――ああ、もういいや。
「⋯⋯⋯⋯憎い」
ぽつりと一言漏らす。その一言によって感情のダムは決壊した。
「ああ、憎い!!上司も後輩も新人も同僚もあいつもどいつもこいつも存在が憎いッ!!!なんで自分だけあんなに仕事をこなさなきゃいけないんだよおおお!?!おかしいだろお!?!?!!あいつらは早く帰るのに自分はいつも終電ギリギリだ!!なんでこんなに理不尽なんだよ!?!!?あの会社の従業員全て全て全て殺してやろうか!!?!」
爆発は止まらない。崩れる塔と同じように、誰にも止めることはできない。
「自分にだけ理不尽を与えるこの世界が憎い!!!全部全部上っ面なだけのこの国が憎い!!!自分にだけ尻拭いさせる会社が憎い!!!みんないなくなってしまえばいい!!!全て全て全て全て全て!!!人も会社もこの世界の秩序もなにかもかもぶっ壊してやりたい!!!!!!」
その後も今まで隠してきた感情の爆発を続ける。全てを吐き出すかのように彼女の怒号は続いていく。
十分後には叫びに全精力を使い果たし、彼女は両膝をつく。叫び過ぎて声はガラガラで、もはや息遣いもかすれ声しか出せていない。
「はあぁ⋯⋯⋯⋯はあぁ⋯⋯⋯⋯⋯」
「よくできたわ。それが本当のあなた。むき出しのあなたよ」
「これ⋯⋯が、ほん⋯⋯とう⋯⋯の、じぶん⋯⋯⋯⋯」
「ええ。これからはあなたはそれを表にだしていいのよ。感情の赴くまま、どんなことをしてもいいわ」
何かは彼女に近寄り、両頬に触れる。
「あなたは自分。自分はあなた。いつでも、どこでも、傍にいるわ。だから、あなたは自由に生きてね」
優しく微笑みながら何かは一瞬光を放ったかと思うと、その場から消えてしまい、それと同時に彼女の意識は遠ざかっていった。
意識が薄れていくその途中――、彼女の心にあったのは自分の感情に対する恐怖でも、本音を隠すことの苦しみでもなく――
何をしても良いという、歓喜の感情だった。
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