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1 一之瀬家の場合
また憂鬱な一日が始まってしまう。
そう感じていたのは一之瀬ユウキだけだったが、最近では美枝子も同じだった。
息子のユウキは中学二年に進級したばかりだ。
成績もそれまで問題はなかったし、陸上部でもそこそこの結果を出していた。
担任教師からの評価も良く、中学生活は順調だと誰もが思っていたのだ。
だがその自慢の息子が四月下旬あたりから頻繁に学校を休むようになった。
治ってはひく、を繰り返す風邪にそろそろ美枝子が気付き始めたとき、彼は学校に行きたくないと漏らすようになった。
理由を聞いても明確な答えは返ってこなかった。
普通、こういう場合には親は友だちとケンカをしたのかとか、勉強についていけなくなったのかと疑う。
前者なら仲直りすればいいし、後者なら教師に頼んで補習を受けさせればいい。
この年頃の世間は狭いから、悩みを抱えているとすれば自然と学校関係ということになる。
しかしそうではないらしい。
明言しないものの彼は他に理由があると思わせるような回答に終始した。
「じゃあ先生にはお母さんから連絡入れておくからね。明日はちゃんと行きなさいよ」
息子の煮え切らない態度に苛立ちだした美枝子は、自室から出てこない息子に言い放つと、今日も学校を休ませてほしいと学校に電話した。
「ちょっと甘やかしすぎたのかしら」
朝食をとる夫に聞こえるように言う。
「子どもにだって五月病くらいあるさ。俺だって休みたいくらいだよ」
呑気に紅茶を飲む幸治は危機感を持っていないようだった。
「俺は美枝子の育て方は間違っちゃいないと思うね。悪いことはしないし、成績だって平均以上だろ。ちょっとサボるくらい、大目に見てやろうじゃないか」
二人の教育方針は共通している。
突出した才がなくても健やかに育ち、生きていくのに不足がなければいいという欲張らない考え方だ。
だから塾や習い事などを強制したことは一度もない。
それで息子にプレッシャーを与えるくらいなら一度しかない子ども時代をのびのびと生きてほしい、というのが彼らの願いだった。
「でも今月だけで十日も休んでるのよ。落ちこぼれちゃわないか心配で」
と言葉どおり不安げにこぼす美枝子に、
「そうか、なら俺からも声をかけるよ」
空になったカップを置いて彼は立ち上がった。
「ユウキ、起きてるか?」
ドア越しに言う。
無遠慮に開けたりはしない。
「最近、休んでばかりじゃないか。ここでつまずいたら遅れを取り戻すのが大変だぞ。来年には高校受験があるんだ。つらくてもここが踏ん張りどころなんだ」
「分かってるよ。でも最近、ずっと体がだるいんだ。元気になったらちゃんと行くから」
「ああ、ゆっくり休んで早く治せよ」
これでいいだろ、と言いたそうな顔をする幸治に、美枝子も少し安堵する。
「とりあえず大学だ。そこそこ名の通った大学を出さえすれば、将来困ることはないからな。もしユウキが勉強についていけなくなったら塾なり家庭教師なりつければいい」
そう言って彼は笑った。
普段はあまり教育のことでとやかく言わない父が珍しく発破をかけたからか、ユウキはそれから真面目に学校に通うようになった。
休みが続いたことで遅れていた授業にも追いつき、中間テストではどうにか平均を少し上回る程度の結果を出している。
「ただいま」
という声に覇気はない。
「おかえりなさい。ケーキを買ってきたから一緒に――」
「いらない。勉強するから」
この数日、彼はずっとこんな調子だった。
帰宅するなり自室に閉じこもるようになり、外出することも殆どなくなった。
その理由を彼は勉強のため、としか言わない。
実際、成績はかなり上がっていた。さすがに進学塾に通う子には及ばないもののクラスでは上位に食い込み、春頃の遅れをまるで感じさせない成長ぶりだ。
先日の担任教師との面談でも、ユウキ君はよくがんばっている、というお褒めの言葉をもらっているから、母としては鼻が高い。
反面、最近は息子の顔をろくに見ていないことに寂しさも感じていた。
学校が休みの日でさえ彼は一日中自室にいるか、そうでなければどこへ行っているのか早朝に出かけて夕方遅くに帰ってくる、というサイクルを繰り返している。
さすがに夕食時には家族そろってテーブルを囲むが、まるで何かに急き立てられているかのように早々と食事をすませ、またすぐに部屋に戻ってしまう。
そんな状況であるから親子間の会話はほとんどなくなってしまった。
「なあ、ユウキ。今度三人で山登りでもしないか?」
幸治が息子と対面するのは、一日の中でも夕食時のこのわずかな間だけである。
「再来週に三連休があるだろ。本格的に暑くなる前にどうだ? お前が小さかった頃に一度登ったんだが憶えてないかもしれないな。この時期は――」
「いいよ、勉強があるから」
これがなかば口癖のようになっていた。
彼は必ずこの言葉を遣って会話を遮り、誘いを断るようになっていた。
「ああ、まあ、たまには息抜きも必要だぞ」
「必要ないよ」
無くなったのは会話だけではない。
今やユウキからは表情も失せていた。
「勉強して、良い高校に入って、良い大学を出て……そしたら終わるから」
突き放すように言うと彼は食器を片づけて、部屋に引き揚げてしまった。
残された二人も互いを見やるだけで言葉が出てこない。
箸が茶碗に触れる甲高い音が何度か響いたところで、美枝子が口を開いた。
「あの子、部活辞めたのよ。行く意味がなくなったからって」
「そうなのか」
妙な言い回しに幸治が訝る。
「何でもいいから部活を三年間続けていれば進学にも就職にも役立つんだがな」
言ってから彼はその時間を勉強に充てればより難関校に近づけるから、そのほうが得策かもしれないと思いなおした。
「まあ本人に意欲があるんだから、それを親が止めるのもおかしな話だ。俺からも合間を見て適度に休憩をとるよう勧めてみるよ」
この幸治という男は学生時分にはほとんど机に向かっていなかった。
昼夜を分かたず地元の仲間と遊び回り、馬鹿なこともやってきた。
ある時ふと、このままではいけないと心を改めて勉学に励み、一般的な教養と常識を身に付けたことでどうにか小さな会社の営業に就職できた。
そういう経験もあってユウキには勉強さえしていれば比較的自由にさせていた。
こんな自分でも職に就くことができたのだから、大学を出させてやれば将来の選択肢はぐっと拡がるにちがいないと。
これが標準的な子どもの育て方なのだと、彼は考えていた。
荒い息遣いが聞こえ美枝子が振り返ると、幸治が木の枝を杖代わりにして立っていた。
「ちょっと運動不足なんじゃないの?」
快活に笑う彼女は多少の起伏などものともしないで山道を登っていく。
「日頃から鍛えてるつもりではいたんだがな」
急に暖かくなってきたこともあって、幸治は大粒の汗をかいている。
「父さん、大丈夫? そこの木陰で休もうか?」
二人分の荷物を手にユウキが笑う。
その表情はどこかぎこちないのだが、久しぶりに見た息子の笑顔に美枝子も思わず破顔した。
たまには家族で、と二人が代わる代わるに誘い、ユウキがようやく折れる恰好で実現した登山。
何ということはない、ちょっとした遠出のようなものだが美枝子には大きな意義があるように感じられた。
こうして親子三人がそろうことなど最近は滅多になかったのだ。
同じ家にいてもドア一枚隔てて会話するようなもので、家族という繋がりは希薄だった。
そもそもこの数日に関して言えば、息子の顔さえまともに見ていない。
「あと五〇〇メートルだって」
はじめこそ渋っていた様子のユウキも山頂が近づくにつれて表情が柔らかくなり、会話もだんだんと増えてきた。
「ほら、もう一息よ」
登山に誘っておきながら、亀の歩みのようになっている幸治を情けなく思うのだが、美枝子は内心では彼に感謝していた。
どちらかというと彼は放任主義だったから、子育ては美枝子に預けて自身はほとんど関わってこなかった。
俺は外で働くのが仕事だ、お前は家のことに専念しろ、と言われたことがある。
まさかその“家のこと”に子育ても含まれているとは思わず、彼女はそれをひとりで引き受ける重圧に何度も負けそうになった。
しかし無関心なようでいて、そこはさすがに父親だ。
やや強引にでも外に連れ出す、という行動力は美枝子にはない。
上手い具合に役割分担ができている。
「着いたよ!」
小走りに先頭を行くユウキが手を振った。
苦笑交じりに二人が続く。
それほど高くない山だが、頂上からの景色は見事なものだった。
都市部ではすっかりかき消されてしまったいくつもの緑が、うねる波のように広がっている。
「苦労して登ってきた甲斐があったな」
今にも倒れ込みそうな様子で幸治が言う。
その横では一足先に到着していた美枝子がスマホを取り出し、風景を写真に収めていた。
「来てよかったよ」
ユウキは心から笑った。
視界を遮るものは何もない。
足元から伸びる緑はどこまでも続いている。
上には何もかもを受け容れてくれる青空が遍く覆っている。
「そうだろ。なにせここは思い出の場所だからな。なあ、美枝子」
幸治が意地悪く言うと、彼女は拗ねたように俯いた。
「俺は今でもはっきり覚えてるぞ。あの手すりの辺りでお前が――」
「もう、言わなくていいわよ! それよりお昼にしましょう」
赤くなった頬を見られまいと美枝子はシートを敷いて弁当を並べ始めた。
「ひょっとしてプロポーズの話?」
「そうだ。母さん、弁当にはいつも卵焼きと唐揚げを入れるだろ。あれにもちゃんと理由があってな。初デートの時に――」
「恥ずかしいからやめてよ」
照れ隠しにか美枝子はよそを向いて弁当を食べ始めていた。
またいつか教えてやる、と言って話を切り上げると、幸治は妻の機嫌をとりだした。
その変わりぶりが可笑しく、ユウキは微苦笑する。
「父さん、母さん、いい思い出ができたよ」
という息子の言葉に二人は連れてきて良かった、と思った。
美枝子は時計を見た。
七時四二分。そろそろ起こさないと間に合わない。
連休が明けて火曜日。
山登りの疲れが出たのか、と彼女は思った。
久方ぶりの家族団欒。
気持ちも新たに一週間の始まりを迎えようとしていた矢先、ユウキがいつまで経っても部屋から出てこないことに彼女は気を揉んだ。
「具合でも悪いの?」
母としては息子の自発性に任せたいところもあったが、少し前の欠席が続いていた時期を思い出すと看過できない。
何度か声をかけるとゆっくりとドアが開き、憚るようにユウキが顔を覗かせた。
表情が暗い。
何日も徹夜したようなぼんやりした目つきに、丸めた背中からは生気が感じられない。
「ちょっと寝坊しちゃったよ。昨日、遊びすぎたかも」
美枝子は安心した。
それなら何も気にする必要はない。
自分も子どもの頃、友人とお泊まり会なるものをやってガールズトークで夜更かしし、寝不足のまま学校に行って教師に怒られたのを思い出す。
「顔を洗えば目が覚めるわよ」
ユウキは言われたとおりにした。
今から朝食を食べ、すぐに家を出れば何とか一時限目に間に合う。
朝食の準備をしつつ、教材の用意はできているのかとか、困っていることはないかと美枝子が問うが、彼はそのほとんどに生返事をするばかりだった。
「ほら、シャキッとしなさい」
遅刻の理由が前日に遊び過ぎたから、では弁明にもならない。
制服の襟を正してやり、鞄に弁当を入れて持たせる。
「母さん」
玄関先でユウキがおもむろに振り返る。
「急がないと本当に遅刻するわよ」
何か言いたそうな息子に、美枝子は自分の手首を指でさした。
「ああ、うん……行ってきます――」
精一杯の作り笑顔でユウキは学校に向かう。
彼が帰ってくることはなかった。
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